第15話
驚いて顔を上げると、鋭い目つきの颯太が旭の体を引き寄せて庇うように立っていた。
「私のブースでセクハラはやめていただけませんか?」
相手の男性は慣れているのか、余裕の表情で両手を小さくあげた。
「これは失敬。てっきり同意の上かと思ったもので」
「同意の上?」
「夜勤や当直の多い医者には制欲旺盛な者が多い。そんな人間を相手にする展示会にどこのブースも見目麗しく制欲を刺激するような容姿のアテンドを置いているのは、当然そういう取引をするためだろう? クライアントもアルバイトの人間もそれは承知の上での契約だと思っていたのだが」
「そのようなつもりのクライアントもアルバイトもいるかも知れませんが、うちのブースではそのような契約をしているわけではありません」
「そうか、そこまでの賃金は支払われていないのだな。これは失礼した」
しかし、と男性はにこやかな表情のまま旭に話しかけた。まるで自分は何も悪いことなどしていないかのような悪気のない態度だ。
「少し私の手が早かったみたいだが、君さえ良ければ私のところに来ないかい? 結婚することはできないが、よその愛人に比べればずっといい待遇を約束するよ。ここでアルバイトをするよりはずっといい生活ができると思うのだが……」
「いえ、それは……」
旭が答えようとするのを、颯太が勢いよく遮った。
「うちより高待遇など絶対に有り得ませんから!」
「そうかい?」
男性は血気盛んな若者を宥めるような口調でそう言った後、ちらりと颯太の背後に視線をやった。
「ところで君、こちらに構っていて大丈夫なのかね? いまさっき君のブースから立ち去ったのは新しくできた総合病院の院長だったが、商談中だったのでは?」
颯太は一瞬だけ表情を変えたが、すぐにいつもの無表情な颯太に戻った。
「自らの利益を優先して、自分の元で働いてくれている人を見捨てるような経営者には誰もついて来ませんよ」
(颯太、大事な商談中だったのか?)
今度は旭が青くなった。男性は旭の顔色を見て流石に申し訳ないと思ったのか、ようやくその場を離れていった。
「……あの、颯太、さん……」
「お怪我はありませんか?」
颯太は鋭い視線にも声にも似つかわしくない言葉を口にした。
「あ……俺は大丈夫。なんともありません。あの、すみませんでした」
「あなたが謝るようなことは何もありません。こちらの監視不足で不快な思いをさせてしまい申し訳ありません」
颯太の口調は相変わらず堅苦しいままだ。
「部下の者に送らせますので、今日はもうお帰り下さい。日当はきちんとお支払いします」
「え? そんなわけには。人手が足りませんし……」
「日向に責任を取らせます。あいつが蒔いた種なので。ここで少しお待ちください」
「そんな……」
しかし考えてみれば、そもそも最初から颯太は旭を歓迎してはいなかった。勝手に押しかけて、挙げ句の果てに颯太のせっかくのビジネスチャンスまで台無しにしてしまったのだ。帰れと言われるのは当然のことだった。
「……分かりました」
旭がしょんぼりと待っていると、程なくして慌ただしくこちらに向かって駆けてくる人影が目に入った。
「ちょっと旭ちゃん、大丈夫だった?」
「……ヒロミさん?」
颯太は再び別の医者らしき人物との商談に入っていて何の説明もなかったが、彼が言っていた部下の者というのはヒロミのことらしかった。
「うちの事務所の子がトラブった時はあたしが間に入れるよう見張ってたんだけど、そっちまでは見てなかったの。ごめんなさいね」
「いえ、そんな……」
「お尻触られたんでしょ? 滅多にそんなことないんだけど、旭ちゃんが魅力的過ぎたのかしらねぇ」
むしろその逆だろうと旭は内心ため息をついた。歳を食っていて失うもののない、手頃で手の出しやすい存在だと思われたのだろう。
「うちの事務所の子達には説明してきたから、あたしが家まで送るわね」
