第8話
ラウンジが広過ぎて全く気が付かなかったのだが、この階にもちゃんと宿泊するための部屋が存在していたらしい。スーツ姿の男性に案内されて向かった先は、長い廊下を渡った先の突き当たりの部屋の前だった。かなり広い間隔を開けて扉が四つあるところを見ると、スイートルームが四つほど存在するらしい。部屋の前にはラフな服装の男性が二人立っていて、スーツ姿の男性が近づくとぺこりとお辞儀をしていた。
「撮影はこの二つの部屋で行います。この二人が担当させていただきますので、どうぞよろしくお願いします」
スーツ姿の男性は旭と日向を二人の男性に預けると、元来た廊下を引き返していった。
「……あの、今日はよろしくお願いします」
恐る恐る挨拶する旭の肩を片方の男性ががしっと掴み、旭はびくりと体を硬直させた。
「……こっちが旭ちゃんでしょ?」
(オネエだ!)
「あら、あたしは一目で分かったわよ。こっちの方が明らかに若いじゃない」
もう一人の男性も日向の頬に指を這わせながらそう返した。よく見るとこの二人の男性は旭よりもずっと華奢な体つきで、明らかにオメガのオネエだった。
「……よろしくおねがいします」
日向はこんな状況でも人当たりのいい笑顔を絶やさなかったが、さすがに指先で触れられている片頬がピクリと痙攣していた。
「ちょっと髪の毛見せてね」
日向に触れていた方の男性が旭に近づくと、旭の髪の毛を少し手に取って興味深そうにしげしげと眺めた。
「髪質が細いのね。一度も染めたことないでしょ。限りなく焦茶色に近い黒髪ってところかしら」
男性はスマホを取り出して旭の顔写真を撮ると、満足そうに頷いた。
「オッケーよ。それじゃあそっちは頼んだわね」
男性はスマホをポケットに戻すと、日向の肩に腕を回して目の前の部屋の扉を開けた。
「あら、あなたはそっちじゃないのよ。旭ちゃんの部屋はこっち」
日向に続いて部屋に入ろうとした旭を、もう一人の男性が呼び止めた。
「……え?」
不安げな表情の旭の腕を掴むと、男性は隣の部屋の扉の前まで旭を引っ張っていき、有無を言わさず扉の中へと引き込んだ。
そこはこのホテルが誇る最上級のスイートルームで、寝室の他に広いリビングや簡易キッチン、豪華な浴室が備え付けられており、旭の住む賃貸住宅より明らかに広々としていた。
(これがホテルの部屋なのか? すごいな。下手したらここに住みつけそうだ)
一瞬今の状況を忘れて豪華な客室に魅入っていた旭だったが、部屋に先客がいたことに気がついて一気に現実に引き戻された。
「改めましてこんにちは。あたしは現場監督兼メイク担当のヒロミです。よろしくね。こっちはカメラマンの梶さん。あたしたちみんなオメガだから安心して」
カメラマンの男性は無表情のまま軽く会釈をした。ヒロミほどではないものの、梶も男性にしては線が細い。みんなオメガというのはどうやら本当らしく、旭は軽くため息をついた。
(良かった。ヒートサイクルまでにはまだ日があるけど、こんな密室で知らないアルファと一緒なのは俺たちにとってはあまり良いことじゃない。先方が気を利かせてくれたんだろう)
「あの、俺実は詳しいことは何も聞かされてなくて。日向は色々把握してるみたいなんですけど、今日って俺どんなことをすればいいんですか?」
「旭ちゃんはある意味難しい役割をこなさなきゃならないんだけど、やることはとっても簡単よ。メイクもとっても簡単。日向ちゃんの方はちょっと大変だから時間がかかると思うわ」
「西野ルミカが散々な結果だったのに、そんな簡単そうな言い方していいのか?」
「やだ、梶さんったら、そんなこと言ったら旭ちゃんが不安になっちゃうでしょ。大丈夫よ。この子達は颯太さんが自分で選んできたんだから、何か光るものがあるのよ。お父様が勝手に選んできた西野ルミカとは違うわ。あたしはぶっちゃけ好きよ、旭ちゃんの顔」
(もうすでにかなり不安なんだが……)
ヒロミはにっこり笑うと、ホテルの白いバスローブを旭に手渡した。
「とりあえずシャワー浴びて、これに着替えてきてちょうだい」
(え、せっかく朝時間をかけて身支度したのに。でもよく考えたらプロのメイクさんが付いてるんだから当然だよな。やっぱりCM撮影ってすごいな)
初めて入る高級ホテルの浴室は全面ガラス張りで素晴らしい開放感だったが、どうにも落ち着かなくて旭はシャワーを手早く済ませてすぐに浴室から出てきた。
「いいわねぇ、お風呂上がりの美人ってやっぱりセクシーだわ」
「……あの、髪とか乾かしていいのか分からなくて……」
「後はあたしに任せてちょうだい」
しかしヒロミは大したことはしなかった。髪は完全には乾かさずに湿った部分を残し、少し頬に紅を差して、バスローブを綺麗に整えたあと胸元を軽く開いただけだった。ほとんどメイクしたとは言えない状況に、旭は軽い不信感を覚えた。
「……あの、本当にこれだけでいいんですか?」
「あたしも実は不安なの。こんな依頼初めてだから。でも旭ちゃんは確かに美人よ。ベタベタ飾りつけるよりずっとそそられると思うわ」
「そろそろ準備した方がいい」
梶がそう言ってカメラの準備を始めたので、ヒロミの表情が一瞬引き締まった。
「分かったわ。今日こそは絶対成功させるわよ。旭ちゃんはベッドに入ってスタンバイしておいてくれる?」
(え? ベッド? バスローブ一枚で?)
