第ニ話 雪兎、邪竜と出会う

 街の喧騒から隠れるように薄暗い路地裏を歩く。

 孤児、ゴロツキ、浮浪者。ここはキレイな社会を作るために切り捨てられた者の掃き溜めだ。

 決して治安が良い場所ではないが、熱と狂気に浮かされた表の通りを使うぐらいならこっちの方が気が楽だった。

 ふとネズミを咥えた黒猫が目の前を横切る。じゃ不吉の予兆なんて言われていたけど、この程度で不吉だ何だと思えることがどれだけ幸せな事だったのかと今になって痛感した。


 猫が出てきた方向へ路地を曲がって通りに出る。

 眩しい日差しに眼を細めながらも、正面の建物をじっと見据えた。

 二階建ての店がほとんどのこの通りでは目を引く三階建ての大きな建物。赤いレンガと尖った屋根の特徴的な外観で、入口に掲げられた看板には『鉛の灯火イグニス』と刻まれていた。


 開けっ放しの入口から中へと進む。窓が少なく、やや暗めの室内には無骨な武器を背負った者や、長いマントを羽織った者、やけに露出の多い鎧を纏った者など多様な人々が集っていた。

 普段と変わらない光景。これが今の僕の日常だ。

 鉄と油、汗とインクの混ざった独特の臭いに鼻を刺されながら、入口の反対側に位置するカウンターへと向かう。道すがらにある無数の紙が貼られた掲示板から目当ての依頼書を手に入れ、依頼書を片手に空いている窓口を探す。

 カウンターを眺めていると馴染みの受付嬢と目があった。


「おはようございます、さん。今日もいつものですね」


 カウンターの上には手続きに必要な道具や用紙一式が既に用意されていた。どうやら僕と目があった段階で準備していたらしい。


「ええ、コレをお願いします」


 そう言って持っていた依頼書を彼女に手渡す。


「『遺跡探索依頼』ですね。オプションはいつもと同じですか?」


「お願いします」


 彼女は依頼書の下側に書かれた『目標地点転送』と『発掘品鑑定』という項目に斜線を引き、依頼進行中を示す印を押した。


「はい、受付完了です。……そういえば、上位ランク帯のパーティーがリッカさんをスカウトしたいと言っていましたよ?」


 彼女から受付証明用のブレスレットを受け取りながら僕は苦笑を浮かべる。


「あはは……ありがたいですがご遠慮しますとお伝え下さい」


 僕はそう言ってカウンターを後にする。あとはいつも通りここの二階から遺跡に転移すれば仕事を始められる──そう思っていた矢先、見慣れぬ四人組が近づいてきた。


「君がリッカ・イナバだね?」


 先頭の若い男性が声をかけてくる。全身を板金鎧プレートアーマーで覆い、腰から長剣ロングソードを下げている。剣は使い込まれているが手入れを欠かしていない事が鞘に納まった状態からでも見て取れた。