そういえば颯太がそんな事を言っていた気がしたが、そこまでしてもらう必要は流石になかったので旭は慌てて首を振った。
「いえ、自分で帰れますから。ヒロミさんはヒロミさんのお仕事を……」
「颯太さんに頼まれたんだから、これも立派な仕事よ。さっきの男がストーキングしてきたらまずいでしょ?」
「でも……」
「いい子だから一緒に帰りましょう。アズマ製薬はうちのお得意さんなの。事務所の存続のためにも、未来の社長候補には絶対取り入らなきゃならないのよ」
そこまで言われてこれ以上断るわけにもいかず、旭はヒロミに促されるままに先ほどユニフォームに着替えた颯太の控え室へと歩き出した。
「おや、さっきの美人さん、休憩ですか?」
マッサージ機のブースの前を通りかかった時、先ほどのスーツの男性が再び声をかけて来た。
「いえ、もう帰るところなんです」
「もう上がりですか。それじゃあ帰る前にちょっと試して行きませんか? 今ならすぐに座れますよ」
「いえ……」
断ろうとする旭をヒロミが素早く遮った。
「おじさん、あたしもマッサージお願いできるかしら?」
「もちろんですよ。ちょうど二台空いてますから」
「やったぁ! 来た時からずっと座りたかったんだけど、ちっとも空いてなかったのよね」
(ええ〜?)
ヒロミという人間は仕事熱心なのかそうでもないのか、旭にはもはや判断がつかなくなってしまった。彼を置いて一人で帰るわけにもいかず、仕方なく旭もマッサージチェアに腰を下ろした。
(……あ、これ、すごくいい)
三十万もするとはいえ、所詮ただの機械だとそこまで期待してはいなかったのだが、予想以上に痒いところに手が届くというか、あまりの心地よさに旭は思わず眠りそうになった。
「ちょっとこれいいじゃない。機械だって信じられないくらいよ」
ヒロミも同じ感想を持ったらしく、うっとりと椅子に身を委ねている。
「お二人ともオメガでしょう? このマッサージチェアはオメガのお客さん専用に作ったものなんですよ」
「え……?」
旭は驚いて、思わず目を開けてスーツの男性を見た。オメガは元々人口が少ない上、社会的地位の低い者が多い。顧客のターゲットとしてはマーケティング戦略上あまり良い対象とは言えなかった。男性も旭の言いたいことは重々承知らしく、驚いた様子の旭を見ても全く表情を変えることなく穏やかに話し続けた。
「うちの社長変わってるでしょう? オメガをターゲットにした高価格商品を打ち出すなんて。こんな企画うちみたいなベンチャー企業でしか着手できませんよ。ね、社長?」
「どこの企業も進出してないブルーオーシャンなんだから、悪くない戦略だろう? 実際うちの会社はこの椅子のおかげで黒字化できたんだから」
いつのまにか初老の男性がブースの奥から姿を現していた。ロマンスグレーの品のある男性で、背も高くしっかりとした体躯をしている。オメガをターゲットにした商品を打ち出してはいるものの、自身は紛れもなくアルファであるようだった。
「男性、女性それぞれに有用なツボがあるように、アルファ、ベータ、オメガにもそれぞれの体質に合ったツボが存在する。この椅子はオメガに有用なツボを押さえて彼らの気の流れを整えることに特化しているんだ」
社長と呼ばれたその男性は旭の前で歩みを止めるとにっこりと笑いかけた。
「君、歳はいくつかね?」
「えっと、三十七です」
「その歳でアルバイトをしているということは、オメガの就職氷河期の犠牲者かな?」
「えっと……自分の学がなくて力が至らなかったというか……」
口ごもった旭の目の前に、社長は一枚の名刺を差し出した。
「決して大きくはないベンチャー企業だけどね、うちに来る気はないかね?」
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