第19話

 日曜日、全く眠れなかった旭は何度か寝返りを打った後、諦めてベッドから体を起こした。まだ外は薄暗かったが、気分をシャキッとさせたくて浴室へと向かう。

(颯太に会うのはかれこれ半年ぶりか。隈を作った顔で再会したくはないな)

 熱いシャワーを少し長めに浴びると、血行が良くなってなんとか健康的な肌色に見える気がした。普段は寝癖が付いていても気にしない旭だったが、しっかり頭からお湯を被ってドライヤーできちんとセットする。

「……まだ六時だよ。約束の時間ってお昼でしょ? 一体何やってんのさ」

「起こして悪かったな」

「別に良いけど、そんな早くから気合い入れてたらお昼までにへばっちゃうよ」

 ドライヤーの音で起きたらしい日向は、あくびをしながら再び部屋に戻って行った。

 前日から着ていく服は決めてあったので、身支度を整えるのに十分とかからなかった。あのCM撮影の日に着て行ったのと同じシャツとズボンだ。実は颯太に指定された場所が、例によってあの高級ホテルの全く同じ部屋だったため、服装もあえて無難に同じ物を選んだのだ。

(前回あの格好で行っても締め出されることはなかったんだから、今回も大丈夫だろう)

 すっかり出かける準備が整ってしまい、手持ち無沙汰になった旭はカバンの中身をもう一度チェックした。スマホにハンカチ、抑制剤の注射器を持ち歩くことはオメガの嗜みだ。それから今日最も大切な物、颯太への心ばかりのプレゼントがカバンの底に入っていることもしっかり確認した。

「もしかしてホテル代払う気なの?」

 財布の中身をチェックしていると、再び日向がひょっこり顔を覗かせた。

「そりゃあ、颯太に払わせるわけにはいかないだろ」

「無理無理、カッコつけるつもりなら恥かくだけだからやめときなって。あそこの料金いくらかかるか知ってるの?」

 そういえばちゃんと調べていなかった。前回はアズマグループが貸し切っていて、旭は一応仕事で行っただけだったので支払いは関係なかったし、今回は事前に颯太が予約していたので、一体どんな料金のどんなプランで予約したのか、旭には全く知らされていなかった。

「ちょっと話するだけで別に宿泊するわけじゃないし、そんなにかからないだろ」

「甘いね旭。高級ホテルのスイートルームだよ。ちょっと休憩するだけでもきっとすごい金額かかると思うよ。ここは颯太に任せた方が絶対スマートだって。そもそもあいつが指定して勝手に予約したんだし、仮にも大企業の御曹司なんだからそれぐらい甘えたって大丈夫だよ」

 一抹の不安が残ったが、それは颯太に会った時に確認すればいいことだ。そんなことより目下の課題は、気まずい雰囲気で別れた後久しぶりに再会する颯太と、どうぎこちなく会話を続けられるかということである。

(まずは婚約のお祝いを述べて、それからこないだのことを謝って、それから……いや、こないだのことを謝るのが先か? いやでも俺の一番の目的はお祝いすることだし、ていうかそもそも颯太は俺に一体何の用事なんだ?)

 考えはまとまらなかったが、約束の時間は刻一刻と近づいてくる。旭は考えることを諦めて、とにもかくにも家を出た。一度行ったことのある場所なので、ホテルまでの道のりもスムーズで迷うことなく、約束の時間よりだいぶ早く着いてしまった。

(どうしよう。たしかホテルのチェックインの時間って決まってるんだよな。早く着きすぎたけど、一応フロントに声かけた方がいいんだろうか?)

