第3話

 窓を大粒の雨が叩いている。昨日から降り続いている雨は、夜に入っていっそう激しさを増している。

 叔父自慢の竹林に、雨の音が響く。

 

 亜矢は雨を見ていなかった。ただ、二日前会った、飯島の面影ばかりを思い浮かべている。


 二日前、亜矢は退社間際、外線電話を受けた。会社の帰り際、取り上げてみると、聞きなれない声が、遠慮がちに亜矢の名前を告げていた。

「よかった。まだ会社にいらしたんですね」

 声の主は、つい四日前の日曜日に母と共に会った、飯島啓太だった。携帯電話の番号は知らせていなかったから、会社にかけてきたようだ。

「よろしかったら、食事でも付き合っていただけませんか」

 断る理由はなかったが、承諾する決心もつきかねた。まだお互い返事を保留にしたままだ。その段階で二人きりで会うのはどうだろうか。

 

 亜矢が返事を遅らせていたのは、飯島に悪い印象を受けたからではなかった。むしろ、その反対だったといえる。特別容姿がタイプだったわけではなかったが、すっきりとしたスーツの着こなしで、表情には商社で精力的に仕事をこなしているという触れ込み通りの、強靭なものがあった。

 素直にいえば、好印象だったのだ。

 

 飯島は、詰まり詰まり、突然電話したことを詫びた。礼儀をわきまえないヤツだと思わないで下さいと、誠実な人柄が電話を通して伝わってきた。

「少し、お待たせするかもしれませんけど」

 化粧も直したかったし、人にはわからない程度だが、踵の痕が付いたストッキングも変えたい。雨は気持ちを挫く材料にはならなかった。


 待ち合わせしたホテルは、赤坂だった。退社する前に、亜矢はトイレの鏡で自分の姿を確認した。偶然だが、待ち合わせ場所にふさわしいスーツを着ていたことに、胸を撫で下ろした。お告げ通り、飯島とは赤い糸で結ばれているのかもしれない。

 

 ホテルに着くと、亜矢はまっすぐロビーに向かった。約束した時間より、一〇分遅れてしまっていた。息を切らしながら見渡すと、中庭に面した席で手を振る人がいる。

 亜矢は思わず笑顔になった。

 飯島は片手を思い切り挙げて左右に大きく振り、面白いものを見つけたときの子供のような、懸命な視線を向けてくる。

 

 来てよかった。

 そう思った。

 と同時に、心の中に、小さいけれど新しい火が灯ったのを、亜矢は見逃すわけにはいかなかった。



 あなたのような笑顔の人を探していたんです。

 食事のあと入ったバーで、飯島がささやいた声が、まだ亜矢の耳に残っている。声は木霊のように耳の中で反響し、やがて体全体にビブラートをかける。

 

 あの夜から二日が過ぎたが、依然心の中に灯った火は消えなかった。胸の中のふわふわとしたあたたかさを持て余している。

 

 もう、答は出ていた。

 ちょっと悔しいが、母の策略にはまってよかったと思う。

 

 亜矢は今、自分の部屋のベッドの脇にしゃがみこんでいる。

 朝、片付けをしようと開けておいた、押入れが目についた。

 押入れの中に、プラスチックボックスが雑然と並んでいる。そこには、使い古しのノートや古い写真、手紙や取るに足らない賞状などが入れられている。

 

 ひとつひとつ手に取って、捨てるものと、しまい込むものに分けていった。案外と捨てるものが多い。過去には自分を楽しませてくれたものの数々が、今現在では何も訴えてこない。

 

 問題は、圭太なのだった。亜矢は、ゴミ袋に古いノートの束を押し込みながら、思った。

 圭太は、このノートのようなわけにはいかない。色褪せてしまったことは事実だが、といって、さよならと踏み切ることはできそうにない。

 

 そう思ったとき、階下で母の間延びした声がした。はあい、ちょっと待ってくださいなと、続いて勝手口を開ける音がする。

 身を堅くしたまま、亜矢は動けずにいた。切り身がどうの、干し物がどうのという母の声の合間に、聞こえてくるのは圭太の声だ。

 

 戸惑いを隠せない母の声が、途切れ途切れに聞こえてくる。

「亜矢ですか。いますけど、でもね」

「亜矢、話があるんだ!」

 圭太が怒鳴る。

 

 思わず立ち上がったが、亜矢はやっぱり動けなかった。変わってしまった自分の気持ちを、まだ説明する言葉が見つかっていない。

 すると、ちょっと待って、ちょっとあなた。そう言う母の声に続いて、台所を歩く太い足音がし、その音は階段を上ってきた。

 

 やがて足音は、亜矢の部屋の前で止まった。追い詰められたような、切羽つまったものが、止まり方にあった。


 ごめんね、圭ちゃん。ほんとにごめんね。

 

 言葉は声にならず、ただ嗚咽だけが漏れた。


「――アヤッチ」


 それは亜矢が小学生の頃のニックネームだった。この八年の間に、圭太は一度も、そんなふうに亜矢を呼んだことはない。それが、なぜ、突然子供時代のニックネームなど口にしたのか。

 懐かしい響きの余韻だけを残して、圭太は階段を下りていった。



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