第34話

 仕事に集中しなければと思いながらも、ここ数日で大きな事件が立て続けに起こったせいで、旭はパソコンの前に座っているだけで全く目の前の画面に集中出来なかった。

(まさかあの東十条隼人まで落とすなんて。日向って甥っ子は本当に末恐ろしい、魔性のオメガとはまさにあいつのことだな)

 ホテルで颯太に告白された後、日向はすぐに旭の家から出て行くことになった。

「今まで騙しててごめん」

 颯太から既に連絡があったらしく、ホテルから戻った旭に日向は真っ先にそう謝った。

「もう颯太から聞いたと思うけど、僕のアルバイトは割りの良すぎる家庭教師なんかじゃなくて、颯太の密偵だったんだ。旭に近づくアルファを追い払って、旭の様子を颯太に報告するのが仕事だった。良くないことをしてるのは分かってたんだけど、僕もお金と時間が必要だったし、それに颯太の熱意に押されたっていうか……あいつは僕の弟みたいな存在だったから、応援してやりたい気持ちもあって」

 珍しくしおらしい様子の日向に旭は思わず吹き出しそうになった。

「そんな神妙な態度、厚顔無恥なお前らしくない。俺は別になんとも思ってないから心配するな」

 旭からすれば、颯太も日向も自分よりずっと歳下のガキンチョで、大切な家族に他ならない。彼らの悪さを笑い飛ばして許してやるくらいの大人の余裕なら旭も持ち合わせていた。

「それでどうするの? 颯太のこと受け入れてやるの?」

「そうだな、正直まだ心の整理がついてないけど、俺はあいつの希望は出来るだけ叶えてやりたいと思ってるんだ」

「旭、分かってる? 颯太は旭との結婚を望んでるんだよ。当然子供だって欲しがると思うし、そのためにはっていうか、それ以前に……」

 日向がそれ以上言うのを旭は慌てて遮った。じわじわと顔に血液が上がってくるのが分かる。

「わ、分かってるって。俺だって子供じゃないんだから。受け入れると決めた以上、もちろんそこだけ拒否するわけにはいかないだろ。あいつは優秀なアルファで、俺、CM撮影の時一瞬あいつにちょっとだけドキッとさせられたし。いや、あまりにも記憶の中の颯太と違いすぎて混乱してたのもあるんだけど。だからきっと、全く無理ってわけでは……」

 言い訳がましい旭の言葉を聞きながら、日向の顔に段々笑みが戻ってきた。

「ふーん。なんだ、心配して損した。僕は今まで一度も颯太にときめいたことなんてないけどね」

「お前こそどうなんだ。いつのまに東十条隼人とそんな関係になってたんだよ?」

「そんな関係も何も、別にどんな関係にもなってないよ」

 隼人の話題を出した途端、日向の顔からすっと笑みが消えた。

「嘘つくな。あの人はずっと後継者争いをしていた颯太に譲歩してまでお前との仲を取り持つよう頼んできたんだぞ」

「知らないよ。相手が相手だし颯太のためでもあるから今度会ってやることにはしたけど、向こうが勝手に何か勘違いしてるだけだって」

 旭は納得いかなかったが、これまでの経験から日向の方が、こと恋愛に関しては一枚も二枚も自分より上手であることは良く分かっていた。

「僕の心配より自分の心配をしなよ。颯太からここを引き払うよう言われてるから、近日中に実家に戻るね。僕がいなくてもちゃんと三食きちんと食べなよ」

 そう言われると、旭は急に寂しい気分に襲われた。颯太の計略とはいえ、日向は四年間もの間ずっと旭の側にいて、悪い虫を追い払いながら家事もこなしてくれた上、颯太の不在による寂しさを埋めてくれていたのだ。明るく破天荒な日向の性格に、旭は何度も振り回されつつ、救われたこともまた事実であった。

「僕は頑張るよ。オメガが社会的地位の高い仕事に就くのはまだまだ難しい世の中だけど、社会的弱者のオメガを守れるような弁護士になるってずっと夢見てた。旭と颯太のおかげで本来無かったはずの道が開けたんだ。このチャンスは絶対ものにしてみせる。だから旭もオメガだからって諦めないで。自分の幸せに必要なものは全て手に入れるくらいの貪欲さを持って生きようよ」


「村上君、大丈夫? また何か悩み事?」

 平井社長夫人に心配そうに声をかけられて、旭ははっと我に返った。

「すみません、度々ボーッとしてしまって……」

「やっぱり残業が多すぎるんじゃないかい?」

 平井社長にも心配されて、旭は慌てて首を振った。

「こんなの多いうちに入りませんよ」

「そういえば、こないだのプレゼントは上手くいった?」

 旭はなんと答えていいか分からず、一瞬言葉に詰まった。結局あの日用意したプレゼントはカバンに入れたまま持って帰ってきてしまった。そもそも婚約祝いのつもりだったのが颯太が婚約破棄を宣言したため、当然の結果といえばそうなのだが。

「……ちょっとこないだは渡しそびれてしまったので、また次の機会にでも渡そうと思っています」

 平井社長と夫人は戸惑ったように顔を見合わせた。

「……そう、そうだったのね」

 夫人はそれ以上深入りせずにその話題を終わらせようとしたが、平井社長は真剣な表情で旭から目を逸らさずに話を続けた。

「君はもういい歳だ。身近な人のめでたい話題に触れて、何か思うところがあったんじゃないかい?」

「え、社長?」

「君自身も結婚したいと思っているけれど、何か気になることがあって踏み出せないとか」

 平井社長の推測は決して正しくは無かったが、あながち間違いでも無かった。

(旭、分かってる? 颯太は旭との結婚を望んでるんだよ。当然子供だって欲しがると思うし)

