第23話 謎の詠唱

「もう疲れたあ。早く帰りたいよ」


 つぶやいてから、ここは異世界だったのだ、と改めて思う。


 魔法が存在し、摩李沙まりさの常識が覆るようなこともある世界だが、太陽の恵みは地球と変わらない。目を刺すオレンジの夕日が、校舎の中にも徐々に差し込んでいる。


「もうお屋敷へ帰っていいよね? バルタザールとアレンダさんはどこかな?」


 アレンダは魔法省に戻った可能性もある。となると、手当てを受けているはずのバルタザールを探すのがいいだろう。


 気力で足を動かし、一階にある最も広い部屋――数百人が収容可能な大集会室だ――にきた。包帯を巻かれてじっとしていたり、痛みにうめいている生徒が数人残っている。横になるほどの大怪我をした生徒は、少なくともここにはいないようだった。


 その一角に、クラウスとリックがいた。クラスメイトの介抱をしているようだ。駆け寄ると、またリックはつまようじのようにまっすぐ立つ。


「どうも、エミリア殿!」


 相変わらずの堅苦しい態度に突っ込みを入れる余裕はない。摩李沙は単刀直入にたずねた。


「バルタザールはどこ? 怪我がひどくて別室にいるの?」


 クラウスにつつかれたリックは、緊張を解こうと息をひとつはいた。


「あれ? エミリア様を探して帰るって言って、出ていきましたけど。あいつは結局怪我してなかったんですけど、ずっと調子が悪くて。でも横になるようにすすめられても、断ってたんですよ」

「そうなの?」


 偽物の出現で動揺していた様子がよみがえる。あの時彼は何かつぶやいていたが、どんなことを訴えたかったのだろう。


「じゃあ、バルタザールはどこへ行ったのかな?」

「ええと、確か中庭の方角だったかと。あ、探すのならお手伝いします!」

「ありがとう、大丈夫。もしどうしても見つからなかったら、またここに来るね」


 最後までぎこちなかったリックと、そんな友人をもの言いたげに見ているクラウスに手を振り、中庭へと向かった。


 生徒が授業を受ける教室や集会室が固まっている講義棟と、先生たちの研究室や図書室などがある研究棟は、それぞれ直角を描くように建てられている。二つの建物は回廊で繋がれており、そこからいつでものぞけるのが、だだっ広い中庭だ。


 様々な植物が多数育てられているが、この中には治癒に仕えるものもあるらしい。温室ではなく中庭で育てているのは、魔法で怪我を負った際に迅速に対処するためだという。


 生い茂る植物も、徐々に橙色に染まっていた。注意深く見渡すと、離れたところにいる背中に気づく。


「バルタザール、もう平気なの?」


 声をかけながら、一歩進んで中庭の土を踏みしめた。

 その時だった。体に妙な負荷がかかり、摩李沙は押さえつけられでもしたように地面に四つん這いになる。


「え? な、に」


 疑問の声すらもかすれてしまう。


 数メートル離れた先にいるバルタザールが、左手を水平に掲げ、右手で払うしぐさをした。

 鈍い輝きで、摩李沙は悟る。彼は自らの剣で、左手を傷つけたのだ。


 一滴の血が地面に垂れると、その足元に魔方陣が花開くように展開する。

 その輝きは赤く、美しかった。

 美しすぎるあまり、おそれさえ覚える芸術品のようだ。


 目を閉じた彼は、低い声で唱える。


「それは流れゆくもの。止められないもの。水と同じ。風と同じ。苦しみや悲しみを癒してはくれるが、喜びもとどめてくれない。いにしえの神々以外はそれに囚われ、死すべきさだめの者としてこの世を彷徨う――」

「……っ! バ、ル……」


 少年の周囲には、魔力のためかゆるやかな風が吹いていた。彼が言葉を紡げば紡ぐほど、摩李沙の背には重い何かが加わる。

 魔法が発動していることだけは、理解できた。


 しかしバルタザールが紡ぐ詠唱を、摩李沙はこれまで耳にしたことがながった。

 しかもやたら長く、何を表現しようとしているのかわからない。呪文というよりは詩に近い気がする。

 それを口にする目的とは何なのだ。しかも、校舎内で実行するとは。


 摩李沙はどうにか手足を動かし、赤ん坊のようにゆっくりと前に進んだ。

 何が起きているのか、ただの人間である摩李沙にはわからない。

 ただ、バルタザールをこのまま放っておいてはいけない。その直感が彼女を突き動かした。


 服の下のペンダントも魔力を感じ取っているのか、これまでになくビリビリと震えている。

 詠唱はまだ続いていた。


「ある時、絶対的なことわりを乱すものが現れた。その魔法使いは、流れをさかのぼり、とどめ、変異させるすべすら見出した。それは稀代きだいの到達者アルシノエが辿りついた、恐るべき人外の領域」


(え? なんでアルシノエの名前が出てくるの?)


 バルタザールは、掲げたままの左手を降ろした。その指先からまたひとつ、血が落ちる。

 こらえきれずあふれた、涙のように。


 その数瞬後、摩李沙は体が急に軽くなったのを感じた。立ち上がり、ペンダントを服の上から掴んだまま走る。


 魔方陣に立ちつくす少年は、前方をにらみ挑むように叫んだ。


「俺は逃げない。そちらの扉をあけろ――魔法使いの息子が帰ってきたぞ!」


 白い光が、はじけた。


「バルタザール!」


 驚愕に目を見開き、こちらを振り向く彼が「マリサ?」とつぶやいた。

 ――そして摩李沙の意識は、目を焼き切るほどの光の洪水に沈んだ。

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