 仲間であろう残りの三人も立ち姿に隙がない。

 なるほど、彼らが例の上位ランクパーティーか。


「人に名を尋ねる前に自分が名乗るのが礼儀では無いですか?」


 早く切り上げたい気持ち半分、幻滅して諦めてほしい気持ち半分であえて突っかかってみる。


「これは失礼、私はエドガー・ランバート。こっちの三人と共に上位ランクでパーティーを組んでいる」


 しかし目論見は失敗。他の三人は僕の態度に眉をひそめたものの、このエドガーという青年は顔色を変えずに名乗ってみせた。

 よほど僕を仲間に引き入れたいらしい。


「単刀直入に言うが、君を我々パーティーの魔術職として──」


「お断りします」


 僕はエドガーの口上を遮って、食い気味にNGを表明する。


「なっ……!黙って聞いてりゃ何様のつもりだテメェ!」


 案の定、エドガーの隣に立っていた赤髪の青年が僕の胸ぐらを掴んだ。

 赤髪の青年との身長差から僕の体は勢いよく上方へ引き上げられ、かけていた赤いつるのメガネが床に落ちる。

 レンズが無くなったことで、青年の瑠璃色の瞳と僕の真紅色の瞳が視線を交差させる。


「やめろリヒター!」


 エドガーは慌ててツンツン頭を静止する。リヒターと呼ばれた青年は手こそ離したものの不快そうな表情を浮かべ、一触即発の不穏な空気は未だ消えない。

 エドガーが拾おうとするより早く、僕は床の眼鏡を拾ってかけた。

 すると残る二人の仲間もエドガーに僕への不信を告げる。


「エドガー、やっぱりこんな奴を仲間にするなんて止めましょうよ。流石に初対面の私達にこんな応対は酷すぎるわ」


「私も反対だ。こいつは自分以外を信用していない……噂通りのだ」


 白い修道着の女性と、弓を背負った女性がそう言って僕を睨む。


「お前たち……すまないリッカ君。今日のところは出直させてもらうよ」


「もう来ないでください」


 僕の失礼極まる態度に再び激昂するリヒターを抱えながらエドガーと愉快な仲間達は姿を消した。

 イレギュラーこそあったものの、僕は再び日常に戻る。


「ねぇ、今のって……」


「あいつが例の術泥棒……」


「もう半年も遺跡に潜ってるらしいぞ……」


「ソロだから討伐行けないんだろ……」


「上位パーティーからお誘いとかズルい……」


「泥棒のくせに……」


 噂話が錯綜し、周囲の人々の冷ややかな視線が僕に集中する。

 ここまで目立つのも久しぶりだが、まぁ日常の範囲内だ。

 僕はどこ吹く風と階段を登り、二階に並んだ個室から緑の札がかかっている部屋を適当に選ぶ。札を裏返して個室に入ると、備え付けの地図で現在地と遺跡の座標を確認する。毎日の作業だから数値は暗記しているが、念の為このチェックは怠らない。


「それじゃ──『空間転移テレポーテーション』」


 その呪文と共に僕の足元に白い光の複雑な幾何学模様が浮かび上がる。

 そして次の瞬間、僕は洞窟のように地下へと広がる広大な遺跡の入口に立っていた。


◆◆◆


 地下から登ってくる少し冷たい湿った風が頬をなでた。

 空間転移魔術。半年前までの僕の常識……日本の、地球の常識では考えられない、人や物を遠くの場所へ転送する技術。

 しかしこの世界、とりわけ僕の仕事であるにおいてはごく当たり前の普遍的な技術だ。

 ただし空間座標の設定をしくじると壁に埋まったり空中に投げ出されたりするため転送座標の念入りなチェックは事故防止のためにも重要なのだ。


「さて、お仕事開始と行きましょーか!」


 この遺跡は逆ピラミッド型で深くなるほど探索場所は少なくなる。そのため深く潜るだけレアな発掘品を入手しやすくなるが、そのぶん遺跡内部を徘徊する魔物に遭遇しやすくなってしまう。このハイリスクハイリターンが未だに遺跡の深層が手付かずで残っている原因でもあった。

 この遺跡探索の依頼は発掘品に応じた追加報酬が発生するのだが、追加報酬を多く得るためには当然希少な発掘品が必要であり、希少な発掘品を入手するには深層に潜る必要が生じる。その結果、この遺跡探索はリスクに対してリターンが割に合わないとして現在では駆け出し冒険者の腕試しに浅い領域が使われるだけになっていた。


「ま、そのおかげで下層は取り放題で助かるけどね」


 遺跡の深層は前述の通り強力な魔物や発掘品が多い。ということはそれらの発する魔力も当然多くなる。そこで僕のが役に立つ。

 僕、伊奈波六華はの世界で命を終えた後、何の因果かの世界で新しい自分リッカ・イナバに生まれ変わった。この体は背格好こそ伊奈波六華と同じだが、地毛で白髪だったり顔立ちが童顔になっていたりと外見が大きく変わっていた。だが、中でも最大の変化がこの瞳だった。

