矛盾による循環
森本 晃次
第1話 長所と単所
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年2月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。ただ、今回のお話はフィクションではありますが、作者の個人的な苛立ちが大いに入っていることをご了承ください。今回の精神医療の話は、実際に調査したものではなく、小説の中でのストーリー展開として、都合よく描いているところがあるので、信じないようにお願いします。また、行われている研究も、実に都合よく書いているだけなので、そのあたりも、御容赦頂ければ幸いです。
「長所は短所は紙一重」
という言葉はよく耳にすることがある。
意味としては、分かるし、耳に慣れているということから、別に違和感を感じることはないといえるだろう。
しかし、冷静に考えてみると、
「どこかがおかしい」
と感じないだろうか?
長所というのは、自分にとって、いいことであり、武器にもなることなのだ。しかし、実際に、そうなのだろうか?
確かに、長所というのは、自分にとって、いいことだというのであれば、それは、ある意味他人にとって、
「そこまでのことはない」
と言えることではないだろうか?
むしろ、その人にいいことであるものは、ライバルにとっては、
「そんなものがあると、自分が上にいけないじゃないか?」
と思うことだろう。
それは嫉妬に繋がってみたり、自分の中で勝手に焦りとなってしまうことだってあることだろう。
だが、それは、相手と、
「まだまだ仲良くなっていない」
ということを示している。
仲良くならないまでも、ライバルとして、お互いにリスペクトをするのであれば、相手の立場を分かってあげたり、心境を分かってあげたりしないと、相手に、
「こちらのことも分かれ」
というのは、勝手な都合でしかないだろう。
そんなことを考えていると、
人と仲良くなるということは、まずは、相手に興味を持つことが大切だ。興味もない相手と、そもそも、仲良くなろうという発想などなく、もし、これが、
「相手を利用しよう」
という考えであれば、それは、
「仲良く」
ということではなく、
「あくまでも、自分の利益優先」
ということになってしまい、そこで、お互いの立場関係を明確にしたいという意思が生まれてくるのだろう。
いわゆる、
「マウントを取る」
という考えになるのであって、最初から、お互いの力関係を考えての人間関係に、
「仲良く」
というワードがついてくるわけはない。
もちろん、次第に、お互いに共通点を持っているとすれば、その共通点がお互いに励みとなり、
「一足す一が二」
ではなく。
「三にも四にもなる」
ということを追い求める関係になるというのは、いいことではないだろうか。
それがいわゆる、
「ライバル」
というものであり、逆に、
「ライバルがいないと、士気が上がらない」
ともいえるかも知れない。
軍隊などでもそうではないか。平時には、日ごろから訓練を行っているが、その時には、必ず、仮想敵なるものがあって、その存在を撃破するべく、訓練を行っているわけである。
もちろん、実際に敵が現れて、そこが、まったく仮想敵とは違ったものである可能性もなきにしもあらずであるが、だからといって、
「すべての国を仮想敵として訓練する」
というのは、まず不可能なことで、
「どこか一つ、有事になる可能性があるか、あるいは、訓練するのに、ふさわしい国を定めて仮想敵とする」
というのが、一番ふさわしいことなのではないだろうか?
