第2話

「で、会うの? その観音様の推薦する男と」


 そっと家を抜け出して、亜矢は魚勝の長男、野部圭太の車の中にいる。

 昼寝をしすぎたためにデートの約束をすっかり忘れていた亜矢を、圭太は業を煮やして迎えに来たのだった。

 

 車は鎌倉を抜け、海岸に沿った国道を茅ヶ崎方面に向かっている。二人がいつも利用している、海辺のラブホテルに向かっているのだ。

 

 今日で何度目になるだろうか。

 

 亜矢は横断歩道を渡るカップルを眺めながら、ぼんやりとそう思った。圭太との付き合いは、今年で八年目だ。こうしてこっそりホテルへ行くのも、二人にとってありきたりな行事のひとつになっている。

 

 亜矢と圭太は、小学校時代の同級生だ。そんな二人が大人の付き合いをはじめたのは、八年前の夏に開かれた、同窓会がきっかけだった。

 十数年ぶりの、再会。同級生たちがほとんど東京で進学しているなかで、圭太は進学もせず、実家の魚屋を継いで、昔と同じ場所に住み暮らしていた。

 そんな圭太と昔話に花を咲かせるのは、子供の頃に遊んだ路地に、ふたたび足を踏み入れたような懐かしさがあって、亜矢は思いのほか楽しかった。

 

 圭太は変わらないな。


 亜矢はそう思う。いろんなことがあった八年なのに、圭太の自分に対する気持ちは、いつも同じ温度を保っていたように思う。それなのに、なぜか、踏み切ることができない。

 

 なぜだろう。


 それが亜矢にはわからなかった。今年、亜矢は三十七になった。それなのに、いまだ、自分を掴みきれていない。

 

 車はいつしか海岸線を離れ、細い道に入り込んでいた。

 いつものホテルは、その道の先にある。

 

 ホテルの派手な看板が見えはじめたとき、圭太がふいに声をあげた。


「おれ、真剣だからさ」


 今日、圭太の運転は乱暴だった。細い道がホテルに吸い込まれるように坂道になり、車は大袈裟なブレーキの音をさせて下っていく。


「結婚相手として、おれの条件が悪いことはわかってる。でも、亜矢をしあわせにす

る自信は、あるよ」


 結婚相手としての条件を兼ね備えていない。


 いつだったか、母にそれとなく圭太のことを話したとき言われたことだった。一流大学を出ず、長男で、家業を継いでいる。その家業の店構えは、商店街の中でも特に生彩がない。

 

 駐車場へ滑り込み、車は急停車した。

 圭太の腕がのびて、亜矢の掌を掴む。圭太の掌は、毎日仕事で水を使うせいか、今日も堅く乾いている。それがあっという間に熱を帯び、力がこもる。

 

 亜矢の体が引き寄せられた。首筋に、圭太の熱い息がかかる。

 

 思わず亜矢は、圭太を突き放していた。そんなつもりはなかったのに、なぜか、そうしてしまった。途端に、圭太の目が、かなしい色を帯びた。

 

「――ごめん圭ちゃん。今日はそういう気分になれない」

 亜矢の返事と、車にふたたびエンジンがかかったのが同時だった。



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