第31話

 颯太は旭の両肩を掴んだまま、真剣な表情で言葉を続けた。

「あなたと一緒になるためにこの四年間、血の滲むような努力を続けてきました。でも後継者だけは、子供だけは俺の努力や策略だけではどうにもならなかったんです。なぜなら俺があなた以外との子供を望んでいなかったから。どうしてもあなたを巻き込んで、騙し討ちにするしかなかった」

 颯太の行いは自分本位で、旭の尊厳を踏み躙るような行為だった。自分に子供が必要だから、旭の意思に関係なく妊娠させようとしたのだ。夫婦ですら子作りの際は相談してお互いの合意のもと行うべきなのに、付き合ってすらいない相手を勝手に妊娠させようとするなんて横暴極まりない。

 しかし、自分でも良くないことだと分かっていても、旭は颯太に対してこれ以上ないほど甘くて寛容だった。

「お前、俺を本気で妊娠させるつもりなら、俺だけじゃなくてお前自身もラットを誘発しておくべきだっただろ。ラット状態のアルファとヒート状態のオメガが揃ったらもう誰にも止められない。さっき自分で言ってたじゃないか。平手打ちくらいじゃ止められなかっただろうって。お前は理性的な人間なんだから、嫌がる相手を無理矢理犯すなんてできっこないんだ」

 颯太が黙って何も言わないので、旭は颯太の頭をそっと撫でた。

「なあ、思ってることがあるならまずは話し合わないと。お前の言いたい事はわかるけど、黙ってたらお互い分からないだろ。お前の考えてることも、俺の考えてることも」

 旭は自分の肩にかかっている颯太の手をそっと外すと、颯太の横に座り直して横並びになった。

「お前はアズマグループの社長の座に固執してるみたいだけど、どうして社長なりたいんだ? お金が欲しいから? それとも地位が欲しいからか?」

「俺自身は金にも地位にも興味はありません」

 旭の問いに颯太は即答した。

「ただあなたを大金持ちの玉の輿に乗せたい、それだけです」

「社長業という仕事自体にも魅力を感じていないのか?」

「全くもって興味ありません」

 旭は思わず吹き出した。

「じゃあ別に社長になる必要なんて無いじゃないか。それなら慌てて子供を作る必要も、偽装婚約する必要もないだろ?」

 颯太は俯いたまま、チラリと旭を見た。

「俺は別にお金持ちになりたいわけでも、贅沢な暮らしをしたいわけでもない。お前が社長なったところで嫌なら結婚しないし、逆に好きなら非正規社員でも結婚するよ。誰かと一緒になるってそういうことじゃないのか?」

「他とはわけが違うんです。俺はずっとあなたの子供でした。今でもあなたにとって、俺はあなたが産んで育てた子供のままです。その関係を壊す必要が俺にはあった。あなたを扶養して加護する絶対的な存在に俺はなりたかったんです」

 颯太の言う事は旭にもよく分かった。ずっと本当の親が子供にそうするように、颯太には無償の愛を注いできたのだ。それを急に肉欲の対象として見ろと言われても、確かに戸惑ってしまう。

「それに、あなたは俺のせいで人生の大半の時間を無駄にしたじゃないですか。時間を戻す事はできなくても、お金と地位があればそれを今からでも取り返せます。生活のためにしたくもない仕事を遅くまでする必要もないし、時間があればやりたかったことを今からでもできる。俺はあなたに、俺のせいで無駄にした人生を少しでも返したいと思っているんです」

 颯太に対する感情を整理していた旭は、颯太の口から思いもよらない言葉が出てきたのでびっくりして颯太を振り返った。

「なんだって? 人生を無駄にしたって?」

「俺がいなければ、あなたは仕事を選べたし、時間もお金も自由に使うことができたはずだ。十六年間も自分を犠牲にして血のつながりも何もない子供を育てたんです。完全に人生を無駄にしてるじゃないですか」

「違うよ、颯太」

 颯太がそんなふうに思っていると知って、旭の胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

「それは違うんだ」


 その日、十六歳になったばかりの旭は途方に暮れて、消費者金融のビルの前にぽつんと立ち尽くしていた。

(こんなことが本当にあるなんて……)

 全く若気の至りというか、世間知らずの無知なオメガだったというか、どちらにせよ彼の初めての彼氏は行方をくらましてしまったので、どうすることもできなかった。彼に残されたのは、彼が結婚資金にと自ら判を押して借りた借金だけだった。当然借りた金は逃げた彼氏に全て渡してしまっていた。

「ロマンス詐欺ですね。あなたみたいな若くて物事をまだよく分かっていないオメガにありがちなんですよ」

 消費者金融のカウンターの女性は心底同情するような口調で旭に告げた。

「本来未成年だと借金できないんですが、オメガ性の方は進学されない方も多く、就職先も限られていますし、予期せぬ妊娠で十代でも経済的困難に陥る方が多いので、特別措置として未成年での借金が認められているんです。そこにつけ込んで、判断能力のまだ低い若いオメガを狙ったロマンス詐欺が後を立たないんです」

 今考えると確かに怪しい点はいくつかあったのだが、初めての恋に浮かれてすっかり周りが見えなくなっていた。親や兄弟、友達にも結婚の事は黙っていてくれと言われたり、式場はサプライズで連れていくから、どこでどんな式を挙げるのか全く説明無しに先に資金だけ渡してくれと言われたり。そもそも旭の両親は既に亡くなっていて、唯一の肉親である姉の朝子は第二子出産時に危篤状態になって随分前から入院しているため、とても話せる状況ではなかったのだが。

「もし返済にお困りでしたら、こんな方法もありますので検討してみてはいかがですか」

 女性に手渡されたチラシを、旭は穴が空きそうなほどまじまじと見つめた。

「代理母出産ですか?」

「若いオメガの方ほど需要があります。健診時や出産時の資金も全てクライアント持ちになりますので、元手無しで一気に稼げて借金もすぐに返済できますよ」

「しかし、私は就職したばかりでして。新卒社員がいきなり妊娠出産というのは……」

「オメガの代理母出産は国の少子化対策にも盛り込まれていて、会社は勤続年数に関わらず産前産後休暇を認めなければならないことが法律で決まっています。あなたと同じような境遇の方が、何人も晴れやかな表情で借金を返しに来られるところを私は何度も見てきましたよ」

 そう熱心に説得されると旭の心も次第に揺らぎ始めた。チラシを握りしめたまま、半信半疑で教えられた住所の建物に向かうと、仲介業者の社員が喜んで旭を迎えてくれた。

「ちょうど新規顧客からの依頼があったところでね。ぜひ話を聞いてみてくれないか」

 奥の応接室に案内され、旭はそこで身なりの整った風格のある中年男性とその妻に引き合わされた。

 これが旭と東十条夫妻との出会いであった。

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