心買います

われもこう

心、買います


 〈心、買います〉と看板に書かれた、いかにも怪しげなその店は、骨董屋が立ち並ぶ小さな町の中にあった。至るところにヒビが入った雑居ビルの2階、そこが店舗の所在地である。若い女は、一枚のチラシを握りしめ、細い階段を登っていった。

 階段を登りきると、ドアが開け放たれていて、店の中がよく見えた。右手には天井までのびる陳列棚、左手には壁のかわりに大きな硝子窓。霞んだ町の通りが、よく見渡せる。

 簡単テーブルに置かれた水槽には苔が生えており、中には金魚がいた。

 店主は客に気づくと、軽く会釈をした。女は入店した。


「心は私たち常人の手に余るものです。心が幅を利かせるあまり、私たちはこの世界をありのままに見ることが出来ません。私たちが住む世界は、いわば心を通して眺めた世界です。心を通して、というよりかは、各々の心が作り出した世界に、私たちは住んでいる。若いお嬢さん、17歳でしたっけ? そう思うでしょう?」

「うんと、ええと、はい、」


 狭い店だった。心を買い取る、なんて怪しい商売を生業としている割に、店内は外光が豊かに入り込み、ずいぶん明るい。店主は茶を淹れてくれた。女は茶を啜った。


「思春期の心なら高く売れますよ。売るなら今のうちですね。だんだんと値打ちは下がる一方ですから。」

「一体いくらくらいで、売れるんですか」

「公立大学の授業料くらいなら、余裕で賄えます」

「よく分かりましたね」

「ここには、色んな方がお見えになりますから」


 店主の言う通り、女は進学の費用について憂慮していた。父はリストラに遭い、母は病床に伏している。歳の離れた弟もいる。進学したいとは、とうてい言い出せない雰囲気であった。

 女は鬱々とした家庭内の雰囲気にも、疲れていた。それを隠し、学校で明るく振る舞うのにも、疲れていた。

 そんな悩みの中、出会ったのが一枚のチラシだったのである。


「覚悟は既にお決まりですか? でしたらその心、いますぐに買い取りいたしましょう。書類を持ってきますから、お待ち下さいね」


 店主は、暖簾のかかった奥の部屋に消えいった。手持ち無沙汰になった女は、壁際の棚を眺めた。無数の小瓶が並べられている。小瓶には、ラベルが貼られている。日にち、年齢、性別、英数字の羅列。どうやらここにあるのは、心らしかった。

 小瓶には色がついていた。女は美術の授業で見た、十二色相環を思い出した。

 立ち上がって、顔を近づける。匂いもなければ、音もない。


「きれいでしょう? もっとも、きたないのもありますが」

 暖簾をくぐり、奥から店主がやってきた。その指から、ぺら、ぺらと紙の捲れる音がする。

「さて、お客さん、ここに名前と生年月日、年齢、職業、すべて書き込んでください。印鑑はお持ちですか?」

「持ってません」

「ならサインで構いません」


 女は狭いテーブルの上で書類の空欄を埋めていった。ふと顔をあげると、正面にいる店主が、なにやら遠い目つきで棚を眺めている。

 「あの段の」といって、男はおもむろに指を指した。「左端にある二瓶は、わたしと妻のものです。そうです、赤と橙のがありますでしょ。ここに陳列されているものはね、心の、いわゆる欠片とか、滓のようなものです。そんな状況にあっても、心はまだ息をしているんですよ。心は、ふるさとに帰りたがっている。肉体というふるさとにね。日々、お客さまの心と触れ合うわたしには、その声が聞こえてくるんです」

 女は黙って聞いていた。もともと口数が多い方ではなかった。

「さて、余計な話をしてしまいましたね。心を売るのは、きわめてよいことですよ。今ではわたしたち夫婦に、諍いはありません。日々穏やかに過ごしています。さ、小瓶を持ち帰ってください。蓋をあけ、24時間、肌身離さず持っていたなら、あなたの心は小瓶の中へと移ります。蓋をして明日以降、お持ちくださいな」

 女は書類の控えと小瓶をハンドバッグの中に仕舞うと、立ち上がって玄関口まで歩いた。

 しかし、沓摺の手前で立ち止まると、その場を振り返る。店主は、折り畳んだ新聞を読み始めていた。


「あの……わたしの心の声は、聞こえますか?」

 女は小さな声で、おずおずと問うた。店主は、新聞を置くと、微笑んだ。

「ええ。だからあなたには、一日の猶予を与えたのです。その決断でほんとうにいいのか、じっくり考えてみてください」

 女は階段を降りた。通りには風が吹き、砂埃が舞っていた。春嵐だった。

 女はその中を、歩いていった。


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