第9話

「え……颯太?」

 旭もぽかんとして上に乗っている青年を見つめた。一瞬二人の間だけ時が止まったように見えたが……

「はい! カーット!」

 ヒロミの大声に、旭と颯太はベッドから飛び上がって我に返った。

「あ……颯太」

 しかし颯太は素早く掴んでいた旭の両腕を離すと、旭の制止を振り切ってすぐに部屋を出ていってしまった。ベッドの上に一人残された旭は何が何だか分からず、ただ起き上がって颯太の出ていった扉をぼんやり見守るしかなかった。

「ちょっと旭ちゃん! 凄いじゃないの!」

 カメラを確認していたヒロミが顔を上げて、満面の笑みを旭に見せた。

「NG無しで一発で決めたわね。完璧よ! もうサイッコー! ここ数日の苦労が一気に報われた気分だわ」

「……え?」

 自分はただ馬鹿みたいにベッドで一人パニックに陥っていただけなのだが、ヒロミは興奮気味に旭を褒め称えているし、梶も満足そうにカメラを確認している。

「あの、俺なんにもしてないんですけど……」

「悪かったわね、ちゃんと事前に説明してあげられなくて。クライアントから一発目はサプライズ撮影したいってお願いされてたの。きっとその方が上手くいくからって。でもまさか本当に上手くいっちゃうなんて。今日は時間がたっぷりできたから、あたしもエステでも行こうかしら」

 サプライズ撮影? そんなのありか? ていうかあの撮影で一体何を撮ったんだ? どの辺がNG無しのOKだったんだ?

 聞きたいことは山ほどあったが、一番気掛かりなのはやはり颯太のことだった。

「あの、そう……東十条颯太さんはどこへ?」

「颯太さんならもう帰っちゃったんじゃないかしら?」

「え……?」

(もう帰った? そんなバカな。四年ぶりの再会がいかがわしい雰囲気のたった数分間だけだったなんてありえない!)

「あの人基本的にとてもお忙しいみたいよ。それもそうよね、お兄様の隼人さんは小さい頃から英才教育を受けて、アズマグループの後継者として計画的に育てられてきたけど、弟の颯太さんは確か東十条家に引き取られたのが十六のころじゃなかったかしら? そこから隼人さんと同じレベルを目指さないといけないんだから、学ぶことが多すぎてきっとすごい過密スケジュールのはずよ。それなのに今回のCM撮影でえらく手こずっちゃって、もうこれ以上時間も場所も確保できないピンチに追い込まれてたの。幸い場所は隼人さんが自分のCM撮影のために借りたホテルの空いてる部屋を貸して下さったから、後は颯太さんの時間次第だったんだけど、旭ちゃんのファインプレーでとんとん拍子の大成功だったってわけ」

「颯太さんって、その、一体アズマグループ内でどういった立ち位置なんでしょうか? どうして引き取られたのかとか、ご存じだったりしますか?」

「そうねぇ、隼人さんもお妾さんの子供っていうし、颯太さんもそうなんじゃないかしら? 東十条社長は巨大なアズマグループの後継者が一人だけなのは心許ないし、隼人さんへの負担が大きすぎるから有望な若者を養子に取ったってメディア向けには語ってるんだけど、あんなにそっくりなのにどう考えても社長の息子よね。おそらく奥様は子宝に恵まれなかったから、お妾さんが何人いるのか知らないけど優秀な隼人さんと颯太さんが引き取られたのね。でも不思議なのが、奥様は隼人さんより、後から来た颯太さんをすごく重宝していらっしゃるみたいなの。どうも次期社長には颯太さんを推挙したいみたいなのね。でもそれじゃあ隼人さんの立場が無いじゃない。だからきっと颯太さんと隼人さんって裏ではバチバチの険悪ムードなんじゃないかしら」

 颯太が慣れない環境で苦労しているのではないかと心配してはいたが、そのようなお家騒動は考えていなかったため、旭は颯太を思って心を痛めた。

(颯太、そんな難しい立場に置かれて、忙しい上にプレッシャーまで受けながら生活しているのか)

 結局撮影のことはさっぱり分からなかったが、少しでも颯太の役に立てたのならそれで良かったのではないだろうか。

(話すらできなかったけど、そんなに忙しい颯太と一目会えただけでも万々歳だ)