 動き慣れた上層と中層は難なく突破し、遺跡の下層に到達した。


「そろそろ視てみますか」


 一段と濃度を増した魔力を肌で感じ、僕は眼鏡のつるに手を伸ばす。

 眼鏡を外すと僕の視界に色鮮やかな光が現れる。光は揺らぐ線だったり、粒子の様だったりと形は様々だ。この光こそが魔術を動かすエネルギーであり、魔物や魔道具の力の根源である『魔力マナ』と呼ばれるものだ。本来、魔力は不可視で人間の肉眼で直接観測できるものではない。

 しかし僕のこの眼は原理は不明だが不可視である魔力を光として認識できてしまった。こういう特別な機能を宿した眼は『魔眼まがん』と呼ばれている。

 ただ、ずっと使ってると眼が痛くなるし、視界がずっとゲーミングなのも鬱陶しいので普段は魔眼を無効化する特殊な眼鏡を使って魔眼を封じているのだ。


「おっ、早速お宝発見!」


 通路の端に一際強い光を見つけ、近付いてみる。そこは崩れかかった岩壁だった。よく見ると岩の隙間から手の平サイズの青みがかった銀色の結晶が顔を出している。


「アダマス!大当たりじゃん!しかもビッグサイズ」


 人工的な石壁で形作られていた上層や中層と違い下層は剥き出しの岩壁が殆どで、そこに染み込んだ魔力が岩壁内の成分と溶け合うとこうした高純度の魔石が産出される。

 中でもアダマスは超高熱超高圧下でないと鉱物成分自体が結晶化しないため特に希少な魔石だったりする。

 その後は岩に包まれてた放電の魔術が仕込まれた短剣やら、かぶると一定時間透明になる兜やらと珍しい魔道具を発見した。


「いや~大漁大漁!これだから遺跡潜りはやめられないね」


 それから暫く下層を彷徨うろつき、探索結果は希少魔石三つに魔道具五つとなった。これだけで半年は遊んで暮らせる。

 しかも僕の場合は魔眼のお陰で発掘品の鑑定代が浮くし、空間転移も自前でやってるので更に利益率が高くなる。

 ビバ、冒険者ライフ!


「……っと、忘れるとこだった。マッピングマッピング」


 遺跡の構造図を取り出し、今回新たに発見した下層の通路を書き加える。

 この依頼の主目的は遺跡の探索であり、構造図の更新がないと報酬金が発生しない。もっとも発掘品の売却額のほうが報酬金より高いので多くの冒険者は気にしないが。


「貰えるもんは貰っとくのが節約のコツなのさ……あれ?」


 ふと記録し終えた通路の中央に入ったヒビに目が留まる。さっき通ったときは気付かなかったが、もし崩落したら危険だ。


「念の為確認しますか……」


 万一崩落しても巻き込まれないよう距離をとりつつ慎重にヒビを調べる。魔眼に反応は無いから魔物が潜んでいたり、魔石が地面を押し上げてる訳ではない。

 意を決してハンマーで軽く小突いてみる。ハンマーがヒビに触れた瞬間、足場が崩れてヒビは穴へと変わる。だが幸いにも穴は僕の手前で止まった。


「ふぅ、マジ焦った……ちゃんと気付いて良かったわコレ」


 そう言って構造図を修正しようとした時、パキパキと何かが割れるような音が耳に入る。


「えっ──」


 気付いた時には既に僕はポッカリと大口を開けた暗闇に飲み込まれていた。

 足場の崩壊は止まってなどいなかったのだ。表面だけ止まった様に見えても、その裏側では崩壊は続いていた。眼に頼りすぎて視えざるサインに、その音に気が付けなかった。

 そんな後悔を抱きながら僕は意識を手放した。


◆◆◆


 ふと背中の痛みで目が覚める。どうやら僕は生き延びたらしい。

 起き上がり、辺りを見渡す。冷たく黒いのっぺりとした素材で作られた通路の上に僕は横たわっていた。上層で見られた石壁とは異なり、この通路は床も壁も天井も繋ぎ目がどこにも見当たらない。石壁の通路よりもよっぽど人工的にも関わらず、まるで作製方法が想像できなかった。