あくまでも、戦争における、
「仮想敵」
という発想だから、どうしても、そうなってしまうのであって、スポーツや、趣味のライバルであれば、まずは、自分のレベル向上に向けての努力を惜しむことなく行い、そして、初めて、ライバルである相手を意識して、相手の情報を収集し、さらに、同時に自分の力量というものをわきまえたところで、初めて、自分のレベルが相手に対して、どのあたりにいるのかということを考えることで、
「仮想敵」
というものを、まともに意識することができるのだろう。
「相手が見えていないと、とても相手になるものではない」
ということで、ライバルが見えるようになることは、自分が成長する過程での、
「通過点」
であり、
「自分を顧みることができる」
いや、
「しなければいけない」
という場所なのだろう。
「ライバルというものは、こちらの長所も短所も分かっているのだろうか?」
と考えることがある。
例えば、野球などでもそうなのだが、
「得意なコースの近くに、弱点がある」
などと言われたりする。
それじゃあ、
「相手の弱点が分かっているのだから、こちらのものだ」
というと、
「おっとどっこい、そういうわけにはいかない」
つまりは、人間の心理的なものが問題になるのであろう。
ただ、その前に、根本的に考えることがあった。
というのは、
「ライバルが一人とは限らない」
というものだった。
というのは、昔の昭和時代に流行った、
「スポーツ根性もの」
などのことであるが、よくあるのが、
「魔球のようなものを開発して、ライバルと戦う」
というものであった。
身体を駆使したり、理論的に相手がそのボールを理解しなければ、
「まず打倒することはできない」
というものがあるだろう。
そんなマンガや、テレビアニメには、まず、パターンがある。
「ライバルが数人いることや、特訓してライバルに打てないような、もっといえば、ライバルに打てないのだから、他の選手に打てるわけはないという設定」
というものがある、
そして、
「こちらが血の滲むような特訓で、魔球を編み出すと、ライバルたちは、外の選手との勝負を二の次にして、ライバルとの勝負に勝つために、必死になる」
というのだ。
主人公が開発した魔球は、ほとんどの場合、
「普通の打法では打倒が不可能」
というような球を投げてくるのだ。
その魔球を攻略しようと考えると、自ずと、それまでの打ち方がおろそかになってしまい、いわゆる、
「基本の打法」
というものから外れてくることになる。
ということは、
「普通に投げてくう選手のボールが打てなくなる」
ということである。
魔球が打てないだけではなく、カーブやシュート、スライダーが、今まで打てていたのに打てなくなる。それまで首位打者を争うくらいに打てていたものが、急に打率一割くらいに落ち込んでしまう。
そうなってしまうと、さすがに監督も使ってくれないのではないだろうか。
何よりも、
「一人の選手のボールを打つだけのために、主砲が役に立たないということになると、そのために、優勝を争えるようなチームが、最下位争いをしてしまうということになりかねない」
ということだ。
そんな状態を監督やフロントが許すはずもない。
それなのに、マンガやアニメでは、そのライバル選手の特訓を美化して描くのだ。
言い方を変えれば、
「一人の選手のわがままを、まわりが許している」
ということであり、こんなことを普通の会社、あるいは、警察などがしていれば、大変なことになってしまう。
それを、誰が擁護するというのだろう?
確かにマンガの世界だから許されるということなのだろうが、本当にそれでいいのだろうか?
そして、もう一つ不思議に思うことがあるのだが、それは、主人公の方にいえることなのだが、
「魔球を一度打ち崩されると、まるで、地獄を見たかのように落ち込んでしまって、ショックに陥り、失踪してしまうのだ。そして、その先で、新魔球の開発を行い、すぐに戻っている」
というストーリー展開なのだが、これも普通に考えれば、ありえない発想だといえるのではないだろうか?
まず一つ言えるのは、
「なぜ、一度討たれただけで、ショックに陥り、まるでこの世の終わりのように感じる必要があるのか?」
ということである。
前述のように、
「打たれたのは、一人によるものだけで、しかも、その選手は魔球を打ち砕くために、血の滲むような特訓をしてきて、やっと打てるようになったのだ」
と言えるだろう。
しかしである。
相手ライバルも、魔球を打てるようになったからといって、そこで終わりというわけではない。
「打てないと思っていたボールをたまたま一度打つことができたということなのではないだろうか?」
それも、特訓に特訓を重ねてである。
実際に次に打てるかどうかわからないのにである。
魔球以外の球であっても、百発百中打てるわけではない。そんなに打てたとしても、いまだに四割バッターはいないのだ。
スランプに陥ることだってあるだろうし、
「五打数二安打で四割」
ということを考えれば、魔球が打てたことで、劇的に何かが変わるわけではない。
それこそ、
「相手投手である主人公がショックで、しばらく投げられない」
というだけのことではないか。
そうやって考えると、スポーツ根性モノと言いながら、魔球を打たれると、自分が球団に所属している、一種のサラリーマンと同じだということを忘れて、
「職場放棄」
をするというのは、いかがなものだろう。
それを考えると、
「一体、目指すゴールはどこなのか?」
ということである。
「キチンと試合に出てローテーションを守り、昔だから、完投するのが当たり前で、自分でどれだけの貯金が作れるか? ということが大切なのではないだろうか?」
確かに、誰にも打たれない魔球を作ると、負けは圧倒的に少なくなるだろう。だが、そんな神のようなピッチャーがいるからといって、優勝できるとは限らない。それよりも、「魔球を投げるピッチャーよりも、キチンと任されたマウンドで、しっかり投げ切ってくれるピッチャーがいいに決まっている」
というものだ。
あくまでも魔球にこだわるというのは、まるで、
「自分の我を通そうとする、わがままサラリーマンと同じではないか」
ということになるのだろうが、なぜ、マンガの監督などは、その選手に甘く、そして、魔球開発のために、協力までしようというのか? 実に不思議だ、
何といっても、まだ一人にしか打たれたわけではなく、それも、まぐれかも知れないという状況で、絶望を感じる必要があるというのだろう。
確かに、マンガとしてはありなのかも知れないが、果たして教育上、それでいいのだろうか?