「あの、これって一体何の……」
「しっ! 来たわよ。急いで!」
(えええ〜! 何の説明も無し? どう考えても段取り悪すぎ……)
そこで旭ははっと思い当たることがあった。
(まさか、これってAV撮影なんじゃ……)
颯太に限って旭達を騙すことなどあり得ないと思っていたが、この四年間で人格が変貌したのかもしれない。
(いや、そんなことはあり得ない。颯太が俺を陥れるなんて。そんなことして彼に何のメリットがあるっていうんだ。でも、この撮影に関しては、もしかしたら颯太も知り得ない事態に発展してる可能性だってあるし……)
ガチャリ、と扉が開いて、誰かが入ってくる気配がした。いつのまにかカメラが回り始めたらしく、ヒロミも梶も一言も喋らない。冷や汗がどっと吹き出して、バスローブの背中を湿らせた。
(この気配は……!)
アルファやオメガのフェロモンは、ラットやヒートと呼ばれる発情期には本人の意思に関係なく大量に放出されるが、普段微量に漏れるものに関しては当人の精神状態に左右されることが多い。何か興奮するようなことがあったり、相手を威嚇する意思があったり、緊張状態に陥ったりとそのパターンは様々である。今の旭はおそらく極度の緊張状態によって少なからずオメガフェロモンを放出しているはずだが、ここには他に二人もオメガがいる。彼らも緊張しているはずだから、この部屋に漏れているオメガフェロモンは旭のものだけではない。
しかし、扉を開けて入ってきた人物がこの部屋に持ち込んだのは、明らかにアルファの発するフェロモンであった。ラットサイクルに入っているわけではなさそうだが、相手も緊張しているのか、オメガの旭達にはかなり刺激の強い濃厚なフェロモンであった。
(どうしよう。バスローブ一枚で知らないアルファと共演するとか、AV撮影以外に何があるっていうんだ? ていうかもしAVじゃなかっとしても気まずいだろ、これ)
旭は思わず布団を顎まで引っ張り上げ、ぎゅっと目を瞑った。しかし相手は旭の顔に自分の影が落ちるくらい近づいてくると、いきなり旭の布団を引き剥がした。
「あっ!」
若いアルファだったが、体は既に出来上がっているようで、身長百九十センチはありそうだ。目元の濃い端正な顔立ちで大人びた雰囲気を纏っているもののどこか学生のような幼さも垣間見える。
しかし旭はそれ以上相手を観察する余裕は無かった。すっかりパニックに陥った彼は、両手を顔の前でクロスさせると再びぎゅっと目を瞑った。まるで自分が見なければ相手の存在がいなくなるものだと勘違いしている子供のような稚拙な抵抗だったが、今の旭にはそれが精一杯だった。
「す、すみません! 何かの手違いだと思うんですけど、俺、こんな仕事をしにきたわけじゃ……」
しかし相手は無慈悲に旭の両手首を掴むと、クロスさせていた腕を開いて荒々しくベッドに押さえつけた。
(なんて力だ! とてもかないっこない)
「いいから!」
青年の声が頭上から降ってきて、旭は思わず目を見開いた。額に汗の粒を浮き上がらせた青年が、切羽詰まった表情で見下ろしていた。
「落ち着いて、旭さん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます