第8話
亜矢は翌日、東京駅を後にした。
東京を発つとき、圭太に連絡をしようかと、ハンドバッグの携帯電話に手が延びたが、すぐに気持ちが決まった。
戻ってから連絡しよう。
この旅行で亜矢は変わるつもりでいた。つもりだけでなく、変われる確かな予感がある。そのとき圭太に、これからの将来について相談したいと思う。圭太と結婚するとしても、その前に、自分一人でゆっくり考えてみたい。
東京はまだ夏の名残を思わせるお天気だったが、水上はどこかピンと張り詰めたようなすがすがしい空気に包まれていた。目的の宿へ着くと、いつか写真で見た覚えのある年配の女性が、あたりを明るくするような笑顔で出迎えてくれた。亜矢は母から言いつかってきたとおりの挨拶を、少し緊張して済ませ、案内された部屋に入った。
部屋は和風の外観にもかかわらず、ヨーロッパのプチホテルを思わせる洒落た造りになっていた。床も壁紙も新しいから、つい最近改装したばかりなのだろう。
窓を開け、椅子に腰掛けた。眼下には深い渓谷が広がっている。清涼な空気が、川上から流れてくる。
来てよかったと、亜矢はあらためて思った。すがすがしさと厳しさを併せ持つこの風景を眺めていると、昨日まで形にできなかった何かが、くっきりと姿を現してくるように思える。
まだ頼りない足取りだけれど、自分の考えを大切にしたいと思い始めている。
そのときだった。川に沿って延びた道を歩いて行く一人の男に、亜矢は目を奪われた。
歩き方に見覚えがある。後姿だけれど、間違いない。
でも、
なぜ、
ここにいるの?
亜矢は窓から体を乗り出して、手を振った。
圭太は依然気づかない。
じれったくなって、亜矢は窓際を離れ、部屋を飛び出した。走ればなんとか間に合うだろう。きっと追いつくはずだ。
廊下に出て、エレベーターに乗るのももどかしく、亜矢は階段を駆け下りた。
ホテルの前の、川沿いの道を走った。前方に小さくなった圭太の後姿が見える。声を張り上げたが、気づかない。
息が切れて、亜矢は道のガードレールにもたれかかり、恨めしく後姿を見つめたとき、ようやく圭太がゆっくりと振り返った。
「亜矢、じゃないか!」
圭太は目を瞠って、立ちすくんだ。
「……なんで、お前、こんなところにいるんだよ」
「圭ちゃんこそ、どうして――」
それ以上は言葉にならなかった。息が切れたせいもあるけれど、ここで圭太に出会えたことに、震えるような感動を覚えている。
圭ちゃんでよかった、ほんとによかった。
心の中でそう繰り返しながら、亜矢は大きく手を振った。
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