第9話
らら子さんが手に取ったのは、マリンタワー立体オブジェだった。タワーを形どった銀色の置物。
「スイーツじゃなくていいんですか」
「ののかのベッドサイドに置いたらすてきだなと思って」
らら子さんはちょっと恥ずかしそうに、言う。
多分、らら子さんは、もうお腹がいっぱいでスイーツの試食ができないのだ。
だが、オブジェはなかなか洒落た感じだった。これなら部屋に置いてもカッコ悪くない。
「これで、1050円ならいいかかもですね」
隆之介が賛成すると、らら子さんは大きくうなずいた。
マリンタワーを出ると、もう、街はすっかり夜になっていた。
そぞろ歩きをする人たちが、歩道に溢れている。
山下公園前は昼間はすがすがしくてそぞろ歩きにはいい場所だが、夜もまたすてきだ。港に停泊する氷川丸がライトアップされている輝きが、公園の木々の合間から漏れて、男でもうっとりしてしまうロマンティックさだ。冬の寒さも気にならない。
こんな場所をらら子さんと歩けるなんて、ののかのわがままにも感謝しなきゃな。
横を歩くらら子さんと、ときどき触れる腕のあたりを意識しながら、隆之介は思った。
もし、今回の騒動がなかったら、自分がらら子さんを誘うことなどなかったと思う。らら子さんに対するほのかな好意は、ほんとうに自分でも気づかないくらい淡いものだったし、何より、らら子さんは自分の患者の姉だ。お客さんなのだ。
客さんには個人的な感情を持たない。
そう決めて仕事をしてきたのだから。
なぜなら、そう強く思わないと、自分の仕事は成り立たないと思っているから。直接お客さんの体に触れる仕事なのだ。感情を押し殺さないと、誤解を生む。
「次は中華街でお土産を探すべきですよね」
らら子さんは、スマホを眺めている。
「中華街のお土産ベストテンがこのサイトにあるんですけど」
「中華街も外せませんね」
応えたとき、隆之介のお腹がくううと鳴った。
「あ」
らら子さんが顔を上げる。
「すみません、昼、少なかったんで」
「そんな、すみませんだなんて。こんなところまで来ていただいて。食事のできるところ、探します」
そしてらら子さんは、中華街のレストランを探し始めた。
「あの、もしよかったら」
隆之介は立ち止った。
「中華街にはもちろん行くべきだとは思うんですが、食事をするなら行きたいところが」
「あるんですか?」
「昔、両親と行った記憶があって。おいしいハンバーグの店なんですが」
言ってしまってから、隆之介は後悔した。胸やけを起こしている人に、ハンバーグを食べる提案をしてしまうとは。
「いいですよ、そこに行きましょう」
らら子さんは賛成してくれた。
「わたしは食べられませんけど、もし、飲み物だけでも注文できるなら」
「調べてみます」
隆之介はポケットからスマホを取り出した。
店はすぐに見つかった。有名店らしい。
ハンバーグの店だと思っていたが、ハワイアン料理の店のようだ。もちろん、飲み物だけでも大丈夫のようだ。
山下公園前の海岸通りを大桟橋のほうへ向かってまっすぐ行くと、右手にちょっとレトロな建物が見えてくる。
横浜貿易協会ビルだ。店は、その二階にある。
懐かしい記憶が蘇ってきた。
もし、横浜のどこがいちばんおススメかと訊かれたら、隆之介はこの横浜貿易協会ビル前だと答えるだろう。ここには、みなとみらい地区にはない、みなと横浜の風情があるから。
「あれですね」
らら子さんが、弾んだ声を上げた。
建物の前には青いオーニングがあり、ライトアップされている。カフェになっているのだろう。その下でテーブルでくつろぐ人の姿も見える。
「あの二階です」
隆之介が指さすと、
「じゃ、わたし、予約します」
と、らら子さんがスマホの画面に指を動かし始めた。
「いえ、僕が取ります」
「だめ、わたしに取らせてください」
「いいんです、僕が行きたいって言い出したんですから」
あの店に行くのは、らら子さんのためでもののかのためでもないのだ。
隆之介はネット予約を始めた。
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