第7話

 家に戻ると、機嫌のいい母に迎えられた。


「今日ね、いいお話があるのよ」


 やっぱり。


「私、誰にも合わないわよ。決めたの。結婚相手は自分で探すわ」

「誰か、思い当たる人がいるのね」

 亜矢は唾を飲み込んだ。母の動揺は明らかだ。この上、圭太の名前を出したらどうなるか。 


 ところが圭太の名前を出したのは、母のほうだった。


「魚勝さんだけは、駄目よ。わかってるでしょう? ママはね、亜矢ちゃんのしあわせを願って、いいお相手を探してきたのよ。考えてもごらんなさい。パパが死んで伯父さんを頼ってこの家に落ち着いたはいいけど、土地は借地だし、建物のローンは残ってるし。ママにはね、財産がなんにもないの。ということはね、あんたにもないってことなのよ」

 やりきれない思いで、亜矢は母を見つめた。顔はかなしみで歪み、今まで見たどんな母よりも愚かに見える。

 

 一人になりたい。

 

 亜矢は母を振り切って、自分の部屋に入ると、押入れから旅行鞄を出した。

 母が追いかけてきた。

「出て行くの、亜矢ちゃん」

「ちょっと旅行に行きたいの。頭を冷やしたいのよ。明日から二、三日会社を休むわ」

 母は黙って、部屋を出ていった。


 そんなにショックなのだろうか。


 そういえば、母に黙って旅行したことも、いや、外泊すらしたことはなかった。物心ついてからずっと、何をしていても、母が身近にいた。

 まるで双子のようだった二人。今自分がしようとしていることは、母への裏切りになるのだろうか。

 

 母がふたたび亜矢の部屋にやってきたのは、それから三十分もたってからだろうか。

 

 さあ、愚痴がはじまるわよ。

 そう構えた亜矢だったが、母は意外にも明るい声を、亜矢の背中にかぶせてきた。

「浅川さんがね、行ったほうがいいって」

 亜矢はふうっとため息をついた。荷造りしながら、階下で母が誰かに電話する声を聞いたように思ったが、相手は浅川だったらしい。


「旅行であんたの運が開けるって。でもね。北じゃないと、駄目だって。北へ行けば、亜矢ちゃんにふさわしい相手が見つかるっ――」


「馬鹿なこと言わないで!」


 もううんざりだ。気弱になったとき、占い師にすがりたい母の気持ちはよくわかる。それで気が済むのなら、相談するのは構わない。そして占いの結果にしたがって暮らし方を決めるのも、仕方ないと思う。

 

 いつからだっただろう。

 

 亜矢は唇を噛んだ。父が亡くなったのは八歳のとき。あのときの不安は、忘れられない。けれどまだ若かった母は、全身に張り詰めたような気迫がただよってい、亜矢の背中を力強く押してくれていた。

 そんな母の気概が亜矢にも伝わって、亜矢は何があっても学校で弱音を吐いたことはなかった。

 

 それがいつからか、母は自分たち以外の誰かを信ずるようになった。大きな宗教団体にこそ入らなかったものの、いつもどこからかそれぞれのカミサマを掲げた人物が現れて、母を包み込んだ。

 母は新しいカミサマに出会うたび、身を深く委ねる。

 

 惨めだ。

 

 亜矢は思う。母は夫というカミサマを無くしてしまった女なのだと、思う。家や夫に思考を左右され行き方を委ねてきた女は、それを無くすと、ほかのカミサマがいないと生きていけない。


「まだどこへ行くか決めてないんでしょ。決めてないんだったら、ね、いいじゃない。何も無理に南に向かわなくたって。ママにおススメの場所があるのよ。水上温泉……」

 返事をする気は失せていたが、案外近場だったのが、妙に安心感を得た。


「あそこにね秋葉ホテルっていうのがあってね、ママの学生時代のお友達が嫁いでるの。すぐに連絡を取ってあげるわ。きっと歓待してくれるはずよ。まだ紅葉のシーズンには早いけど、かえって空いてるんじゃないかしら」

 はじめての一人旅だ。かっこ良く見知らぬ土地に降り立つ自分を想像していたけれど、実はちょっと心細い。知り合いがいてくれたほうが、何かと便利だろう。


 こちらの気持ちが動いたのを見て取ったのか、母から遠慮がちな態度が消えた。

「亜矢ちゃんは水が変わるとすぐお腹をこわすんだから、いつものお薬をちゃんと持っていかなきゃ駄目よ」

 早速電話するために立ち上がった母にそう言われて、亜矢は水上温泉に心を動かされた自分に、腹が立った。


 いつも、こうなのだ。


 こうやってノセられてしまう自分が、本当に情けない。



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