しあわせのお告げ

popurinn

第1話

 誰かが歌を歌っている。


 歌声には、ときどき、間の抜けた手拍子が入った。

 

 まだ日は高い。開け放した窓の下を、数人の笑い声が流れていった。北鎌倉からハイキングコースを抜けてきた観光客にちがいない。

 

 首だけ動かして、亜矢はベッドの脇に落ちている目覚まし時計を見た。六時。そのわりに部屋の中が明るいのは、もうすぐ一年でいちばん昼の長い日がやってくるからだ。

 大きく伸びをし、タオルケットを被ったまま、下着だけだった下半身に短パンを履いた。床の上に脱ぎっぱなしだった短パンは、金具が日に当たってあたたかい。

 

 歌声はまだ続いている。

 歌っているのは、観音様と母だ。高いほうの声は、観音様の出す裏声だろう。

 

 観音様というのは、母が信じている占い師のことだ。

 といっても、彼女が本当の占い師なのかは、定かではない。母によると、彼女はごく普通の主婦だったらしいのだが、ある日突然観音様のお告げを受けて、人の未来を占うようになったという。

 

 もちろん、占い師に免許は必要ないだろうけれど、この観音様――本名は鈴木善子というが、観音様のお告げを受けた人だから、観音様と呼んでいる――には、なんとなくそれらしさがなかった。

 占い師に期待すべく神秘性もなければ、超人的なところもない。どこのスーパーでも見かけそうな、ごく普通の六十代の主婦といった感じだ。


 観音様と顔を合わせるのは嫌だけれど、喉の渇きを覚えたので、亜矢はしかたなく部屋を出た。

 階段を下りていくと、格子の窓越しに風に揺れる竹が覗いた。竹は今うっすらと闇に包まれ、一枚の日本画のような趣がある。

 

 もともとこの家は、隣に住む伯父夫婦が、老後の隠居用に建てたのだった。その家に亜矢と母が住むようになったのは、二十六年前、亜矢の父が亡くなったとき。夫に先立たれた母が、それまで住んでいた都内のマンションを売って、鎌倉に住む兄を頼ってきた。

 それから母は、伯父の経営する会社の経理を手伝って、亜矢を育ててくれた。


 母はこの家を気に入っているようだが、亜矢は好きではない。鄙びた色彩でまとめられた色彩の壁や襖。日当たりが悪いわけでもないのに、真昼でも黄昏時のような静けさがただよう。

 勤め始めてから、亜矢はこの家を出ることばかり考えていた。様々なしがらみから逃れて自由に暮らそう。けれど、すでに卒業してから十年も経つのに、いまだそれは実行されずにいる。

 メーカーのOLの給料で都心にマンションを借り家賃を払えば、どんな窮屈な生活が待っているか、想像するたび二の足を踏んでしまうのだ。


 階下に近づくにしたがって、歌声はますます大きくなった。

 

 和室の横を通ると、母が満面の笑みを浮かべて振り向いた。観音様は、母の横からぎこちない笑顔を向けてきた。亜矢が浅く頭を下げると、どうもというように頷く。

 

 何か言おうと口を開けた母を無視して、亜矢はそのまま廊下を進んだ。台所の流しの上には、母がデパートで買ってきた惣菜が、まだ包装を解かれていないまま置いてあった。いつものことで、観音様を招くと、母はいっしょに簡単な夕食をとるのだ。

 

 冷蔵庫からウーロン茶を取り出し、ゴクゴクと飲んでいると、母が台所に現れた。

「亜矢ちゃんたら、呼んでいるのに聞こえないの? この間の話ね。いい人が見つかったらしいのよ」

 この間の話というのは、このところ母と観音様で策略している、亜矢の見合い話だ。


「――悪いけど、誰にも会わないって言ったでしょ」

 亜矢は横を向いた。マッチング・アプリで男女が出会うこの時代に、お見合いなんて聞いて呆れる。母に付き合っていたら、自分まで取り残されてしまう。

 結婚レースにではなく、時代にだ。


「いいお相手なのよ。お年は亜矢ちゃんより三つ年上でね。△○学の大学院卒なんですって。おうちは会社を経営なさってて。でも、三男坊さんだからおうちを継ぐ必要はないそうなの。都内に、ご自分でマンションを持ってらっしゃるんですって」


「じゃ、ママが会えば?」

 有名大学出であること。資産家であること。次男もしくは末っ子であること。

 そして観音様の承諾を得た相手であること。


 そんな篩にかけられて、残る相手がどれほどいるというのだろう。三七になるまで結婚できなかった自分を、亜矢は運がなかったせいだけとは思っていない。


「ともかく、今度だけは、ね。観音様が特に強い霊感を感じてらっしゃるようだから」

 そして母は、もうすでに相手に会う算段はつけてあり、あとはもう、こちらの予定を伝えるだけとなっている、と言う。


 思わず怒鳴り声を上げそうになったが、どうにか理性を保つことができたのは、そのとき窓の向こうに、人が通るのを認めたからだった。


「あら、魚勝さんだわ」


 亜矢の怒りをよそに、のんきな声を上げたのは母だった。魚勝は出入りの魚屋だ。 

 そして亜矢の『永い春』の相手でもある。もちろん母には内緒だが。

 

 窓を横切った影は、やがて台所の奥にある勝手口のドアを叩いた。

「ヘンねえ、今日は頼んでないのに」

「私が断っとくわ。だからママは、ほら、観音様を待たせてるんだから」

 訝る母の背中を押して、亜矢は勝手口のドアに向かった。


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