第32話
「おめでとうございます! 妊娠が確認できましたよ」
産婦人科でそう告げられたものの、旭には全くその実感が湧かなかった。
(本当か? 俺の体の中に、本当に別の生き物が住み着いているってのか?)
腹部を試しに何度か触ってみたものの、妊娠初期のお腹に変化があるはずもなく、動いている感覚も全くなかった。ただ東十条夫妻に報告した時とても喜んでもらえた事は嬉しかった。特に夫人の喜びようは尋常ではなかったため、少しプレッシャーも感じた。
(社長には既にお子さんが一人いらっしゃるようだが、夫人の子供ではないらしい。自分の子供を授かるってのは、あれほど嬉しいことなのだろう)
自分は結婚詐欺で痛い目に遭ったところなので、今すぐにそんな気にはなれないけれども、いつかは自分の子供を腕に抱けたらどんなにいい事だろう。夫人の嬉しそうな顔を思い浮かべながら、旭は漠然とそんな事を考えていた。
しかしすぐにそんな悠長な事を考えてなどいられなくなった。
自分のデスクでパソコンを睨みながら、旭は百パーセントフルーツのジュースに手を伸ばした。
(気持ち悪い……常に車酔いしてるみたいだ)
少しでも空腹になると耐え難いほど気分が悪くなる。かといってその度に何か食べていては規定体重などすぐにオーバーしてしまう。なるべく体に良さそうな甘い飲み物が今の旭の救いだった。
「村上君大丈夫かい? なんだか顔色が悪いよ」
「いえ……大丈夫です」
「聞いたよ、代理母出産するんだって? つわりキツいんじゃないかい?」
会社の同僚は皆親切で身重の旭を気遣ってくれたが、自分の都合で彼らに心配や迷惑はかけたくなかったため、吐き気を堪えながら旭は必死の形相でパソコンにかじりついていた。
「大丈夫です。やれます……」
「む、無理しないで……」
妊娠初期のエコーはお腹の上からではなく、下から器具を突っ込んで行うため正直不快だった。ぐっと器具を入れられる時、旭は思わず歯を食いしばって息を止めてしまう。
「はい、心臓がちゃんと元気に動いてますね〜」
医者に言われてエコーの画面を見た時、旭はハッとして思わず画面に釘付けになった。
前回見た時は小さすぎて、ちっさな袋状のものがポツンと見えるだけだったのだが、それよりだいぶ大きくなった生命がそこに映し出されていた。
「……可愛い」
思わず口から言葉がこぼれ落ちていた。その小さな生命はとても人と呼べる形をしておらず、強いていうなら虫のようなフォルムをしていた。その虫のような生命体は、手なのか足なのか何なのかわからない部位を必死で動かして、その場に止まったままモゾモゾと体を動かしていたのだ。
まだ人の形をしておらず、自分の遺伝子を持った子供でもない。それでも旭は感動して涙が溢れそうになった。自分の子宮に抱かれて必死に生きようとしている小さな命、その存在だけでもいじらしく、愛おしく思えた。
妊娠中期に入ると少しずつお腹も膨らんできて、胎動も感じられるようになってきた。お腹の中で赤ちゃんが動いている気配を感じられると、今日も元気に生きていることが分かってほっと安心できる。
その日、産婦人科医は旭だけでなく東十条夫妻も一緒に病院に来るよう要請した。診察室に入ると、いつも能天気な医者が深刻な表情で三人を待っていた。
「先日行った羊水検査の結果が出ました」
羊水検査とは流産の心配が少なくなった妊娠十五週ごろに行うことができる検査のことで、赤ん坊に何か先天的な病気が無いか出生前に知ることができる検査であった。旭はそのような検査の存在など全く知らなかったのだが、東十条夫妻の希望で実施されることになったのだ。
「こちらが結果になります」
検査結果の書かれた書類を開いた夫人が息を呑んだ。夫人の横から覗き込んだ東十条社長も難しそうな表情をしている。夫人が恐る恐る口を開いた。
「あの、この検査の精度ってどれくらいなんでしょうか?」
「ほぼ百パーセントと言われています」
旭は不安で背中にびっしょりと冷や汗をかきはじめた。
「あの、赤ちゃんに何か問題でも……?」
「君が悪いんじゃないよ。私達の遺伝子の問題だ」
東十条社長は優しくそう言ったが、旭は不安で押しつぶされそうになっていた。
「もしかして、何か障害があったんですか?」
「どの病気というのははっきりわからないのですが、現時点で遺伝子に異常が確認されています。おそらく将来何かしらの重篤な病気を患う可能性があります」
旭は目の前が真っ暗になる気がした。
(今だって、俺のお腹の中でこんなに元気に動いてるっていうのに。既に何かしらの病気を患っているだって?)
「人工妊娠中絶は妊娠二十一週まで可能ですが、早いに越した事はありません。いかがなさいますか」
東十条社長と夫人は暗い目つきで頷きあうと、社長が口を開いた。
「中絶を希望します」
「えっ?」
驚いて叫んだ旭の肩を、社長が宥めるようにそっとさすった。
「私達は将来アズマグループを牽引してくれる後継者を求めているんだ。体の弱い者では意味がないんだよ。それに私達はもういい歳で時間がない。君さえ良ければ、体調が戻り次第もう一度私達の子供の代理母を再チャレンジしてもらいたいと思っているんだ。実は君以外にも何人か代理母を依頼したんだが、妊娠まで漕ぎ着けたのは君だけだったんだよ」
つまり、今お腹にいる不良品の子供はさっさと捨てて、次の子供を、遺伝子的に問題のない子供を早く妊娠してほしいという事なのか?
旭は首を振った。考えるより先に言葉が口をついて出た。
「お断りします」
東十条社長は旭の反応を予測済みだったのか、優しく肩をさすりつづけた。
「君には本当に申し訳ないと思っている。体の負担も大きいだろうし」
「今日はまだショックが大きいと思うので、一度帰ってよくお考えになった方が……」
医者の言葉に旭は再び首を振った。
「私がこの子を引き取ります」
東十条夫妻は驚いて顔を見合わせた。
「契約違反して申し訳ありません。お金は結構ですから、この子は私に譲っていただけませんか?」
「君、だけど、子育てはそんな簡単な事じゃない。時間もお金も奪われるし、その子はどんな病気を持って生まれてくるか分からないんだ。多分普通の子よりお金がかかるはずだ。そもそも君はお金が必要だったから代理母になったんじゃないのかい?」
社長の言う通りだった。そのうえ旭は代理母出産の特別措置として、新卒にも関わらず産前産後休暇を会社から認められていたが、自分で子供を育てるとなると保育園に預けられるまでの育休期間が必要になってくる。おそらくそこまで会社は認めてくれないだろう。つまり旭は仕事を失い、本来もらえるはずだった報酬も失った上、借金と病気持ちの赤子だけ手元に残されることになる。
しかし、旭ははっきりと覚えていた。初めてエコーで見た小さな生命の姿を。まだ虫のような体を必死にばたつかせて、全力でこの世にしがみついている姿を。お腹の中でそれが生きている事を実感できたその瞬間から、旭の中で途中で降りるという選択肢は既に消え去っていたのだ。
「ご迷惑は決しておかけしないと約束しますから、どうか私がこの子を産むことを許していただけないでしょうか」
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