第20話

(そ、そんなばかな! 次のヒートサイクルまではあと二週間もあるはずなのに!)

 ヒートが始まったばかりの若い頃はよくサイクルがずれて苦労するものだが、二十代後半くらいになるとどのオメガも大体落ち着いてきて、自分のサイクルを把握できるようになってくる。女性の生理不順のようにサイクルが不順なオメガもいるが、旭はどちらかと言うと安定しているタイプで、今まで三日以上サイクルがずれたことなど無かったのだ。

(え、もしかして、これがまさかの更年期障害ってやつなのか?)

 しかしそんなことを悠長に考えている暇などなかった。ヒート中のオメガのフェロモンは強くアルファを惹きつけてしまう。旭は一刻も早く自らを颯太から隔離する必要があった。

「そ、颯太、すまない。俺から離れるんだ。俺、ヒートに入ったみたいで……」

 リビングの机の上に置いたカバンの中に抑制剤が入っている。オメガにとってヒートは命取りになりかねないので、用心深いオメガはたとえサイクル前でも普段から抑制剤を持ち歩くことを習慣化しているが、それが功を奏したようだ。

(しかしこんなに一気に反応が来るなんて。おそらく颯太のフェロモンに当てられたんだな……)

 ヒートサイクルに入ったオメガは思考のほとんどを性欲に支配され、体の自由が効かなくなる。普段はサイクルに入る少し前から準備していて、前兆が来たら先手を打って抑制剤を打つ対応するため、こんなふうにふらつく体を壁で支えながら何とか前進する必要などないのだが。

(全く、また颯太の前で無様な姿を晒す羽目に。俺はこいつの前では格好をつけられない呪いにでもかかってるのか?)

 ふと視界の端を何かがよぎり、旭は思わずそちらに視線を向けた。

「え? 颯太?」

 距離を取るように言ったはずなのに、颯太は部屋を出て行くどころかいつの間にか寝室にまで入ってきて旭の側まで来ていた。

「颯太! ダメだって!」

 颯太は壁に手をついて何とか立っている旭の後ろから手を伸ばし、そのまま旭の顔の横に自らも手をついた。荒い息が首筋にかかり、旭の背中からどっと汗が吹き出した。颯太は相当キツイらしく、壁についた手からは玉のような汗が滴り落ち、肩が上下するほどの激しい息遣いをしている。しかしその辛さは旭の比にはならなかった。

(ダメだ!)

 僅かに残った理性が警告を発していたが、体が全く言うことを聞かない。旭は体をぐるりと回すと、本能が指示するままに颯太の首に腕を回して抱きついた。濡れた下半身を押し付けると硬いものが当たり、颯太も昂っていることが分かった。

 ヒート中のオメガは本能的にアルファの体を強く求める。そのために自らもフェロモンを発してアルファを引き寄せるのだ。血のつながりがある者同士なら性欲を刺激されることはないのだが、元親子とは言え旭と颯太に血縁関係は無い。これはもう理性とか恋愛感情の有無などお構いなしの本能がなせる技なので、二人の体の反応はごく自然なものであった。

 颯太は旭の背中に腕を回して強く抱くと、そのまま抱き上げてベッドに押し倒すように倒れ込んだ。旭が見上げる間もなく顔に影が落ちて、そのまま二人は激しく口付けした。

 腕を離さなければ、と頭の片隅でずっと誰かが警告を発していたが、アルファの口付けはより一層旭を興奮させ、頭は朦朧として快楽を追求すること以外何も考えられなくなってしまった。この腕を解いて颯太から離れなければ、という警告とは正反対に、旭はより一層深く口付けるために回した腕に力を込めた。

 颯太の手が旭のシャツの裾をまさぐり、するりと服の中に入って胸の尖りを捉えた。そこを指先で刺激されると快感がぞわりと背筋から腰に広がって、旭は思わず呻き声を上げた。びくりと腰が跳ねて、下腹部がじわりと熱を持ったように疼いた。

 この疼きは二つの方法でしか押さえられない。今すぐ抑制剤を打つか、この目の前のアルファと激しく交わるかのどちらかだ。前者は人工的で不自然な解決方法であり、後者の方がより原始的で自然な方法であった。この状況では当然後者の方が手っ取り早く、旭は荒い息を吐きながら颯太の昂っているそこに手を伸ばそうとした。

 この疼きを、この渇きを、この熱を、一刻も早く冷まさなければ。この目の前のアルファを使って、このアルファと交わって、絶頂を感じなければ。

 ん? このアルファって何だ?