 落ちてきた穴を確認しようと上を見上げるが、穴は人一人がギリギリ通れる程度の大きさで、かなり上まで繋がっているため登って戻ることは難しそうだった。

 だが穴がもう少し大きければ僕は減速すること無く床に激突し位置エネルギーに殺されていただろうから良しとしよう。


「となると残るは空間転移での脱出か」


 そう呟きながら僕は眼鏡に手を伸ばし──その手は空を切った。


「うん?眼鏡は何処?」


 ふと足元でパキッという小さな悲鳴が響く。恐る恐る右足を上げると、そこにはつるが非ぬ方向に折れ曲がった無惨な眼鏡の姿があった。


「僕の眼鏡ぇ……って僕いま裸眼なの?裸眼でこの景色?」


 そう、今の僕は眼鏡をつけていない。それなのにこの通路は全くのだ。

 現在の明かりは上の遺跡でも使っていた水に反応して光る魔石を用いた魔道具のみ。魔眼特有の鮮やかな光彩はこの通路のどこにも視えない。


「つまり魔力がないってことか……まずったな」


 魔力が無くては魔術による脱出など不可能だ。

 仕方なく僕は通路を歩き回ってみた。もしかしたら出口があるかもしれないなんて淡い期待を抱きながら歩き回ることおよそ三十分。分かったのは魔力が無いのはこの地下空間全体で、出口も特に見当たらない。さらに、上の遺跡が合理的な通路として一定の規則性をもって作られていたのに対し、ここの通路は複雑なだけで設計目的が不明瞭…というか迷わせることを目的に作られていた。


「さながら地下遺跡に対して地下迷宮ってとこか」


 しかし調査するうちに新たな疑問が浮かんだ。迷宮というものには二つの種類がある。

 一つは宝物などを外敵から守るための『侵入者を撃退する迷宮』。

 だが、ここは恐らくその手の迷宮ではない。なぜなら、そういった迷宮は防衛装置であると同時に保管庫でもあるため通路としての出入り口が存在する。しかしここの迷宮に出入り口はない。それどころか地下遺跡の崩落がなければ誰かが迷い込むことさえ無かっただろう。

 つまりここはもう一つの種類『何かを閉じ込める迷宮』ということだ。

 『何かを閉じ込める迷宮』とはその名の通り、厄介だったり隠したい物を封印するための機構だ。イメージしやすいのは凶暴な怪物を封印しているものだろう。その役割は監獄に近しい。当然、怪物を封印する場所に出入り口なんて必要ないし、内部通路もでたらめに複雑にする事が求められる。

 ──だったら、この迷宮が封印しているのは一体何なのか。


「封印が目的なら通路に魔力が皆無なのも恐らく意図的なもの……一体何を封印して──」


 そう呟いた時、重たい何かを引きずる音が背後から響く。不意を突かれた僕は慌てて音の方を振り向き闇の中を睨んだ。

 通路の曲がり角から現れたそれはゆっくりと僕の方へと近付き、魔石の光がその姿を照らし出す。

 それは通路の天井ギリギリの巨躯を蹄のある二本の脚で支えた二足歩行で現れた。鋭い牙の生えた口にはくつわが噛まされ、側頭部からは太く捻れた角が前方へと突き出している。そして何より特徴的なのが丸太のような太い腕とその両の手に握った巨大な斧だった。