「日向ちゃんはもう少しかかると思うから、旭ちゃんはお風呂でも入って少しゆっくりして行ったら?」

「いえ、さっき入ったばかりですし……」

「こんな豪華な湯船に入る機会なんて滅多にないんじゃない? 心配しなくても置いてったりしないから、絶景のお風呂楽しんできなさいよ」

 それで旭は仕方なく、先ほど軽くシャワーを浴びた浴室にもう一度戻って、無駄にガラス張りの壁の向こうに見える海と山を眺めなから少しの間お湯に浸かった。広々とした湯船で足を伸ばしながら美しい景色を眺めるなんて最高の贅沢だったが、やはりガラス張りというのはあまり落ち着くものではなく、旭は自分の賃料六万三千円のマンションの小さな湯船の方がよっぽどリラックスできるんじゃないかと思った。

(しかし颯太、見違えたな。まさかこの俺が息子に会ってもすぐに気がつかないなんて……)

 四年の月日がこんなにも人の見た目を変えるなんて。確かに颯太と別れた時、彼は高校に入ったところで、言ってみればほぼ中学生みたいなものだった。今日会った颯太は二十歳、大学二年生のはずである。中学生と大学生なら子供と大人ぐらいの差はあるだろう。しかしそれにしても、颯太の成長は異常なほど目覚ましかった。体は大きくなっても颯太はいつまでも子供みたいなものだと思っていたのに、成長した颯太からは自分の息子らしさは微塵も感じられなかった。そこにいたのは一人の男であり、一人のアルファであった。

(颯太、本当にいい男に育ったな。高校でもきっと人気者だったろうけど、今やアズマグループの御曹司だ。これで女が放っておくはずがない。芸能人とこんなふうに接触する機会もあるみたいだし、有名女優と結婚とかも夢じゃないんだろうな)

 ふいにベッドに両手を押さえつけられた時の感覚が蘇り、旭は赤面して湯船に半分顔を沈めた。パニックに陥って我を忘れていたが、あれほどまでに完璧な見た目のアルファと寝所であんなふうに密着したのだ。旭の中のオメガが疼かないはずがなかった。

(あのときはパニックだったし、颯太って気づかなかったから……)

 入浴を終えた旭がヒロミと梶と一緒に部屋を出た時、ちょうど撮影を終えたらしい日向が隣の部屋から出てくるところだった。

「え……あれ、日向?」

 一瞬日向だと分からなかったのは、髪の色が別れた時と違っていたからだ。日向が派手な印象を受けるのは髪の毛を明るい金髪に染めているからといっても過言ではないのだが、部屋から出てきた日向は旭の地毛のような焦茶に近い黒髪になっていた。髪のトーンが暗くなったせいか、本人の表情もなんとなく落ち込んで見えた。

「あ、旭の方も終わった〜?」

 沈んで見えたのは勘違いだったのか、旭を見つけると日向はいつも通り光属性特有の明るい笑顔になった。

「お前、その髪どうしたんだ?」

「撮影のために染めたにきまってるじゃん」

「ねえ日向ちゃん、あなた才能あるわよ。こっちの世界にいらっしゃいよ。絶対売れるから」

 よく見ると、日向と一緒に部屋に入ったオネエのオメガが日向の肩に縋り付くようにして懇願していた。

「いえ、僕はそういう希望はないので……」

「ちょっと旭ちゃんからも説得してくれない? こんなに綺麗な顔してて、演技だって訓練受けてないとは思えない出来だったわよ。何よりカメラを向けられてもまったく固くならないその笑顔! もはやギフテッドよ。絶対人気出ると思うわ」

 どうやら日向をスカウトしたいようだ。もしかしてそういうお店への勧誘ではないかと心配していた旭は心の中でほっとため息をついた。

「スカウトなんて誰でも受けられるものじゃないぞ。アズマグループと関わりのある事務所ならちゃんとした事務所だろうし、受けてみたらどうだ?」

「だったら旭が受けなよ」

「いや、スカウトされてるのは俺じゃないし」

 どちらかというと派手な日向は芸能界に興味を示すものかと思ったが、旭の予想と違って日向は絶対に首を縦に振らなかった。

「僕は将来なりたい職業があるので、勉強する時間が必要なんです。必要最低限のこと以外には時間を割きたくありません」

(普通の学生以上にバイトしてる気がするけど?)

 嘘も方便なのだろうか。名残惜しそうなオネエのオメガを後に残し、日向は旭の腕を掴んでそのまま振り返ることなくその場を立ち去ったのだった。

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