異世界モノクローム~転生雪兎と邪竜少女の解呪契約~

水溶性オムライス

第一話 プロローグ

 アスファルトの熱に蒸されながら夕暮れの坂を下る。太陽が地平線に沈んでも肌に張り付くような暑さは消えてくれない。嫌な熱に蝕まれるありきたりな九月某日。

 今日の授業で昔の九月はもっと涼しかったと国語の教師がボヤいていたのを思い出す。昔を知る大人にとっては異常気象なのだろうが、これしか知らない僕にとってその異常は日常だった。故にそれが否定される事が、まるで自分を否定されているかのようで少し心苦しかった。

 ──いけない。気を抜くとつい嫌なことばかり考えてしまう。

 僕は右手のエコバックにアイスクリームが入っていたことを思い出し、溶けないようにと帰路を急いだ。


 変哲のない住宅地の一角に建つ二階建てアパート。その一階にある『伊奈波いなば』という表札が下げられた一室が僕と母が暮らす家だ。

 建付けの悪い玄関扉の鍵穴に鍵を刺す。小刻みに揺らしながら二、三度右へ捻るとガチャリと鍵が開いた。

 扉を開けて最初に目に入ったのはスパンコールのついたシャンパンゴールドのハイヒール。それは母さんの物だった。


 ──マズい。

 

 僕の鼓動が一層速くなるのを感じた。

 だが焦ってはいけない。僕は背負っていた通学カバンを左手に持ち、しかし速やかにリビングに向かう。


「おかえりなさい母さん。今日は早いんだね」


 意を決してリビングに入ると同時、左手のカバンを頭上に構える。しかし何かが飛んで来ることは無かった。


「おかえりなさい六華りっか。今、夕飯作ってるからもう少し待っててね」


 恐る恐るキッチンを覗くと、そこにはお玉で鍋をかき回す母さんの姿があった。

 それは僕にとってあまりに違和感のある光景だった。

 母さんが僕の名前を穏やかに呼んだ。母さんがキッチンに立って料理している。どちらも僕の日常からかけ離れていた。


「母さんが料理……」


 僕の方が遅く帰ってくると必ずリモコンを投げつける母さんが、ここ数年一度も僕に手料理なんて作ってくれなかった母さんが、何故かのように振る舞っている。


「あら、母さんが料理するのは変かしら?」


「う、ううん。母さんの夕飯楽しみだよ……!」


 返事とは裏腹に、人が変わったかのような母さんに僕は警戒を強める。

 でも、この時僕は少し安心してしまっていた。

 ──昔の母さんに戻ったみたいだ、って。


 何かくぐもったような水音が聞こえる。耳慣れないその音に微睡んでいた意識が覚醒した。どうやら僕は夕飯を食べた後に眠ってしまっていたらしい。

 重いまぶたを開ける。夜の闇に目が慣れ始めると、窓の向こう側の広大な海が瞳に映った。

 唐突な状況に思考が止まる。

 数秒後、本能の危険信号が急速に強まっていく。リビングで眠った筈の僕が、海辺に停まった車の助手席にいる。その事実が示すおぞましい可能性に悪寒が走った。


「んぐっ?!」


 車から逃げようとドアに手を伸ばし、僕は自分の両手が拘束されていることに気が付く。いや両手だけじゃない、両足も縛られ、口にはタオルが噛まされている。


「あら?気が付いたのね」


 運転席の窓から母さんの顔が覗いた。声こそ夕飯前と変わらないが、その瞳は辺りと同じような泥のように暗い闇を宿していた。

 ミラー越しに映った右手にはガムテープが、左手にはガスバーナーが握られている。


「ちょっと待ってね、もうすぐ目張りが終わるから」


 バリバリとガムテープを貼る音が何度かした後で母さんは運転席に戻り、運転席の窓にもガムテープを貼り付けた。


「さてと、それじゃ火を点けるわね」


 そう言って母さんは後部座席の七輪に火を点ける。

 一連の動作があまりにも淡々としていて呆気にとられていたが、命の危機を感じた僕は必死に母さんを説得しようと声を出す。しかしタオルを噛まされた口ではまともな言葉など話せるもなく、うめき声のような叫びを垂れ流すこととなった。


「静かにしてくれるかしら……母さんね、もう疲れちゃったの」


 母さんは窓の向こうの海を見ながら語りだす。


「新しい人がね、六華がいると駄目って言うの。私は六華のために新しいお父さんを探してあげてるのにね──あんたのせいで私、また不幸になっちゃったじゃん」


 鋭いガラス片のような冷たい瞳が僕を突き刺した。


「だからさ、あんたの飯に薬を混ぜてこうして連れてきたわけ。私が苦しんでるんだからあんたが苦しむのは当然でしょ?──なにその眼……違うって言いたい訳?!」


 怒声を浴びながら何度も脇腹を殴打される。この痛みは正しく僕の日常そのもので、僕はようやく取り返しのつかない勘違いをしていたと理解した。


「ねぇ!どうしてあんたは私の邪魔ばっかするの?!六華は私のことが嫌いなの?!ねぇ!なんとか言いなさいよ!」


 言葉に含まれる怒気が一層と殺意を帯び僕へと迫るが、今の僕では逃げることも抗うこともできない。祈るように、許しを請うように、ひたすら首を振り続ける。だが、その動作すら今の母さんには逆効果だったらしい。


「あんたも私を捨てるんだ、あの男達みたいに……じゃあ、しょうがないよね──」


 鈍い光が暗闇を切り裂き、僕の腹部に激痛が走る。


「───っ!」


 腹に突き立てられた包丁。Tシャツが赤く染まり、やがて黒ずんでいく。はらの熱は冷めないのに背中の方から自分の身体が冷たくなっていくのを感じた。


「ようやく静かになったね……母さんさ、昔から海が好きなんだ……そう言えば、あの人がプロポーズしてくれたのもこういう海岸だったなぁ……」


 出血のせいかガスのせいか視界がぼやけ、思考にはもやがかかる。手足の感覚などとうに無くなっていた。


「────」


 母さん、と言ったつもりだった。しかし、絞り出すような僕の声はタオルのくつわに阻まれる。ステンドグラスのようなくぐもった世界の中で母さんはひとり遠い海を眺めていた。

 あぁ、やはりそうなのか。この人には、最初から息子ぼくの事など見えていなかったのか。

 もっと早く気付いていれば良かったと思う。もっと早くこの人を見限っていれば良かったと思う。

 ──でも、もうどうでもいい。僕の世界はここでおしまいだ。もう悩む必要も、苦しむ必要もない。この白い靄に身を任せれば全部終わってくれるのだから。


 それは恐らく幻聴だったのだろう。

 僕の耳は既に機能を失っている。あの遠いさざ波も聞こえない。

 でも確かに聞こえたんだ。

 混濁に飲まれ霞みゆく意識の中で、確かに聞こえたんだ。

 鈴の音のような、今にも消え入りそうなか細い声が助けを求めていた。

 その声を聞いた。聞いた気がした。


 だから僕は暗闇の中で手を伸ばして────

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