 それは正しくあっちの世界の伝説で聞いた、迷宮に住まう怪物『牛頭ミノタウロス』であった。

 怪物の淀んだ瞳が足元の僕を捉え、怪物は右腕をゆっくりと大きく振りかぶる。腕輪からぶら下がった鎖が床に引きずられ重たい金属の擦れる音が響いた。


「──っ!」


 斧が振り下ろされるのと同時に僕は大きく飛び退いていた。凄まじい膂力で振り下ろされた金属塊が勢いよく床とぶつかり耳をつんざくような音が響く。

 その音を合図に僕は全力で駆け出した。


「そりゃ迷宮だし番人はいるよねぇ……でも意外と足は遅いんだな」


 牛頭は迷宮を揺らしながら僕の後を追ってきているが、幸いそれ程の速度ではなく直ちに追いつかれる事は無さそうだった。

 とはいえ、ここは魔力皆無の地下迷宮。出口も無ければ迎撃するための魔術も使えない。端的に言って詰んでいる。


「一旦撒きますか」


 牛頭との速度差で追跡を躱すため、さっきの調査で把握した迷宮の構造から周回可能なルートを算出する。

 入り組んだ通路を迷いなく疾走し、牛頭との距離を突き放した。

 奴の足音が遠ざかって行くのを確認してほっと胸をなでおろす。そして息を整えようと立ち止まったところで、正面から再びが聞こえた。


「──おいおい冗談だろ……!」


 現れたのは二体目の怪物。ただし頭部は牛ではなく馬のそれであり、額に槍のような長い一本角を備えている。

 両手に握られた金棒が丸太のような太腕によって振るわれ、牛頭のそれよりも更に強い衝撃が迷宮に轟いた。

 もと来た道を戻ろうとするも、そちらからは牛頭が迫っている。

 前門の馬頭、後門の牛頭。

 僕は仕方なく、まだ未探索の道へと進路を取った。


「クソっ!やっぱりこの通路、迷宮の中心へ向かってる。一本道の袋小路かよチクショウ!」


 さっきから見かけるどの分岐も既存の通路の方向へ向かう明らかな行き止まりで、構造的に考えて先に続く通路はこの道だけだった。

 何度かの分かれ道と曲がり角を過ぎて、遂に中心と思しき広場に辿り着く。

 広場の中心には石の棺のようなものが立てられており、迷宮の壁と同じ素材の鎖で厳重に縛り上げられていた。


「これは……封印の魔術?」


 魔眼は僕に、石棺を封じる鎖に宿った強大な魔力と複雑な術式を赤黒い光として視せている。その光は幾度か見かけた封印魔術のそれだった。

 石棺の中にはこの迷宮が封じたいがいる。

 思いがけない形で疑問の解答を目前としながらも、遂に二匹の怪物に追いつかれてしまった。


「はは……ここでゲームオーバーか……」


 二度目の人生の終わりにも走馬灯は流れない。

 それはそうだ、僕の人生はいつだって空っぽなんだから。

 これと言った情熱も願望も持たず、不幸であることを受け入れ、生存を疎み死を呪った。理不尽に耐えながら惰性で生きているだけ、それが僕なんだから。

 空っぽの人間に訪れるのは空っぽの終わりだけ。実に身の丈にあった終焉だ。


 ──それで良いのか?


 頭の中に声が響いた。僕ではない誰かの、でもどこかで確かに聞いた声だ。


 ──運命だと諦め、瞳を閉ざす。本当にそれで良いのか?


 良いのか、と問われたところで僕に選択肢なんて無い。この状況はただの人間が獰猛なグリズリー相手に丸腰で戦うような、それよりもっと勝ち目のないものだ。惨たらしい敗北が目に見えている。