特に、あの当時のマンガ社会というのは、
「悪書と呼ばれるマンガを、PTAなどが、子供から守ろうという撲滅運動を行っている時代だったではないか?」
そんな、いわゆる、
「スポーツ根性」
と呼ばれるものを、悪書だという人はなぜかいない。
逆であったり、おふざけ系は、悪書と言われたが、魔球を開発したり、魔球だけにこだわって輪を乱すというようなマンガがなぜ、悪書ではないというのだろうか?
そんなマンガを読んでいると、矛盾と思えたり、
「何が正しくて何が間違っているか?」
ということが分からなくなってくる。
元々、正悪の問題ではないのだろうが、昔の発想としては、
「勧善懲悪」
ということが問題なのだといっていいのではないだろうか?
「勧善懲悪」
というのは、読んで字のごとし、
「善を助け、悪を懲らしめる」
ということであり、よく言われる言葉に直すと、
「弱きを助け、強きをくじく」
というものである。
ただ、こうなってくると、ここでまた矛盾が生まれてくる。
この二つの言葉を並べてみると、明らかにおかしいのは、
「善が弱であり、悪が強である」
ということになり、言葉は似ているが、後者の言葉は、
「弱肉強食」
ということを示していて、それに対しての、戒めの言葉なのだった。
というのも、そもそもが、
「強ければ助かり、弱ければ殺される」
という発想で、それこそ、昔の戦国時代の発想だといえるのではないだろうか?
だから、マンガや時代劇などでも、
「弱肉強食」
の世界をただすということで、
「勧善懲悪」
の悪として、
「御代官様」
であったり、
「越後屋」
などという悪役が存在する。
そして、それらの餌食になっている一般市民が、虫けらのように殺されていく状態を黙っていられないということで、正義として、
「水戸黄門」
「遠山の金さん」
などという主人公が現れ、
「悪を成敗する」
ということになるのだ。
しかし、
「勧善懲悪」
ではあるが、そのためにやっていることは、
「権力や力によって、悪を倒す」
ということである。
つまり、
「弱きを助け強きをくじく」
ということであるが、そこに出てくるのは、強き連中よりもさらに強い、立場的に逆らうことのできない人が出てきて、
「成敗する」
ということなので、弱肉教職ということでしかないということなのだ。
あくまでも、ドラマとすれば、力の強いものが、弱い者を助けて、間違った世の中をただすということで、胸がスカッとする話なのだが、理屈からいえば、どこまで正しいのかということである。
確かに、
「代官や越後屋が、悪党だ」
ということが、分かっているストーリーであるが、本来であれば、ちゃんと証拠を集めて、相手が産むも言わせぬ、
「動かぬ証拠を突き付けて、相手は。参りましたという」
ということが正しい世直しなのではないだろうか?
確かに、時代が封建制度の時代ではあるが、ちゃんと奉行がいて、お白洲があって、裁きを受けるのだから、刺青を見せるなどということではない本当の証拠を突き付けるというのが、本当なのではないだろうか?
