第2話 躁状態と鬱状態

 そんな長所と短所を、絶えず意識しているのが、竹内順平という男性であった。

 いつも子供の頃から、いろいろなことを考えていて、何が正しいのかということを考えているのだが、そこで出るわけもない結論を追いかけていて、気が付けば、

「一日が終わっていた」

 ということも少なくなかったのだ。

「出てくるわけもない結論」

 というのは、

「自分の中で、堂々巡りを繰り返している」

 ということを感じているからであった。

 ただ、ずっと感じているわけではない。何かを考えていて、絶えず頭の中にある、

「矛盾」

 というものを、当たり前のように考えている時、そう、ここでいう矛盾というのは、

「路傍の石」

 のような存在であり、

「目の前にあって、意識しているはずなのに、見えていることが、自然以外の何者でもなく、意識していないことを、自然なこととして受け入れている自分を感じることがある時に、その意識が、

「矛盾」

 というものになるのだった。

 矛盾というものは、

「目の前にある二つのものを比較した時に生じるものである」

 といってもいいだろう。

 その二つのものが、

「似て非なるモノ」

 ということなのか、それとも、

「主従関係」

 なのか、あるいは、

「正反対のもの」

 というようなものなのか、それによって、考え方も見え方も変わってくる。

 矛盾というものを、

「避けて通ることのできないもの」

 と感じると、何が自分にとって大切なものなのかということを、いつの間にか感じている自分がいるのだった。

 順平は、そういう意味で、子供の頃から、

「比較対象である二つ(あるいは、複数)のことを気にするようになると、いつもそのことで頭がいっぱいになる」

 ということを感じていた。

 その思いは、小学生の頃が一番強く、中学、高校と、まるで惰性のように感じてきたが、大学生になると、

「似たようなことを俺も感じていた」

 という人がまわりにもいることが分かり、少し安心したと言えばいいのか、仲間意識が強くなることで、人との交わりを大切にしようと考えるようになったのだ。

 特に大学生というと、

「人生の中で、一番本音を語り合える相手を得られる時期だ」

 と思っていた。

 ここでいう、

「本音」

 というのは、

「人にいえば、バカにされてしまうと思って、なかなか話せないことでも、ざっくばらんに話ができる」

 という相手のことである。

 これが、自分発信で、自分中心の発想となるのか、それとも、相手との、会話のキャッチボールが、そういう雰囲気を生み出すというのか、少なくとも、相手始動ということであれば、成立しないものだということになるのではないだろうか?

 順平は、小学生の頃から、高校生までの間、

「絶えず何かを考えている人間だ」

 と思っていた。

 もっとも、これは自分に限らず、

「周りの人皆そうなのだろう」

 と自然に思っていた。

 確かにそう思っていたはずなのだが、大学生になり、開放感からいろいろな話ができる友達が増えてきたことで、

「やっぱり、皆、同じようなことを考えているんだ」

 という、

「自分だけではない」

 という思いが、確かに不安感を和らげてくれた。

 しかし、和らげてくれたというだけで、決して、解消できるというものではなかったのだった。

 中途半端な和らげが、今度は、さらにその後襲ってくる不安感を増幅させることになったのか、そもそも、和らげがあろうがなかろうが、結果、その度合いが変わらなかったのかどうかというのは、誰にも分からない。

「もっとひどかった」

 とも思えるが、

「これ以上のひどさはない」

 という思いから、

「どちらにしても、結果に変わりはない」

 としか言えないのではないだろうか?

 大学時代に感じたことと、社会人になって感じたことでは、少し違う。

 前章であった、

「長所と短所」

 という考え方も、社会人になってから、考えた時には、見る視点がさらに遠くから、つまりは、

「地球の外から」

 というくらいの感覚で、実際に見ているのは、

「可視できるものすべて」

 という印象から、長所と短所を考えると、

「長所と短所以外は、毒にも薬にもならない」

 という発想であった。

 要するに、

「自分の中にあるものは、すべて、長所と短所に分けることができる」

 という発想になるだろう。

 そこで考えた時に、

「短所は長所の裏返し」

「長所と短所は紙一重」

 と考えると、

「長所があれば、必ずそばに短所がある」

 と、いうことであれば、その逆である、

「短所があれば、必ずそばに長所がある」

 ということが言えるのだと考えると、

「長所と短所の数がまったく同じでないと、辻褄が合わない」

 と言えるのではないだろうか?