 ──勝機はある。


 ふと視線が背後の石棺に滑った。

 あぁ、なるほど。確かに僕の眼ならばこの封印は解ける。この声はそれを望んでいるのだ。


 ──眠れる運命を掴み取れ。


 きっとこの声に従って抗ったとこで、苦痛に塗れた未来は変わらないのかも知れない。

 そう考えた時、かつて味わった終の景色が頭をよぎる。

 理不尽な痛みを。

 薄れゆく意識を埋め尽くした恐怖を。

 そして、命が尽きる事への安堵を。

 だから、答えはとうに決まっていた。


 ──さぁ、叛逆のときだ。


「どうなっても知らないからな!」


 そう吠え、背後の鎖へと短剣を走らせる。

 封印の魔術を含め、魔術とは魔力によって編まれた現象であり、現象を構築する魔力の流れが途絶えれば魔術は霧散する。

 即ち魔力の流れを、その結節点を観測できるこの魔眼であれば──魔術をことができる。

 赤黒い光を刃がなぞり、光の交錯する一点を断ち切る。魔術の加護を失った鎖はその反動で粉々に砕け散った。

 封印の解けた石棺からは魔力が漏れ出し、魔眼越しの景色が漆黒の光で満たされていく。

 つい先程まで僕を殴り殺そうと前のめっていた怪物たちは一転して蛇に睨まれた蛙のようにその場に立ち竦んでいる。


「つーても怯えて動けないのはこっちも同じだったりして……」


 背後から止めどなく溢れてくる漆黒の魔力は徐々に熱を帯びていき、それに反比例して背筋の悪寒は強まった。

 そして遂に重たい石のこすれる音と共に石棺が開かれた。

 ぺたり、ぺたりと石棺から目覚めた何かが近付いてくる。


「──貴方が私を目醒めさせた人?」


 それは鈴の音のような澄んだ声だった。迷宮に封印され怪物を怯ませる存在とは信じられない可憐な声。

 それから少し遅れて視界の端に声の主の姿を捉える。地面につきそうな程長い濡羽色の髪を垂らした細身の少女。やや幼さの残る顔立ちには今にも零れそうな黄玉の瞳が填められている。

 天上の月が宵闇を纏って舞い降りた様なその姿に僕は目を奪われていた。


「状況を把握──殲滅する」


 少女はそう呟くと金色の瞳を馬頭へと注ぐ。その瞬間、空気が凍りついた。牛頭も馬頭も僕もその場にいた者は溺れたように呼吸を忘れ、しかし微動だにすることも出来ない。

 少女の右手がゆっくりと馬頭の方へと伸ばされ──光が、馬頭を飲んだ。

 どさり、と馬頭の両脚が膝をついて力なく倒れる。

 断末魔は無い。声を上げる頭ごと上半身が一瞬で蒸発したためだ。

 かつて馬頭の体があった場所の後ろでは、怪物の打撃でさえ傷一つつかなかった迷宮の壁が熔解し遥か先まで見通せる風穴を開けられていた。


「ん、意外と調節難しい……」


 少女は力加減を確かめるように手を握っては開き、残された牛頭を見る。


「でも、それなら──」


 少女の視線に曝された怪物は錯乱して奇声を上げながら逃げようと振り向く。しかし怪物が反転するよりも速く少女が肉薄し、一切の躊躇無くがら空きの背中に貫手を放った。

 少女が腕を引き抜くと牛頭は大量の血を吹き上げながら倒れ、やがてピクリとも動かなくなる。赤く染まった少女の左手には未だに脈打つ砲丸ほどの肉塊が握られていた。

 少女の封印が解かれてからこの間、僅か十秒。

 それは正に圧倒的で、一方的で、暴力的で、でも同時に僕はそんな彼女をと感じてしまった。

 少女は興味なさげに肉塊を放り投げると、光の無い瞳で僕を覗き込んだ。


「それじゃ、改めて──貴方は誰?」


 月の狂気に照らされて、心音が加速する。この脈動が憧憬によるものか、或いは畏怖によるものなのかは分からない。ただ一つ確かなのは、僕の心は目の前の少女に奪われているということだった。


「僕はリッカ、リッカ・イナバ」


 緊張で少し声が上ずる。

 しかし、少女はそんなことを気に留める様子も無く「リッカ・イナバ……」と呟いた。

 数秒の間を置き、少女はおもむろに顔を上げると指を鳴らす。

 赤に染まった貫頭衣を炎が包み、やがて漆黒のドレスへと変わっていく。


「次は私の番」


 その言葉と同時に、再び生じた炎が彼女の人ならざる肉体を象る。

 ──それは鱗に覆われた靭やかな尾。


「私は──神々の天敵」


 ──それは黒曜石の輝きを湛える翼。


「私は──奈落の翼」


 ──それは冠の如き白銀の双角。


「私は──天空の簒奪者」


 光の無い縦長の瞳孔を宿した瞳が僕を射抜く。


「私は邪竜──厄災の邪竜


 これが僕と彼女の始まりの出会いだった。

 そして同時に、この時の僕はまだ知らない。彼女との出会いによって僕の日常が吹き飛ばされ、とんでもない混沌がもたらされる事を。

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