 旭の脳裏にぱあっと光が差し込んだように、切り取られた明るい記憶の映像が浮かび上がった。五歳くらいの男の子が、嬉しそうに笑いながら木の実を繋げたネックレスを差し出している。寒い冬の日に、気恥ずかしさか寒さのせいか頬を真っ赤に染めながら、折り紙で作ったハートを旭の手のひらに乗せている。どんぐりで作った指輪を旭の薬指にはめて、大きくなったらパパと結婚するんだと、小さいが意志のこもった声で宣言している。

 颯太、そんな可愛い事を言っていた彼も大きくなって、結婚することになったんだった。相手は確か、由緒正しき大手医療機器メーカーのご令嬢で……

(颯太!)

 霧がかかったようになって朦朧としていた意識の中に一筋の光が差し込み、わずかだが理性の糸の先が見えた気がして、旭はそれに必死でしがみついた。

 颯太だ。今目の前にいるのはただのアルファじゃない。彼がこの世で最も愛してやまない、たった一人のかけがえのない存在だ。裕福な家庭で最高の教育を受け、結婚して幸せになるはずの、輝かしい未来の約束された選ばれた存在だ。こんなところで自分のような、どちらかと言うと卑しい身分のオメガともつれていていいような人間ではない!

 しがみついた糸は頼りなく、今にも旭の手からすり抜けてしまいそうだったが、旭は意地でもその僅かな理性を手放さなかった。颯太が次の段階に移ろうと口付けを離した瞬間、旭は今持てる全ての力を右腕に込めて振り上げた。

 バシッ!

 鋭い音が寝室に響き渡り、颯太が一瞬怯んで動きを止めた。旭の腕にはほとんど力が入らず、颯太の頬を張った勢いもそこまで強くはなかったが、頬を叩かれたという事実自体が颯太に衝撃を与えたようだった。旭は颯太の腕の拘束が解けた隙を見逃さず、転がるようにベッドから降りてリビングへと向かった。どこにそんな力が残っていたのか、旭は半分意識を失いかけながらも何とかカバンに手を伸ばし、注射器を取り出すと最後の力を振り絞って自らの太ももに突き刺した。

 注射器注入型の抑制剤は即効性に長ける。すぐに効果が現れ、旭は体の火照りがすうっと引いていき、霧が晴れるように意識がはっきりとしてくるのを感じた。倦怠感はしばらく残るだろうし力も入りづらいが、体のコントロールを取り戻せただけでも十分だった。

「はあ〜」

 壁に背中を預け、旭は大きく安堵のため息をついた。

(よ、良かった。何とか最悪の事態は回避できたみたいだ。そうだ、颯太は?)

 慌てて寝室に顔を向けると、颯太は旭に頬を張られた時の体勢のまま、ベッドの上で俯いていた。こちらに背を向けていて表情は見えないが、背中から哀愁が漂っている。興奮がおさまってくると、旭の心に言いようのない罪悪感が押し寄せてきた。

(ああ、なんてこった。俺の自己管理がなってなかったばっかりに、またこんな気まずい雰囲気になってしまった。しかも颯太を……この俺が颯太に手を上げるなんて……)

 彼が幼い頃、当然のことながら旭は何度も颯太を叱ったことがある。善悪の判断がまだ未熟な子供を育てる保護者の当然の義務だったが、しかし旭は一度たりとも颯太を打ったことはなかった。

(子供の頃ですら一度も引っ叩いたことは無かったのに、まさか大人になったこのタイミングで手を上げることになるなんて……)

「あの、颯太……その、悪かった」

 恐る恐る声をかけると、颯太は微動だにせず、ただ一言だけ疑問を口にした。

「……どうして俺に謝るんですか?」

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