 それを考えると、

「長所ではないものが存在すれば、それは、短所でもない」

 と言えるのだ。

 そうなると、自分にとっては、

「毒にも薬にもならないもの」

 ということになり、

「まったく不要なものではないか?」

 と言えるのではないか?

 まったく不要なものが、自分の中でどれだけたくさんあるのかということを考えていくと、無意識に、長所を必死に探そうとしている自分と、短所も一緒に探そうとしている自分がいるのを感じる。

「同じことではないか」

 と言われるかも知れないが、探すものによって、自分の性格が分かってくるというものである、

 もし、短所を探しているとすれば、

「短所をとにかく直さないといけない」

 という発想で、逆に長所を探しているとすれば、

「いいところを、とにかく伸ばすことが大切だ」

 と思っている二人の自分である。

 どちらも大切だが、

「どちらがいいとか?」

 ということで、その人の性格が変わってくる。

 どうしても、短所に目が行ってしまう人は、考え方が消極的で、ネガティブだといってもいいだろう。

 しかし、逆に、長所を先に考えてしまう人は、積極的で、ポジティブだといってもいいだろう。

 ただ、それはあくまでも、短所が長所と紙一重だと思っているから、長所を伸ばすことが、短所を覆い隠すと思っているからで、一概には、

「ポジティブだ」

 と言えるものではないのかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「長所と短所という相対するものだけが、どこまで自分というものを考えさせるのか?」

 ということになるのだろう?

 と考えるのであった。

 順平は、そんな中で、大学時代の自分が、

「一番開放的な時代だ」

 と思っていたものが、終わってみれば、

「これほど、不安だった時期はなかったのではないか?」

 と感じるようになっていた。

 というのも、

「大学時代というものを、いまさら思い出したくない」

 というものだった。

「思い出したくもない」

 と感じていることこそ、思い出してしまうものであり、その意識が強ければ強いほど、不安だった時期のことだけを強く覚えているような気がするのだ。

 それが、まるで夢の世界のように感じられ、

「夢というのが、本当に睡眠の中で毎回見ているものなのか、怪しいものだ」

 と感じさせられるのだった。

 そう、思う根拠は、目が覚めてから、

「夢を見ていたという意識がない」

 ということからだった。

 夢を見ていたとしても、その意識は、

「すべての夢を見たのかどうか、果たして分からない」

 ということであった。

 特に、覚えている夢というのが、怖い夢ばかりであり、

「それだけ、印象が深かったからだ」

 ということになるのであろうが、果たしてそうなのだろうか?

 これも、長所と短所のように、

「短所ばかりを意識してしまうから、長所を伸ばしたいと考えるようになったのかも知れない」

 と考えている自分を彷彿させるのが、

「見ていた夢の記憶」

 でもあったのだ。

「長所と短所」

 なるものが、

「相対する二つの特徴」

 だということになると、

「他にもないだろうか?」

 と考えると、その時に、思い出されるのが、なぜか大学時代だった。

 最初はそれがなぜなのか、しばらくは分からないのだが、徐々に見えてくるのを感じてくると、それが、

「躁鬱症」

 であるということに気づかされるのであった。

 躁鬱症というものが、どのようなものであるかということは、正直、医者でもないので詳しくは分からない。

 だが、大学時代に順平は、

「自分は躁鬱症なのだ」

 ということを、感じさせられたという意識があったのだ。

 躁鬱症というと、

「躁と鬱という、正反対の状況を、同時に併せ持っているという病気のようなものだ」

 だと認識していた。

 確かに躁鬱症は、病気なのだろう。

「精神疾患」

 といってもいいのではないだろうか?

