第36話 絶望の底から

 またトアンは、摩李沙まりさへ近づく。砂漠をさまよう人のように。

 意図を察した摩李沙は叫んだ。


「駄目! やめて!」


 白い矢は、過たずトアンの身体に命中する。今度は後ろへ飛ぶことはなかったが。彼の腹部にさっと鮮血が広がった。


「せ、先生……」

「私はあなたの先生ではありません。さっきも言ったはずですが」


 また白い光がトアンを打つ。今度はこめかみをかすったらしく、顔の側面にさらさらと血が流れた。


「駄目! こんなのおかしい!」

「はは、おかしいのは私の身体なんですよ。偽物さん」


 地面に垂れた血はどんどん広がっていくのに、トアンの両目は奇妙に輝いていた。


「六十近くまで老いたのち、どうしてかこの身体は若返るんです。ただその間は、痛みと苦しみのあまりのたうちまわるんですけどね。その時命を絶とうとしても無理なんですよ。この身体は、想像出来うる限りのあらゆる方法を試しても、絶命などせずに生きてしまう。だから血が大量に流れるくらいでは、どうってことはないんです」


 ついにトアンは、摩李沙の前にしゃがみこんだ。

 むせかえる匂いに震える少女など、眼中にないようだ。


「魔力はつきましたか。あっけなかったですね」


 あっけない、の一言で済ますには怪我があまりにも重いが、傷などひとつも無いかのような落ち着きっぷりだ。

 彼はペンダントのチェーンをあっさりと引きちぎる。


「あっ!」


 そして乳白色の石を親指と人差し指でつまみ、しげしげと眺めた。


「魔力がこれほどまでに減るとは。一体どんな所で保管されていたのでしょう。アルシノエの力の名残は……あるにはありますが、ほぼ消えかかってますね。これでは、彼女と親しかった者以外気づくのは難しい。私も、直接見てようやくわかるくらいですから」


 トアンは近くにあった石ころをおもむろに手に取り、ペンダントを地面に置いた。


「何する気なの?」

「これを壊します」


 摩李沙は必死で身をよじるが、拘束は解けない。


「やめて! それはバルタザールのものなの!」

「だからこそです。あの女が息子のために残したものなど、ただ憎いだけだ。この世にあるだけで虫唾が走る!」


 そう吠えたトアン――シャルク・トアンには、かつて師匠を敬愛していた弟子の面影はどこにもない。


「やめて!」


 その腕を、渾身の力を込めて振り下ろす。

 目を閉じた摩李沙の耳に、鈍い音が届く。何度も何度も、それは打ちつけられて。


「バルタザールを憎むのもやめて! あなた自身を傷つけるのも、もうやめて!」


 無力感を覚え、摩李沙はうなだれたが――石同士がぶつかる音が、急に違うものに変わった。


「?」


 トアンは握っていた石を持ち上げる。くぼんだ地面には、魔法具の影も形もない。


「どういうことだ?」


 周囲を見回したトアンは、やがてある一点を見て叫んだ。


「バルタザール、来たのか!」


 摩李沙もそちらを向く。斜面の下の方で、取り返したことを示すようにペンダントをかかげ持つバルタザールがいた。


「時間停止の魔法を使ったんですね。いいのですか? あなたの記憶を代償にするものなのに」


 とトアンが話している間に、摩李沙はバルタザールに抱きかかえられていた。トアンとの距離も充分離れている。

 こんな時だというのに、助かった安堵よりもお姫様抱っこをされているのが恥ずかしく、摩李沙は頬を染めた。


 摩李沙を地面に降ろしたバルタザールは、短く詫びた。


「遅くなったね、ごめん」


 そして、拘束の跡が残る手首をそっと撫でてくれる。


「動いても平気なの?」

「うん、あの後魔法省の人たちや先生達が来てくれて、応急処置をしてもらえたんだ」


 確かに、顔にかすり傷のようなものが残ってはいるが、それ以外は元気そうだ。


「もう大丈夫だよ。いずれ応援も来る。後は、俺が何とかするから」


 バルタザールは、満身創痍のトアンを見上げた。

 怒りよりも、悲しみや憐みの浮かぶ瞳で。








「やっと私と向き合う気になってくれたんですか?」


 口調は丁寧だが、言葉の端々にいらだちが隠れている。摩李沙はバルタザールから、ゆっくりと後ずさった。邪魔にならないようにだ。

 その動きをトアンは目だけで追ってきたが、すぐにバルタザールへと視線を戻す。


「こんな国境の近くまで来るために、何度時間停止の魔法を使ったんですか? 普通は、こんなにも早く到着するのは不可能だ。愚かなことをしたものです」

「愚かじゃない。緊急事態だから当然のことだ」


 きっぱりと言い切ったバルタザールだが、摩李沙は両手で口を覆う。


 時間魔法を使う代償に、彼は記憶を失う。

 失われた記憶は、その後どういうタイミングかわからないが、戻ることは戻る。ただしその際はひどい頭痛を伴う――トアンはそう説明していた。


 避けられない苦痛をわかっていながら、バルタザールは伝家でんか宝刀ほうとうを抜いたのだ。


(ごめん、バルタザール)


 助けるつもりのはずが、辛い手段をとらせてしまったのだ。忸怩じくじたる思いを抱える摩李沙へ、バルタザールは声をかけた。

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