第16話
『株式会社イブキ』
家に帰った旭は、早速もらった名刺に書かれていた社名を検索してみた。創業十年目、資本金一千万円の典型的なベンチャー企業で、主にオメガをターゲットにした医療機器の製造、販売を行っているらしい。旭が展示会会場で体験したマッサージチェアはこの会社の目玉商品らしく、サイトのトップページにでかでかと写真が掲載されていた。
(従業員数は5名、企業理念は……オメガが安心して暮らせる社会の構築を目指します、か。珍しい社長だな)
社長の平井聡は長年勤めた大手医療機器メーカーを早期退職した後、五十五歳で株式会社イブキを立ち上げている。
(そのままレールの上に乗っていれば悠々自適な老後が約束されていただろうに、どうしてリスクの高い起業なんかに手を出したのだろうか?)
旭はパソコンを閉じると、もう一度もらって来た名刺に視線を落とした。サイトには採用についての情報は書かれていなかったため、直接電話するしかなさそうだった。数分悩んだ後、旭は名刺に書かれている電話番号をポチポチとダイヤルし始めた。あの社長がどういうつもりでこの名刺を渡して来たのかは正直よく分からない。ただからかわれただけで、本気にしてはいけないのかもしれなかった。だとしても、旭はこの会社と平井社長に強く興味を惹かれていた。
(別に冗談だって、採用されなくたっていい。ただ一度この会社に行ってみて、どんな人達が働いているのか見てみたい。どうしてこのような企業理念を掲げているのか聞いてみたい)
株式会社イブキは、中小企業の工場と集合住宅地が混在するような地域の片隅にひっそりと看板を掲げている小さな会社だった。
(これは、自宅兼事務所、作業場といったところか……)
普通の一軒家の一階にあたる部分がガレージのようになっており、階段を上がって二階部分に会社の看板が掛かっているところを見ると、そこが事務所なのだろう。三階部分のバルコニーには布団が干してあり、生活感が溢れている。三階から上が居住空間に違いなかった。
(えっと、どこから入ったらいいんだ? 一応約束の時間の五分前になってるけど、事務所でいいのかな?)
悩んだ末に二階へ上がる階段を登って事務所の扉を開けると、扉の正面カウンターの後ろに座っていた事務員らしき女性がすぐに立ち上がって出迎えてくれた。
「村上旭さんですね?」
「あ、はい」
「社長はすぐに戻りますので、少々お待ちいただいてよろしいですか?」
入り口のすぐ横に簡易的な机と椅子が置かれていて、旭はそこで待つことになった。壁で区切られた応接室と違い、事務所の一部のようなその場所からは、中で働いている人々の様子を肌で感じることができた。とは言っても現在事務所内にいるのは、旭を案内してくれた年配の女性事務員だけなのだが。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
女性は旭にお茶を勧めると、席には戻らずにそのままその場でおしゃべりを始めた。
「うちは社長を含めて従業員は五人しかいなくて、そのうちの二人は作業員で、今はこの下の作業場で製造作業を行っているんです。後は営業が一人いて、うちの主人が社長兼営業みたいなことやってるんですよ」
「あ……」
ということはこの女性は平井社長の奥方ということになる。旭が恐縮して椅子の上で身を固くしていると、作業着姿の初老の男性が事務所に戻って来た。
「遅くなってすまないね。少し工場の様子を見ていたんだ」
工場と言えるような大層な施設じゃないけどね、と平井社長は笑いながら旭の前に腰を下ろした。
「小さな作業場だけど、後で見に行ってくれるかい?」
「もちろんです!」
まるで新卒社員のような初々しい旭の反応に、平井社長は自分の子供を愛でるように目を細めた。
「でも正直なところ、驚いたんじゃないかな? こんなほぼ家みたいな会社、見たことないんじゃなかろうか」
「はい……」