 順平の中で意識しているのは、

「躁状態と鬱状態が交互にやってくるもので、その間を必ず、堂々巡りを繰り返し、その出口は意識することはない」

 という考えであった。

 つまり、躁状態の時に、

「ああ、鬱になってしまう」

 あるいは、鬱状態の時に、

「まもなく、やっと鬱から抜けられる」

 ということを意識している以上は、そのスパイラルから抜けることはできない、ということなのだろう。

 躁鬱状態というものがあるという話は、大学生になるまでにも知っていた。

 もちろん、現象を言葉として知っていたというだけのことなので、実際にどんなものなのかということが分かるはずもなかった。

 躁状態と鬱状態、

「果たしてどちらが先だったのだろう?」

 ということを覚えていなかった。

 もちろん、最初なので覚えているわけもないが、

「じゃあ、次回には、意識してみよう」

 と考えたのだが、いつも、その時になると、忘れてしまっているようで、後になって、「どうして、忘れてしまったのだろう?」

 と感じてしまうのだった。

 それを思うと、

「そもそも、何かを忘れないようにしようと思えば思うほど、肝心なことを、覚えていないといけないその時に、意識をしないものなのだろう?」

 と感じるのだった。

 躁鬱症になった時、

「躁状態から、鬱状態になる時と、鬱状態から躁状態になる時の、どちらが、意識できるものなのか?」

 と考えるのだった。

 実際には、

「躁状態から鬱状態になる時は意識できないのだが、鬱状態から躁状態になる時には分かる」

 というものだった。

 それは、まるで、

「トンネルの中にいる時の状況に似ている」

 ということで、鬱状態から躁状態になる時の方が分かりやすいという、簡単な理屈のようなものだったのだ。

 トンネルの中というと、

「黄色いランプ」

 が、規則的についていて、

「眠くなったりしないのだろうか?」

 と思うのだが、その理由は、トンネルから出た時、幻から目が覚めたような気がするということからだった。

 トンネルの中の黄色いランプを思い出すと、

「まるで夕方の夕凪の時間のようだ」

 と感じるのだった。

 夕暮れの風がピタリと止まる時間を、夕凪というが、同じくらいの時間に、

「事故が起こりやすい」

 という時間がある。

 理由は、光の加減によって、

「モノクロに見える時間帯がある」

 ということであり、それが高じて事故が起こりやすいということになり、魔物に出会う時間ということで、

「逢魔が時」

 と言われているというのだ。

 この時、ちょうど、トンネルの中のような黄色い光を思わせる。それが、もし、眠気を起こさせないようにしているのだとすれば、そこには、

「長所と短所が紙一重」

 と言われた、あの感覚と似ているのではないだろうか?

 それを思うと、

「夕方の時間、特に逢魔が時というのが、躁状態から鬱に変わる時間ではないか?」

 と考えさせられる。

 それを誰も感じないというのは、逢魔が時のような、

「すべてのものがモノクロに見える」

 という時間帯が、

「まったく無意識のうちに過ぎていく」

 つまりは、

「路傍の石」

 のような状態になるのだということと、

「繋がっているのではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 躁状態と鬱状態を時間帯で考えた時、鬱状態の時は分かりやすい気がした。

 これは、鬱状態が、

「夏に多い」

 というように感じさせるのだが、実際にはそうではないようだ。

 というのは、自分の目の錯覚というものが、完全に、

「時間帯によって、感じさせるものがある」

 ということであった。

 それは、日本という国に、四季があり、その季節の違いを、身体で感じるというような感覚に似ていた。

 朝は、どうしても眠気があるので、頭が冴えないのだが、そのかわり、冴えてくると、一番過ごしやすい時間ということもあり、頭のまわりが次第によくなってくる。

 しかし、それが昼前くらいになると、暑さがどんどん増してきて、季節としても、湿気を大いに含んでいるので、身体に沁みついた汗が、身体の動きを鈍くさせる。

 そうなると、脱水症状を起こし、身体に痺れを引き起こすことで、飛蚊症のように、今までハッキリと見えていたものが、まったく見えなくなってくるのだった。

 その状態に陥ると、何とか自分の中で、暑さに負けないようにという意識が強くなり、身体のすべてに力を配分できなくなり、色や光を感じようとする感覚がマヒしてくるのだった。

 そのため、

「意識はしっかりしているが、眩暈がしそうな錯覚に陥る」

 というものであった。

 逆に、それが、午後二時くらいを境に、次第に気温が下がってきて、夕方近くになってくると、

「夕日による最後の抵抗」

 とでもいうべき、日差しが襲ってくる。

 しかし、太陽の角度による照射には限界があり、身体に感じる体感気温は、次第に冷めてくるのだった。

「汗が次第に、身体を冷やすようになってくる」

 というのを感じると、汗が衣類にへばりついてくるのである。

 そうなってくると、今度は、掻いた汗が蒸発することなく、衣類にまとわりつくことで、身体が動かせなくなってくるのだ。

 まるで、水の抵抗を受けて、身体が、前に進まない平泳ぎのように、

「汗だけは掻くのに、一向に身体が楽にならない」

 というのは、掻いた汗が冷えてしまうからだろう。

 汗を掻いて冷えた身体というのは、体温の低下は、想像以上のもののようだ。身体が冷たくなってしまったことで、筋肉が硬直してしまったようで、身体の摩擦が身動きできない身体を、精神から動きを妨げているかのようだった。

