第6話

 亜矢の新しい生活がはじまった。

 朝はいつもより三十分早い六時に起き、それから家の周りを十五分走る。


 走り終えると、庭に戻って太陽に一礼する。

 その足で郵便受けから新聞を取り出して、コーヒーを飲みながら目を通す。カルシウムは食後に必ず錠剤を飲むよう心がけた。

 黒やグレーの服は、ひとまずクローゼットの奥へ片付け、明るい色のものを選んで出社した。会社から帰ると、パソコンに向かうかわりに文庫本を読んで過ごした。

 

 亜矢は懸命だった。意地になっているとも言える。

 新しい生活習慣に、何も考えず、ただ自分を慣らしていくことが、飯島から受けた痛手を忘れられる唯一の方法のような気がする。会社からまっすぐ帰宅し、規則正しい生活になったことを喜ぶ母とは裏腹に、亜矢はどこか自暴自棄なっているところがある。

 

 そんな亜矢が、ほぼ二ヶ月ぶりに圭太に会ったのは、まだ残暑が厳しい夕暮れだった。

 退社して早々に鎌倉の駅に帰ってきた亜矢は、ぼんやりと駅前のロータリーで、バスを待っていた。

 心の中は、空っぽだった。行動や思考を他人に委ねるのは楽だけれど、ときどき、こんなふうに心が空白になる。

 

 バスに乗ろうとしたときだ。待ってと声がして、振り向くと圭太だった。

 あたし、結婚するからと電話して以来、圭太とは話をしていない。日が決まったら連絡してくれと言われて、もちろんよと弾んだ声で応えたものの、それは果たせなかった。

 亜矢のぎこちなさをよそに、圭太は屈託がなかった。


「おめでとうって言わなきゃな」

 亜矢は俯いた。

 正直に言うしかない。


「……結婚、駄目になったの」

「そっか。おれとしては嬉しいけどね」

「ほんと?」

 自分でも、びっくりするくらい、声が弾んでしまった。つくづく情けない。

 すると、圭太は、ニヤリと笑って、

「寄ってくだろ?」

と、言うと、歩き出した。

 自然な感じだった。まるで、別れ話前の二人に戻ったかのようだ。

 

 圭太は振り向きもせず、ロータリーを横切って、店じまいをはじめている商店街に進んでいった。ポケットに手を突っ込んで、子供の頃から変わらない風景の中を歩いていく。

 

 商店街を抜けると踏み切りがあり、圭太の車は、その先の駐車場にあるはずだ。

 ところが圭太が立ち止まったのは、魚勝の店先だった。


「寄ってくって、圭ちゃんちに寄ってくってことなの?」

「ほかに、どこに寄ると思ったんだよ」

 亜矢は首筋を紅くして、半分下りた店のシャッターを圭太に続いてくぐった。もう別れたのに、ホテルへ行くと思っていた自分が恥ずかしい。


 奥の茶の間にさっと頭を下げてから、亜矢は階段を上る圭太にしたがった。

 

 部屋は、さっぱりと片付いていた。シングルベッドと机。その上にパソコンがある。

 以前、パソコンの横に山積みされていたゲームは姿を消していた。代わりに机の上には数冊の本があり、椅子の上には店に立つとき締める、魚勝の前掛けがある。


「あ、これ」

 圭太が寝転んだ脇に、文庫本が落ちていた。題名が亜矢のハンドバッグの中にあるミステリーと同じだ。

 本を手に取り、亜矢は頁をめくった。

 ふいに圭太が起き上がって、

「おまえ、変わったな」

 探るような視線を向けてきたが、おもしろがっている目つきでもある。

「前は本なんか興味なかったじゃん。どこそこのレストランがどうの、服がどうのって話ばっかりでさ。そうじゃなきゃ、会社の愚痴でさ」

 言われてみれば、そのとおりだと亜矢は思った。圭太相手に、亜矢は本の話どころか自分の意見を言うこともなかった。いや、誰に対してもだ。


 亜矢は素直に喜べなかった。変わったのは自分の意思でそうなったのではなく、ただお告げの言うとおりに動いているからにすぎない。

 

 ポンと本を畳の上に投げて、亜矢は立ち上がった。

「どうせアタシなんか、つまんない女ですよ、だ」

「そんなこと言ってないだろ」

「男に騙された馬鹿な女よ」

 圭太が目を見開いた。

「……騙されたって?」

 圭太の目を避けて、亜矢はうつむいた。


「ママが連れてきた新しい占い師が教えてくれたのよ」

「また別の占い師が来てるのかよ」

 亜矢の目頭が熱くなる。

「で、また、その占い師に別の男をすすめられてるのか?」

 大きく首を横に振って、亜矢はこみ上げてきた涙を隠そうと、両手で顔を覆った。

 圭太の腕が延びて、亜矢は抱き寄せられた。そして圭太の腕の中で、お告げのことを洗いざらいぶちまけた。

 ジョギングをしていること、本を読むようになったこと、テレビやネットを見るのをやめてしまったこと。カルシウムを摂るために錠剤を飲んでいること、好きだった黒やグレーの服を着るのをやめてしまったこと。

 

 口に出してみると、あまりの馬鹿馬鹿しさに、ますます涙が溢れてきた。こんなことでしあわせになろうとした自分が、救いのない馬鹿に思えてくる。

 涙を拭おうとすると、ふいに圭太の唇が、亜矢の瞼に寄せられた。


「素直なんだな、ほんとに」

 亜矢はいやいやと首を振った。

 そうじゃない。気が小さくて他力本願なんだ。自分で何かを決めるのが怖くて、自圭がなくて、それなのに人並み以上に欲が深い。


「そんなお告げを信じて実行するなんて、ほんと馬鹿だよ。だけど、素直で人がよくって……。だけどな、亜矢。自分を信じろよ。それができなかったら、俺を信じてくれよ」

 柔らかな圭太の唇が亜矢の頬をなぞり、やがて唇の上に重ねられた。そして圭太の片手が亜矢の背中から前へ回ろうとしたとき、


「圭太、お茶だよ」


 階下から怒鳴る声が響いた。圭太の母親がお茶を出してくれるらしい。

「私がいただいてくるわ、お茶」

 亜矢は立ち上がった。



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