 日向の言葉がここ数日、頭にこびりついて離れなかった。

 子供。かつて旭も望んだことがあった。他人の子供を産んで育てたことがあるから尚更、いつかは自分の子供を腕に抱いてみたいと。颯太は以前計略の一環で子供を得ようと試みていたが、颯太の子供を産みたい女性やオメガは星の数ほどいるにも関わらず、あえてややこしい手順を踏んでわざわざ旭の子供を得ようとした。それは颯太の旭を、生まれてくる子供を大切にするつもりだという意思の表れだった。旭と一緒になったら、きっと颯太も次のステップとして子供を欲しがるに違いなかった。

 しかし、旭は株式会社イブキでの仕事がとても好きだった。自分の手でオメガの幸せを構築する仕事にやりがいを感じていた。新卒で正社員として務めた会社では結局育児休暇を取ることができず、産後休暇が終わった時点で籍を抹消されてしまった。当時旭は新卒だった上、社会も今ほど働くオメガや女性に寛容ではなく、寿退社が当たり前の時代だった。今とは状況がだいぶ異なるが、あの時の挫折の記憶は旭の精神に深く巣食って彼の歩みを遅らせていた。

 だが、平井社長の顔を見ているうちに、再び日向の言葉が耳に蘇ってきた。

(旭もオメガだからって諦めないで。自分の幸せに必要なものは全て手に入れるくらいの貪欲さを持って生きようよ)

 オメガだから、子供を産むために仕事を諦めるのか? それとも仕事を続けるために子供を諦めるのか?

「……子供を産むことを考えていました」

 旭の口からポツリと言葉が漏れた。

「年齢が年齢なので、子供が欲しいなら早く行動しないといけません。でも、ここでの仕事がすごく気に入っていて……」

 平井社長は急に立ち上がると、黙ってすたすたとその場を立ち去ってしまった。

(やっぱり新入社員の分際で、こんなこと話すべきじゃなかったかな……)

 しかし平井社長は本棚の中から一冊の冊子を取り出すと、すぐに旭の所へ戻ってきた。

「村上君、うちの社内規定には目を通したかね?」

「あ、はい、一通りは」

「休暇制度のページはきちんと読んでいるかい?」

 旭は一通りその冊子に目を通してはいたが、重箱の隅を突くように隅々まで確認したわけではなかった。特に休暇制度に関しては、新人の自分にはあまり関係ないことだろうと思ってほとんど読み飛ばしてしまっていた。

「少子化対策の一環で、国は女性やオメガの育児休暇制度を認めているが、その実態は実にお粗末なものだと私は考えている。いくら制度があっても利用しづらい状況では無いのと同じことだろう?」

 平井社長は社内規定の冊子をポンと旭の机に置いた。

「国が認めているにも関わらず、細かい概要は企業任せだ。当然企業によって差が出てくる。それは仕方のないことだと思うよ。企業によって仕事内容も、財務状況も、社員数も異なるんだ。会社は慈善事業ではないから、社員の福利厚生ばかり優先しすぎて負担が大きくなってもいけない。会社というのは人間同士の集まりだから、いろんな人がいろんな感情を持って働いている。理論だけで人々をまとめるのは難しい。だけどね、私は企業の努力で改善できる部分はまだまだたくさんあると思っている」

 平井社長は座っている旭の顔を覗き込んだ。優しい視線だった。

「例えば入社してからどれくらい経ってからなら子供を作れるのか。ここの規定を曖昧でいい加減にしている企業は多い。ゆえに社員同士の間で軋轢が生まれる原因になる。入社してすぐに妊娠するなんて常識的にあり得ないと思うけれど、ではその常識とはどこから来たものなのか? 会社のルールは社内規定が絶対だ。ここで明確に規定していれば、誰に文句を言われることなく堂々としていられるのに、そこを怠った経営者がその時の感情や雰囲気で判断しようとするから不公平感が生まれてしまうのだ。村上君、うちでは育児休暇は入社一年後から取得できると我が社の社内規定にははっきりと明記されている。産後休暇終了後の時期が入社一年に満たない場合どのように対処するかも法律に則ってきちんと決めてある。私がこの手で記入したんだから、このルールは経営者である私がちゃんと把握しているよ。うちの社員はこのルールを自分で理解して、妊娠時期を決めればいい。会社はルールに則って対処するだけだ」

 平井社長は冊子を再び取り上げると、該当ページを開いて旭に差し出した。

「うちの勤務地はこのオフィスだけだから気にしなくていいけど、勤務地や部署の多い会社は復帰後希望の勤務地や部署から移動させられる懸念があるね。働きながら子供を産んで育てるにはまだまだ課題が多い。だけど人口が減少すれば国は立ち行かなくなるし、働き手を確保するためにかつては家庭に入るのが当たり前だった女性やオメガを仕事に駆り出したんじゃないか。だったら社会はもっと彼らに寛容であるべきだ。彼らの権利は誰に邪魔されることなく当然与えられるべきだろう? また彼らも当然与えられる権利とはいえ、会社やそこで働く人々のおかげでそれが得られたことをきちんと理解し感謝するべきだ。お互いがそうやって相手を尊重し合って初めて、私の理想とする社会に近づくのではないかと私は思っているよ」

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