第10話
海の見える窓辺に置かれた一瓶の香水。白い腕が伸びて、指先で撫でるように触れた後にそっと取り上げる。バスローブ姿の美しい男性がベッドに座り、視線を下げたまま顔を傾けてあらわになった首筋に何度も香水を吹き付ける。ふっと目を上げた男性がカメラ目線になった瞬間、妖艶な笑みを浮かべて人差し指を唇に当て、ウインクした後さっと白いシーツを跳ね上げる。画面を覆ったシーツが滑り落ちるとカットが変わり、体躯の良い男性が部屋に入って来るシーンに移る。男性がカメラに近づくと、精悍で雄々しい姿がはっきりと画面に映し出される。スーツの上着を脱ぎ捨ててネクタイを緩める動作は性急で、ベッドに近づく表情も切羽詰まったものを感じさせる。
『いいから!』
掛け布団を跳ね上げ、ベッドの上の人物の腕を掴んだところでカメラがフェードアウトする。
『愛しい人との熱いひと時を貴方に。アズマ製薬は男性不妊の改善薬の開発に力を入れています』
「……」
「アズマ製薬って抑制剤で有名な製薬会社なのに、その逆みたいな薬の開発もしてるなんてウケるね」
園田カレン主演の医療ドラマを旭と一緒に観ていた日向が、オープニングの後に挿入されたこのCMの画面を指差しながら笑っている。
「あ、ほらほら! 抑制剤の方のCMも入った! 東十条隼人ってテレビで見ると真面目そうに見えるな。実際は全然こんなんじゃないのに」
どうやら颯太と同じ日に同じホテルでCM撮影をしていた兄の東十条隼人は、アズマ製薬の看板商品である抑制剤のCMに出演しているらしい。赤いドレス姿の園田カレンと並んで立ち、薬の箱を持って真面目にカメラ目線で薬の説明をしている。
「ていうかこれって東十条社長がやってたCMとほとんど一緒じゃん。ただ人が変わっただけで、なんの面白みもないね。それに比べたら颯太の方はパンチが効いてて印象に残るよ」
実際颯太の出演したCMは地上波に流れた瞬間から人々の関心の的となり、SNSのトレンドに乗るくらい世間を騒がせていた。
『アズマ製薬の新しいCM、社長の息子が出てるみたいなんだけど超ヤバい』
『イケメンだし色気がヤバい。抱かれたい男一位だわ』
『ていうか相手役のオメガって誰? 俺はそっちの方が抱きたい』
『あの香水どこに売ってるの? 東十条颯太を落とせるなら百本でも買う』
SNSなどやったことのない旭は日向のアカウントで恐る恐るコメントを覗いていたが、多々ある過激な発言にぞっとして思わずスマホを取り落とした。
「おい日向、お前大丈夫なのか?」
「え? 何が?」
スマホを拾い上げた日向は画面に映っているコメントを見て苦笑した。
「別に、みんな好き勝手無責任なこと適当に言ってるだけだよ」
「でも、大学とかでバレたりしたら……」
「大丈夫。髪の色違うだけで全然印象違うし、僕普段メガネかけてるからまったく誰にも気づかれてないよ。それにまさか俺があんな感じでテレビに出てるなんて誰も思わないじゃん? 先入観って結構すごいんだよ」
(本当に?)
旭は不安を拭えなかったが、今さらどうすることもできないので小さくため息をつくしかなかった。
「……というかこのCM、俺必要だったのか?」
旭が映っているのはベッドに押さえつけられている腕と頭のてっぺんくらいで、顔も声も体ですらほぼ使われていない。
「俺じゃなくても誰でも良さそうだし、ていうか日向で良かったじゃないか。なんで俺呼ばれたんだ?」
「何言ってんのさ。旭じゃなきゃこの大役は到底務まらなかったよ。僕は颯太に押し倒されるのなんてまっぴらごめんだね」
(いや俺だって別に了承したわけじゃなかったんだけど……)
「僕たちにはよくわからないけど、何か理由があって呼ばれたわけだし、この通りCMもちゃんと出来たんだから別にいいんじゃない? お給金だってちゃんと貰えたわけだし」
「え? もう貰ったのか?」
「明細は郵送で来るからまだだけど、銀行にはもう振り込まれてるよ。旭まだ見てないの?」
「まだ銀行行ってないから……」
「ネット銀行にすれば家ですぐ見れるのに」
スマホ音痴、ネット音痴の旭にとって、ネット銀行というのはなかなかハードルの高いものだった。改めて日向とのジェネレーションギャップを感じながら、旭は銀行へ行くために通帳を持って家を出た。
(颯太は俺の借金のことを気にしてくれていると日向が言っていた。だとしたら、俺に給金が入るようにあえて不要な俺まで呼んでくれたのかもしれない。颯太はすごく忙しいみたいだし、同時に必要なカットを取れば時間短縮になるから周りも納得したんじゃないか? いや、でも日向のいた部屋に颯太は行ってないみたいだったし、それなら颯太のスケジュールに日向が合わせればいいだけのことだ。やっぱり俺のためだけにあんなややこしい事を。でも周りはどう納得させたのだろうか?)
考えれば考えるほど、あのCM撮影現場の状況はよく分からなかった。そもそもカメラマン一人に現場監督とメイクアップアーティストが兼任だなんてのもお粗末な気がする。旭が知らないだけで撮影とはこのようなものなのかもしれないが、もしかしたら西野ルミカが怒ったのは現場が低予算に見えてプライドを傷つけられたからかもしれない。
銀行の前に立った旭は二、三度頭を振って気を取り直した。
(何も事情を知らない俺が一人で考えたってしょうがない。もう終わった事なんだし、颯太の役に立てたみたいなんだからそれで良いじゃないか。それでお金が貰えたんならなおよし。別に貰えなくたって、全然大した事やってないし、俺はいつだって颯太のためなら無償でなんでもできるよ)
そう、俺はもう四十手前の大人。颯太や日向なんかよりずっと人生経験豊富なお兄さん? なのだ。俺が冷静でいなくてどうする?
ATMに吸い込まれた通帳が機械音と共に吐き出される。印刷された数字を見て旭の呼吸が一瞬止まった。
俺が冷静にあいつらを引っ張ってやらないと。だけど、あれ? 目の錯覚だろうか。なんかゼロの数がおかしくないか?
脳みそが視覚情報の処理をようやく終えて事態が理解できた時、旭は公共の場にも関わらず思わず大声で叫びそうになった。
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