第33話

 高級ホテルのソファに腰掛けて、今度は旭が颯太の両肩をしっかりと掴んでいた。

「子供を育てるってのは容易な事じゃない。自分の時間もお金も奪われることになる。だけど、それは決して特別なことなんかじゃない、当たり前のことだ。親になったら当たり前に誰しも経験することなんだよ。お前を育てると決めたのは俺自身で、誰に強制されたわけでもない。お前は俺がお前を引き取って無駄な時間を過ごしたと言ったけど、お前と過ごした時間は決して無駄な時間なんかじゃなくて、かけがえのない大切な時間だった。いくら大金を積んでも手に入れられるものじゃない、幸せな時間だったよ。お前はまだ親になったことがないから分からないだろうけど、子供っていうのはそういう生き物なんだ。小さい頃なんか特に手がかかって大変なんだけど、でも、こんなに誰かに愛されて求められる経験ってのはなかなかできるもんじゃない」

 颯太も赤子の時は夜泣きをし、後追いをし、人見知りもした。保育園に預けられると最初の一ヶ月は大泣きし、寝る時は必ず旭の布団に潜り込んできた。自分で食事やトイレもできるようになり、文字が読めるようになり、自分の意見を話せるようになり、少しずつ大人に近づくその過程にいちいち感動したものだ。その一つ一つの苦労や喜びの記憶は、旭の心の中で今でもキラキラと輝く大切な宝物として残っていた。

 颯太は言葉に詰まったように黙っていたが、ようやく掠れた声でポツリと呟いた。

「でも、俺は……あなたの子供としてではなく、あなたの夫として、あなたを愛したいのです」

 そんなふうにストレートに言われると急に恥ずかしくなって、旭は赤面して俯いた。

「それは……やっぱり少し時間は欲しいけど。でも、そうだな、俺はどうしたってできるだけお前の希望は叶えてやりたいと思ってるし、それに……」

 旭は颯太の立派な体躯をちらりと見た。

「お前には失礼かもしれないけど、オメガなら誰だって、お前みたいな立派なアルファがいたらどうしても惹かれてしまう。それは俺だって例外ではないよ」

 颯太の表情がぱっと明るくなった。ここ最近でこんなに晴れやかな表情の颯太を見たのは初めてのことであった。

「それで十分です。可能性がゼロでないなら。俺のこと、一人の雄のアルファとして見てもらえるなら」

 その時、ホテルの部屋の扉を遠慮がちにノックする音が聞こえた。颯太が訝しげに立ち上がって扉を開け、驚いた声を上げた。

「兄さん?」

 旭は念の為寝室のベッドの脇に身を潜めた。東十条隼人は颯太に案内されてリビングの椅子に颯太と向かい合って腰を下ろした。

「急にどうしたんですか? どうして俺がここにいると分かったんですか?」

「このホテルは東十条社長の援助を受けて、俺の母親が経営しているホテルなんだ」

「それでこのホテルをCM撮影に使ったんですね」

「ああ、ホテルの宣伝にもなるし、俺は予算が浮くからな」

 旭の位置から隼人の表情は見えなかったが、なんとなく彼の声からは覇気が感じられなかった。

「……お前、サタケ株式会社の令嬢と婚約したんだってな」

「ああ、そのことなら忘れてください」

「えっ?」

「婚約は白紙に戻しますから」

「なんだって?」

 隼人は驚いてガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。

「どういうことだ?」

「彼女とは元々そういう約束だったんです。お互い別に好きな人がいるので、お互いの利益のために婚約はするけれど、時期が来たら白紙に戻すことに決めていました」

「……その時期ってのは後継者争いに勝利した時なんじゃないのか?」

「元々そのつもりでしたが、事情が変わったんです。アズマグループは兄さんに譲ります」

 隼人が何も言わないので、颯太は続けて説明した。

「俺は最初から社長の座に興味はありませんでした。ただとある人の心を射止めるために、社会的地位と資産が必要だと思っていたんです。でもその人と腹を割って話して、その両方とも必要ないことが分かりました。だったらこれ以上策を弄して時間を無駄にする必要はありません。佐竹さんとの婚約期間も長引かせない方がいいし、東十条社長も後継者のことで頭を悩ませる時間が短くて済みます」

 吉田麗香には一応計画のことは話してあったが、やはり自分の恋人が別の人間と婚約状態にあるのはいい気がしないはずだ。一度婚約破棄されたオメガは次の貰い手が付きにくくなる。そんな時に救世主のように吉田という貰い手が現れれば、美波の両親は喜んで娘を差し出すはずである。颯太と美波はそれを見越してこの偽装婚約計画を立てていた。つまり美波にとっては婚約期間の長短は問題にならないのである。それなら彼女にとってこの偽装婚約期間は短い方がいいに決まっていた。

「兄さんだってこれ以上後継者争いに神経をすり減らす必要が無くなります。俺がこの争いから降りれば、みんなが幸せになれますよ」

「そのことなんだが……」

 ここに来てようやく隼人が口を開いた。

「実は俺も……お父さんの期待に応えられそうにないんだ」

 颯太は驚いて兄を見た。四年前に東十条家に引き取られてからずっと、この兄は常に傲慢な自信家で、気さくな好青年を演じつつ腹の中ではいつも颯太の事を見下している印象だった。こんなにも自信なさげに小さくなっている兄を見たのはこれが初めてのことであった。

「カレンとは短くない付き合いで、事務所は否定していたけど俺たちは一応付き合ってたんだ。彼女は理想的な女性で、俺はずっと彼女のことが好きなんだと思っていた。だけど……」

 隼人は苦しげに肘をテーブルについて頭を抱えた。

「だけど、違ったんだ。もう何ヶ月も前だったけど、それに気づいてしまった。俺は彼女のことを、高級時計か何かと同じようにしか見ていなかった。お前との後継者争いに勝つには彼女と結婚するのが手っ取り早いと思ったけど、気づいてしまった自分の本心は欺けなかった。彼女だって馬鹿じゃないからもう気がついてる。俺はカレンとじゃ後継者を残せない」

「兄さん。園田さんのこと、心から愛していないってどうして気づいたんですか?」

 颯太の問いに一瞬躊躇った後、隼人は重い口を開いた。

「なあ颯太、俺たちは二人ともお父さんの期待に沿えない。だけどあの人の子供は俺たちだけだ。だったら二人で協力しないか? 俺たちしかいない以上、お父さんは婚姻に関しては目を瞑らざるを得ない。お父さんが以前言ったように、二人でアズマグループを引き継ごう。あの時は絶対有り得ないと思ったけど、まさかお前と利害が一致するなんてな」

「利害が一致したのですか?」

 颯太は疑わしげに隼人を見たが、隼人は真っ直ぐな視線で颯太と向き合った。

「俺はアズマグループに幼少期からずっと属していて、グループ内には俺の息のかかった者がたくさんいる。お父さんの後ろ盾がなければお前は完全に孤立無縁状態だ。俺に協力してくれるなら、お前の悪いようには決してしないと約束するよ」

「そんな、俺が兄さんに協力できるようなことなんてありますか?」

「ああ……あの人との仲を取り持ってもらえないか?」

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