終章
第54話 待ち望んでいた日
朝起きたら、アレンダが唐突に「転移魔法を今から構築するね」と告げてきた。
待ちわびたこの日がついにやってきたのだ。
「日本に帰れるんだ」
嬉しいのか寂しいのか、はっきりしないことに
強制的にこの世界へ呼ばれてから、三週間近くは過ぎていた。それまでかかわった人たちに愛着が沸いても不思議ではないのだ。
どれほど時間がかかるかと思えば、昼過ぎには準備が出来たと告げられた。
あまりにあっさり事が進んだので、疑問符が次々浮かんでくる。
「アレンダさん、質問してもいいですか?」
「君は質問が好きだね。何だい?」
いつもの人のよさそうな笑みだ。上手いこと本性を隠しているなあと、いっそ感心してしまう。
「転移魔法って多少は難しいから、私はすぐ帰れなかったんですよね? 特に術者が行ったことのない場所へ転移させるには、相応の魔力を持った魔法使いがそろわないといけないって」
「そうだよ」
「アレンダさんと、エミリアとバルタザールの三人がいないと無理だって」
「言い訳に聞こえるだろうけど、予想外に早く準備できちゃったんだよ。あと一、二日はかかってもおかしくはないんだけど。バルタザールが覚醒した影響はありそうだね」
アレンダの推測は、時間魔法を何度か行使したことでバルタザールの魔力が強大になり、準備が楽になった、というものだった。
「それって良いことなのかな?」
「今から帰る君にとっては、素晴らしいことだと思うよ。あとはこっちの問題さ。改めてマリサちゃん、何のお礼も出来ないけれど、君には心から感謝してるよ」
摩李沙は、飲みかけの紅茶に移る自分をのぞき込んだ。
「皆さんと、お別れなんですね」
「そうだね。さて、しみじみしているところ悪いけど時間だ」
椅子から立ち上がった摩李沙に、アレンダは片手を差し出す。
「せめてものお詫びに、苦手なエスコートでもさせてくれるかな?」
異世界での最初の光景は、レアルデス家の薄暗い地下室だった。
今また、同じ部屋に摩李沙は入ろうとしている。
学校の制服に着替え、鞄にも持ってきたものをすべて入れた。
扉を開けたその瞬間、視界をふさがれ慌てる。正体が抱きついてきたエミリアだとわかり、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「何度も言っちゃうけど許してね。私の代わりに危険な目にあわせてごめんなさい。そして、バルタザールを救ってくれてありがとう」
身を引いたエミリアの視線の先には、壁にもたれかかるバルタザールがいた。彼はぎこちない笑みを浮かべながら、何かを渡してくる。
「これは?」
「ソフィーの焼いたクッキーだよ。アレンダさん、これくらいはいいですよね?」
「うん、問題ないと思うよ」
紙の包みを摩李沙の手のひらにのせ、耳元でささやく。
「戻ったら、絶対に食べるんだよ?」
薄暗い中頬を染めた摩李沙は、急いで鞄にそれをしまう。
「寂しいわ。もう二度と会えないかもしれないけど、私たちのこと忘れないでちょうだい」
「私も寂しいよ。最初はとにかく困ってばかりだったけど、皆と離れるのがこんなに悲しいなんて」
まばたきを多くして、涙をこらえる。エミリアは突然、摩李沙の頬に唇を寄せた。
「わっ」
「あは、ごめんなさい。私からのお礼よ?」
「さあ、魔方陣の上に立って」
アレンダにうながされ、つけていたイヤリングをバルタザールに返した。
『二人とも、いくよ?』
『はい』
『まかせて、お兄ちゃん』
三人が何を言っているのか、もうわからない。
そのことに悲しみを覚えると同時に、魔方陣の中を優しい風が駆け抜けた。
魔法使い達の周囲が、光を帯びている。魔力は魔方陣に注がれ、いっそう紋様は明るく激しく輝いた。
吹きすさぶ魔力の風に負けまいと、摩李沙は何とか目を開けていた。
視界が溶けてしまうその瞬間。バルタザールと目がって。
彼がごめんね、と謝ったような気がした。
地下室には四人いたが、一人減って三人になった。
誰もが無言の中、アレンダが膝を折る。
「お兄ちゃん!」
かけよったエミリアは、兄が大量に汗をかいているのを見て眉をひそめた。
「無茶したのね。マリサは優しいから、あと一日くらいは待ってくれたわよ」
「かもしれないけど、彼女にはたくさん迷惑をかけちゃったからね。ところでエミリア」
眼鏡をかけなおしたアレンダの問いに、妹は思わず姿勢を正す。
「あれは上手くいったかい?」
「……たぶん。マリサは魔力がないし、ちゃんと忘れてくれると思うわ」
バルタザールは二人の会話を耳にしながら、既に誰もいない魔方陣をじっと見つめていた。
◆◆
「あ、ちゃんと動いてる。よかったー」
水没したスマホを急いでふき取ったが、特に問題はないようだ。
横断歩道を渡ろうとしたところで、とんでもない違和感を覚える。
「……あれ?」
時間帯は夕方のはずだ。だが目の前の空は薄い群青色。転々と星が輝き始めた空の下で、摩李沙は口をあんぐりと開けていた。
「え……え? 今は……何で! 何でもう七時前なの!? 待ち合わせ時間とっくに過ぎてるじゃん!」
急いで駆けだした。人生で三本の指に入るほどの必死さで、とにかく足を前に出して地面を蹴り続けた。
走りながら、改めて嘆く。
とにかく今朝からとことんついてない。
スマホを水たまりに落としてから拾い上げるまで、なぜ時間がこんなに経ってしまったのだろう。
まるで神隠しか、タイムスリップでもしてしまったみたいだ。
――魔力のない摩李沙は、もちろん気がついていない。
アレンダやエミリアの目論見どおり、異世界での出来事を忘れ去ってしまったことを。
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