つまり、
「弱肉強食」
というものをやっつけることが、
「勧善懲悪」
というものなのだ。
という理屈なのだと考えると、そこには、理屈に合わないという発想が生まれてくるのであった。
そういう意味で考えてみると、
「長所と短所」
という考え方も、
「この二つの矛盾に近いものがあるのではないか?」
と考えるようになった。
そこで最初に考えた、
「長所と短所は裏返し」
というのは、言葉がどこか違っているような気がしたのだ。
というのは、きっと、
「長所と短所は紙一重」
という言葉に惑わされているところがあるのではないかと思うのだった。
というのは、
「後者の場合は、長所から見るとか、短所から見るとかいう形ではなく、全体を見渡してみた場合のことである」
と言えるだろう、
しかし、裏返しという言葉になると、
「長所から見て短所は見えないし、短所から見て長所も見えない」
ということを言っているのではないだろうか。
お互いに、どちらから見ても見えないということで、無意識に、
「長所と短所は、遠いところにあるものだ」
と勝手に思い込んでいるということであろう。
確かに、まったく正反対のものだと思っているわけなので、どちらかの立場に立って相手を見れば。当然、向こうが見えないのは当たり前のことである。
そして、相手が見えないことに、どこか安心感のようなものがある。長所から見ても、短所から見ても、相手は、
「きっと恐ろしいもの」
だということになるのではないだろうか?
それを考えると、たとえはかなり大げさになってしまうが、
「核による抑止力」
を思い出すのだった。
「どちらも、同じくらいの力を持っていて、その抑止力が働いていることで、どちらも、表に出ようとしない、下手に表に出ると、相手も出てきて、お互いに潰し合うことが分かっているからだ」
ということである。
しかも、距離が近いと思っていた相手が、冷静になって、真剣に全体を見渡してみると、
「実は、めちゃくちゃ近いもので、一触即発の距離にいる」
ということが分かると、
「実はお互いにけん制し合っていたんだ」
ということが分かってくる。
普段は、どちらかからしか見ることのできないと思っているものが、手を握った時、どちらを感じるのかということを考えてみた。
右手と左手、どちらかが熱く、どちらかが冷たい。本来ならどちらなのか分かっているつもりでも、意識した時、すでに握り合ってしまっていれば、どちらの手がどっちだったのかという意識はなくなってしまうのだった。
というのは、すでに、両手に暖かさと冷たさが共存していて、その感覚を全体からみていたはずなのに、それぞれの手から見ることができなくなってしまったという感覚に似ている。
つまり、長所と短所も、最初は、
「紙一重だということを基本として分かっていた」
のであるが、実際に、その二つを意識しなければいけない状態になった時、その二つが、
「やっぱり背中合わせだったんだ」
というように感じるというのが、
「長所と短所」
というものへの見方なのではないだろうか?
そんな長所と短所というものを考えてみると、目の前にあるもの、それが、
「近くに勝感じられたり、遠くに感じられたりするのを感じさせる」
ということがあった。
それを考えると、
「宇宙空間」
というものを想像させられることがあった。
いわゆる、SFものでも、スペースものとでもいえばいいのか、
「地球から離れて行く時、あるいは、地球に近づいている時」
というのは、実際の走行距離とは違い、地球に近ければ近いほど、見た目、ものすごく速く見えてしまう。
あっという間に、あれだけ遠かった地球が豆粒のようになったり、逆に豆粒だった地球、他の星と変わらない大きさだった地球が、近づいてくるにつれ、
「緑の地球」
として、明らかに他の星とは違っているという光景を見せられる、特撮技術に、子供の頃、ワクワクした人も少なくはないだろう。
それを思うと、近づけば近づくほど、何事も鮮明に見えるということであろうが、逆に見えないものもある。
「道端に落ちている石」
いわゆる、
「路傍の石」
というものであるが、どんなに足元にあろうが、目の前に見えているものであろうが、いちいち意識をすることはない。
そのことが、
「実際に、目の前にあっても、意識をさせない」
ということと、
「灯台下暗し」
ということの、
「似てはいるが、どこかが違う」
と思う、
「似て非なるモノ」
ということになるのであろう。
そう、今回のお話でもある、
「長所と短所は紙一重」
「短所は長所の裏返し」
という言葉も、
「灯台下暗し」
との間にある、
「似て非なるモノ」
という発想になるのではないかと思うのだった。
つまりは、目に見えているものが、錯覚であり、矛盾を生み出すということなのかも知れないと感じるのだった。
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