第21話
「……その、まさかこのタイミングでヒートが起こるなんて夢にも思わなくて。予定日は二週間後で、今まで割とサイクルも正確だったし。サイクルに入りそうな時は前もって錠剤を服用しておけば、さっきみたいな事態にならずに済んだんだ。まさかもう更年期障害の症状が出てくるなんて……」
「更年期障害?」
「ほら、歳を取ったらヒートサイクルに乱れが生じて、異常に早く来たり逆になかなか来なかったりするようになるらしいんだけど、どうもそれが更年期障害の症状の一つだって……」
旭はそこでごくりと唾を飲み込んだ。ベッドで俯いていた颯太が立ち上がり、こちらに向かってゆっくりと歩いて来た。無表情のまま、片手に香水の瓶のような物を握りしめている。
「あなたが謝らなければならないことなんて何もありませんよ。ヒートを誘発した原因はこの薬の香りです」
「えっ?」
旭の目には何の変哲もないただの香水の瓶のように見えたが、颯太は瓶の中身をシンクに流すとそのままゴミ箱に投げ入れた。
「オメガのヒートを誘発する薬です。何か事情があってヒートサイクルをずらしたい場合に使用される薬で、旅行や結婚式など大事なイベント時に体調を万全にしておきたいオメガが使用することや、子供の誕生日を操作したい場合に使われることを想定して開発されました」
「へえ、そんな便利な薬があったなんて知らなかった」
「抑制剤と違って必要不可欠な薬ではないので、現時点では保険適用外のかなり高価な薬になります」
女性の生理と同じで、オメガにとってヒートサイクルは大切な生理現象であり、厄介な症状でもあった。抑制剤は日進月歩で進化しているものの、副作用もあってサイクル中体調を万全に整えることは難しい。もし意図的にサイクルをずらせるならば、颯太が言ったように結婚式や旅行など全力で楽しみたいイベント前にサイクルを終わらせておいて、心身ともにリラックスした状態でその日を迎えることが可能になるというわけだ。
「でもそんな高価な薬が、どうしてこの部屋に……?」
そこで旭ははっとひらめいた。
(ハニートラップか!)
颯太は東十条家では微妙な立場だ。きっと彼のことを快く思っていない輩はたくさんいるに違いない。東十条家内に関わらず、ライバル会社やもしかしたら今回婚約が決まった大手医療機器メーカー内にも敵が潜んでいる可能性だってある。颯太のスケジュールを把握している何者かが事前に何らかの方法でこの部屋に忍び込み、薬を設置して颯太がオメガと不祥事を起こすよう仕組んだのではないだろうか?
(婚約が決まったこのタイミングで不貞行為が暴露されでもしたら、颯太は一貫の終わりだ。婚約が白紙に戻るだけでなく、女性の実家である大手医療機器メーカーとの関係も悪化するだろうし、東十条家での立場も危うくなって、たくさんの人達からの信頼も失うだろう)
「大変だ! 颯太、この部屋にカメラが仕込んであるかもしれない。すぐに調べないと!」
「……カメラ?」
「ハニートラップだ! お前の婚約を妬んだ誰かが、お前を陥れるために罠を仕掛けたんだ! オメガの俺とこの部屋で会うのを知っていた誰かが、事前にヒートを誘発する薬を用意していて、お前の不貞行為を婚約者にリークするつもりなんだよ!」
颯太は無表情のまま黙っている。旭はまだ力の入らない体を何とか引きずるように立ち上がると、怪しい箇所がないか部屋をぐるりと見回し始めた。
(無駄に広い部屋だから厄介だな。でもヤるとしたらベッドかソファだろうから、そこがバッチリ映る場所だろう。いやでも床でもできないことはないか。いやいやそんなことを言ったら浴室だって……)
「カメラなんてありませんから、安心して下さい」
颯太の感情のない声に、旭は思わず振り返った。
「え、どうして?」
「アルファにハニートラップを仕掛ける時は、ラットを誘発する薬を使用します。その方がずっと効率が良い。わざわざオメガを発情させる必要なんてありません。性欲に狂って凶暴化したアルファを止めるのは難しいので、確実に不貞の証拠を押さえられます。ヒート時のオメガの魅力は抗い難いですが、ラットを起こしてない限り正気を保てないなんてことはありませんから」
「え、でも……」
「もしさっき俺がラットを起こしていたら、平手打ちくらいで止めることなんてできませんでしたよ」
先ほどの醜態が思い出されて、旭は赤面して俯いた。
「……でも、じゃあどうして俺とお前が会う予定だった部屋に、ヒートを誘発する薬なんかが置いてあったんだ?」
「薬を置いた人間の目的は、あなたを妊娠させることです」
「何だって?」
旭は仰天して思わず颯太の方へ一歩近づいた。
「俺を妊娠させるって、何で? お前の子供を?」
確かに婚約中の御曹司に隠し子なんかできたりすればとんでもない不祥事だが、そこまでする必要があるのだろうか?
「え、まさか俺? 俺が誰かから恨みを買って……?」
「旭さん」
颯太が急に強い口調で旭を呼んだ。そのままゆっくりと近づいてくると、ふらつく旭の体を支えてソファに座らせた。
「どうして自分ばっかり責めるんですか? どうして俺のことを責めないんですか?」
「お前は何も悪くないじゃないかか
「どうして俺を疑わないんですか?」
颯太の目に不意に異様な光が宿った。
「その薬をここに置いたのは俺です」
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