 ということは、

「自分で思っているよりも、身体を動かすことができない」

 という状態になっていて、そのせいで、夕方になると、意識が朦朧としてくるというものだった。

 これは、子供の頃の感覚に似ている。

 表で遊んだことのある記憶から、

「夕方になると、身体が動かなくなる」

 というものがあった。

 子供の頃には、

「夕方の公園で遊んでいると、晩御飯を作っているおいしそうな匂いがしてくることで、身体が動かせない」

 という、感覚に陥るのだ。

 そして、お腹が空いているという感覚が、

「汗によって、身体が動かせないから、動けない」

 ということを理由とするかのように思うので、お腹が減ったということの隠れ蓑としているような意識だったのだ。

 それを思うと、

「特に夕方になると、大人になってからでも、身体を動かせないという錯覚を、夏の間には、無意識にでも感じるようになったのだ」

 と感じるようになった。

 そんな夕方の光景と、夕方というものの怖いという意識とが重なって、

「一日の中が、四季であったり、躁鬱の鬱状態であったりという感覚に陥るというのは、この夕方という時間に凝縮されているといっても過言ではないかも知れない」

 と感じるのだった。

 さらに夕方というと、実際に、日が暮れる寸前には、

「ロウソクの炎が消える寸前」

 とでもいうような、

「最後の力を振り絞った」

 という形で、

「これでもか」

 とばかりに、日差しを向けてくるのだ。

 しかし、地球が回っている以上、日は必ず暮れるもので、その中でも、暮れた後の日差しの中で、少しでも明るさを保とうとするのか、実際に暗くなっていくよりも、温度の低下の方が激しかったりするのだった。

 夕方に差し掛かると、本当に日が暮れるまでというのが、どれくらいなのだろうか? これは人によって個人差があるもので、15分くらいに感じる人もいれば、30分だと思う人もいることだろう。

 しかし、あっという間であることにかわりはなく、その間に、いろいろなものを見せてくれるのが、夕方というものだった。

 日が暮れ始めると、まずは、風が吹いてくるような気がする。

 その時初めて、

「ああ、日が暮れそうになっているんだ」

 と感じるようになり、その風が、汗を冷やそうとするのだということを、理解する。

 しかし、理解はできても、急激に身体を冷やそうとする寒気には勝てるものではない。湿気のせいで、身体にまとわりついた汗が、動かない身体を必死になって、動かそうとする。

 その風が、そのうちに止んでくるという。いわゆる、

「夕凪の時間」

 というものであるが、その時なのか、どちらが先なのか、

「モノクロに見える瞬間がある」

 というのである。

 モノクロに見える瞬間を、普通は意識することはない。

 だから、

「夕方の時間になると、事故が多発する時間帯がある」

 といっても、誰も、その原因については心当たりがないということである。

 心当たりがあるのであれば、当然のことながら、それなりの対策を取るであろうし、もっと言えば、業者側も、事故防止の原因が分かっているということで、その対策を講じるようなものを作り出すことであろう。

 それを考えると、

「夕方に事故が多いというのは、魔物に出会うという、都市伝説によるものではないのだろうか?」

 と、実しやかにウワサされているに違いない。

 だが、一つ気になるのは、交通事故というのが、今の時代においてのものであるということである。

 実際に車の文化が日本に入ってきたのは、明治の頃で、本当に交通戦争などと言われるような時代になってきたのは、昭和以降ではないだろうか。

 それを思うと、

「魔物に出会う」

 などという、都市伝説的なことは、せめて明治時代くらいではないかと思うと、

「逢魔が時」

 と、

「交通事故」

 との関連性は、薄い気がするのだ。

 それを結びつけて考える方が、ある意味、どうかしているというようなもので、

「ひょっとすると、明治時代にも、交通事故が、深刻な社会問題だったのかも知れない」

 と感じるのだった。

 その頃の、いわゆる、

「逢魔が時」

 と呼ばれる都市伝説と、人間の中に存在している、鬱状態という精神疾患のようなものが、結びついているとするならば、

「躁うつ病というのは、かなり昔から存在していたのかも知れない」

 と思うのだ。

 もっとも、鬱状態と、都市伝説が結びついているという順平の勝手な思い込みから、そんなことが考えられるのであった。


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