旭はこの歳まで様々な場所で派遣社員やアルバイトとして働いて来たが、どの会社もこの株式会社イブキよりはずっと一般的に言われる『会社』らしかった。従業員もたくさんいて、この会社の事務所よりずっと広いスペースに所狭しと並んだ机でパソコンの画面に向き合っていたものだ。大抵の会社がビルの中に事務所を構えるか自社ビルを所有していて、こんなふうに自宅と事務所が一体化したような会社に来るのは初めてであった。
(それもそうだ。俺が採用されるような会社は、基本的に質をあまり問わない大量の派遣社員を必要とする規模の大きい所ばかりだった。こういう少数精鋭でやってるような会社は派遣社員でも優秀な人材を求めるから、俺には縁遠い場所だったんだ)
旭が何か言おうと口を開きかけた時、ガチャリと音がして再び扉が開いた。旭が振り返ると、若い女性に手を引かれた小さな男の子が、鞠のように体を弾ませながら事務所の中に入ってくるところだった。
「おばあちゃーん!」
「伊吹!」
伊吹と呼ばれた男の子は、カウンターの後ろに座っている社長夫人のところへ転がるようにかけていった。
「おばあちゃんのおくすりあったよ!」
「まあ! どこで見つけたの?」
「つくえのした」
「ありがとう」
「伊吹、こっちにおいで」
平井社長に呼ばれて、その男の子は旭と社長が向き合って座っている簡易テーブルの所までパタパタと走って来た。
「お客さんにご挨拶しなさい」
「こんにちわ」
颯太の小さい頃を思い出して、旭は思わず微笑んだ。
「こんにちは」
「孫の伊吹だ。伊吹は何歳だったっけ?」
社長に聞かれて、伊吹は勢いよく広げた手のひらを突き出した。
「五さい!」
(あ……)
旭の表情を素早く読み取った平井社長は、母親らしき女性を手招きした。
「用事が済んだなら家に戻りなさい」
「はい」
女性が伊吹の手を取って事務所を出ていくと、社長は穏やかな視線を旭に戻した。
「だいたい察しがついたかな?」
「……はい」
伊吹は五歳の男児にしてはかなり小さかった。颯太は幼少期病弱だと言われていたが、今の伊吹よりずっと立派な体格をしていた。
「この会社はお孫さんのために創設されたんですね?」
旭の問いに平井社長は静かに頷いた。
「私はアルファで妻はベータのごく普通の夫婦で、子供達もアルファとベータばかりだった。伊吹は私の初孫なんだが、彼の両親ともベータでオメガの息子を授かるなんて考えもしていなかったんだ。新生児検診で彼がオメガだと分かった時、私は初めてオメガ性というものを意識し始めた」
平井社長は昔を思い出すように遠い目をした。
「私が若い頃の認識では、オメガというのは生殖能力が強いのだけが取り柄の劣等種で、能力も低く社会的地位の低い人間が多いというイメージだった。社会に出てバリバリ働くというよりは、番を作って家庭に入り、子育てがひと段落してからパートやアルバイトに出るのが普通だった。男女共同参画が謳われるようになった流れで、女性だけでなくオメガの地位向上を目指す団体も現れ、最近では大分オメガの待遇改善も進んできているようだが、諸外国に比べると我が国の政策はまだまだ遅れをとっていると言わざるを得ない。現時点で私は、私の可愛い孫が幸せに暮らせる未来を思い描けなかったんだ。その社会の真っ只中にいた君なら理解できるんじゃないかな」
平井社長の言葉に、旭は黙って頷いた。
「我が社の経営理念には、孫バカジジイのそんな願いが込められている。オメガの人々のための製品を作り出して、彼らの生活の質を向上させることと、今はガレージ企業の我が社が大きく成長すれば、オメガの人々が働きやすい職場を作る、その手本となることが、この会社の目的なんだ」
平井社長は一旦言葉を切って旭の表情をうかがったが、旭の瞳の輝きを見てすぐににっこりと笑った。
「うちは小さな会社だから、正社員としての福利厚生は保証するが、給料は大企業のそれには到底及ばないし、ボーナスも寸志程度しかない。それでも我が社の理念に賛同して一緒に働いてくれるかい?」
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