 旭がどうしていいか分からず、とりあえず受付前の椅子に座って思案していると、フロント係の女性の方から声をかけてきた。

「ご宿泊のお客様ですか?」

「あ……えっと、実はここの最上階の部屋で人と会う約束をしていて。でも部屋を手配してくれたのは先方なので、どういったプランでの予約か分からなくて……」

「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「えっと、村上旭です。あっ、予約者は村……じゃなくて、東十条颯太だと思うんですけど」

「はい、確かに二名様で最上階のスイートルームをご予約いただいております。こちらがカードキーです」

「え、もう入ってもいいんですか?」

「お入りいただけますよ」

(何だ、もう入って良かったのか)

 なんだか拍子抜けしながら、旭はエレベーターを乗り継いで最上階へと向かった。前回来た時はアズマグループの関係者で占領されていたラウンジだったが、今日はくつろいだ雰囲気の宿泊客らしき人達がちらほら見えるだけで、同じホテルなのに全然違った印象を受けた。

(えっと、部屋番号は……本当にあの時と同じ部屋なんだな)

 どうしてもあの日の醜態が思い出されてしまい、旭は一人赤面して俯いた。

(いやいや、いい大人がいつまでも昔の失敗を引きずっていてどうする? 若い頃なんてもっと恥ずべき失態をたくさん犯してきたじゃないか。それに比べたらあの日のことなんて何の害もない、本当にただの笑い話に過ぎないんだから)

 旭はそう自分を叱咤して心に折り合いをつけると、思い切って部屋の扉を開けた。相変わらずここに住めてしまいそうなくらい広くて豪華な部屋に足を踏み入れると、香水のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。

(ん? 前来た時とは違った匂いだな……)

 旭はゆっくりと周りを見回しながら部屋の奥へと歩を進めると、とりあえずリビングスペースの椅子に腰掛けた。他にもソファやら何やら休めそうな場所はいくつかあったが、この椅子なら机を挟んで颯太と向き合って座れる。広い室内で、ここが一番二人で話すのに適した場所である気がしたのだ。

(まあ別にソファに並んで腰かけたっていいんだけどね。颯太が俺と一緒に住んでた時みたいに)

 たった二人だけの家族には小さなソファで十分だった。この部屋にある物よりずっと小さくて安物の硬いソファに並んで座り、テレビや映画を見たり本を読んだり、時には何もせずにボーッとしたりして過ごした。狭い部屋の狭いソファにくっつくように座っていると、たった二人でも家族の存在を肌で感じられて、全く寂しさを感じることはなかった。

(でも今あのソファに二人だとちょっときついかな。颯太があんなに大きく成長してしまったから、窮屈過ぎてとてもくつろげたもんじゃないだろう)

 大きな体を安物の小さなソファの中で縮こまらせている颯太を思い浮かべるとおかしくて、旭は思わず吹き出した。

(それにしてもなんだか暑いな……)

 エアコンは丁度いい温度に設定されているはずなのに、なんだか体が火照ってきている気がして、旭はふと違和感を覚えた。

(最近仕事で忙しくしてるから、疲れが出たのかな? でも頭が痛いわけでもないし、風邪を引いた感じでもないんだけど……)

 軽くふらつきながら立ち上がると、旭は寝室に設置された化粧台へと向かった。鏡を覗くと、上気した頬に目元が赤く潤んだ自分の顔が映し出されていた。

(うーん、あまり格好いいとは言えないな。目元に隈を作ってるよりはずっとましだけど、なんでこんな感じになってるんだ?)

 その時ガチャリと玄関の扉が開く音がして、少しぼうっとしていた頭が一気に冴えた。

「……颯太?」

 スイートルームの玄関に立った颯太は、部屋の中に旭の姿を見とめて驚いた表情をした。

「ずいぶん早くいらっしゃったんですね」

「そうなんだ。早く着き過ぎたんだけど、フロントの人が入れてくれて……」

 その時だった。突然ぞくりと背筋に寒気が走り、旭の全身からぶわっと汗が吹き出した。

「あ……!」

 覚えのある感覚に、旭は頭の中が一瞬で真っ白になった。

(これは……ヒートだ!)

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