第5話

 その日はこの夏一番の猛暑日で、最高気温は四十度に達していた。

(四十度って、もはや平常時の体温よりも上じゃないか。インフルエンザにでもならない限り四十度の熱なんて体験できないぞ)

 顎から汗を滴らせながら駅のホームに立っていると、たまに通り過ぎる人の視線が気になった。

(ヒートサイクルはまだだけど、これだけ暑いと汗と一緒にフェロモンが漏れ出しているかもしれないな。気をつけないと)

 電車を待つ間、旭は汗拭きシートでこまめに汗を拭き、使用済みシートは駅のゴミ箱に捨てた。ようやく電車が来ると、しっかり冷房の効いた車内がまるで天国のようだ。

 しかしこの急激な寒暖差が体に負担だったようで、駅に降りて再び熱のこもった空気に包まれた時、旭は目の前の風景が二重にぼやけるのを感じた。

(しまった!)

 まともに立っていることすらできないほど酷い立ちくらみがした。ふらっと地面に倒れそうになった時、誰かの手が旭の体を支えてくれた。

「大丈夫ですか?」

 声からして若い青年のようだった。

「あ……すみません」

 旭はなんとかして起きあがろうとしたが、腕にも足にも力が入らない。酷い頭痛までしてきて、助けてくれた相手の顔すらまともに見ることができない。

「これ、飲んでください」

 青年が旭の頭を支えて水を飲ませてくれた。

「今駅員さんが救急車を呼んでくれましたから。ここは暑いので救護室へ移動しますね」

 青年は軽々と旭を抱き上げ、駅の救護室まで運んでくれた。旭はオメガにしては高身長で、百八十センチはある。どちらかというと細身ではあるが、決してガリガリではないし、それなりに体重も重いはずである。そんな男を軽々と抱えて歩けるのだから、この青年もかなり体格に恵まれていることが伺える。実際旭を抱いている腕は控えめながら逞しく、体から微かに雄の匂いが漂っていた。

(……若いアルファだな。ヒートサイクル中でなくてよかった……)


「旭! 大丈夫?」

「ごめんな日向。ただの熱中症だから全然大したことなかったんだけど、一応報告しておかないといけないと思って……」

「何言ってんだよ、もう!」

 旭の症状はそこまで深刻ではなかったが、一応病院で点滴を打ってもらうことになり、帰りが遅くなりそうなので日向には連絡を入れておいたのだ。来なくていいと言ったにも関わらず、電話して三十分以内に日向は病院に駆けつけてくれた。

「この人が駅で助けてくれて」

 青年を一目見た日向は、驚いて思わず病院で大きな声を上げてしまった。

「えっ! 田中君?」

「えっ! 先輩?」

「え、知り合いだったのか?」

 日向はすぐに相好を崩して彼を旭に紹介した。

「田中優二君って言って、大学の後輩なんだ。去年同じ授業を取っててプレゼンで同じチームになったから、仲良くなったんだよね。田中君、この人は僕の叔父さんで、僕が叔父さん家に居候して一緒に住まわせてもらってるんだ」

「叔父さん?」

 優二は驚いて旭を思わず凝視した。

「そんな歳には見えませんが……」

「僕の母さんの弟なんだ。もう三十七歳になるんだよね」

「……そうだよ」

 何となく二十代の若者に言われると自分が急に老け込んだ気がして、旭はぶすっとしながら肯定した。

「怒らないでよ旭、全然まだまだいけてるって」

「お前に言われたくない」

「え、旭さんはご結婚はされてないんですか?」

 それが当たり前の三十七年間だったので、不思議そうに聞かれると旭の方がきょとんとしてしまった。

「そうだよ。婚活とかも試してみたけど、なかなかうまくいかなくてね」

「旭さんはオメガですよね? 子供がもし欲しいんだったらそろそろ結婚しないと間に合わないんじゃないですか?」

(うっ! 痛いところを突く子じゃないか)

 そんなことは重々承知だったが、世の中そんなに上手い具合にはできていないのだ。誰もが最適のタイミングで最適なパートナーと出会えるわけじゃない。

「……いや、俺もそう思うよ。でも子供を持つなら誠実な人がいいから、とか思ってたらこんな歳になっちゃって……」

「じゃあ、よかったら俺とお付き合いしてみてくれませんか?」

「……え?」

 あまりに唐突でストレートな物言いに一瞬何が起きているか分からず、旭はぽかんとして優二の優しげな双眸を見つめていた。隣では日向が笑った状態で表情筋が固まったように動けずにいる。少しの間、三人のいる空間だけ時間が止まったかのようだった。

「……え、田中君、何言っちゃってんの?」

 一番最初に時の呪縛から解放された日向が何とか口を開いた。

「今日初めて会ったんでしょ? いきなり付き合うとかありえなくない?」

「だって年齢的に早く結婚したいなら、付き合うのも早い方がいいんじゃないですか?」

 そう、年齢年齢! 旭も我に返って慌てて口を開く。

「えっと、田中君だっけ? さっきも言ったと思うんだけど、俺は今年で三十七歳なんだ。君はストレートで大学に入ったなら、二十歳かそこらだろう。今から大学を卒業して就職してってなると結婚なんてだいぶ先の話になるし、そもそも君の周りには若くていい人がいくらでもいると思うんだけど」

 そう、顔が好みなんだったら、一番手っ取り早いのは横にいる日向だ。歳もそんなに離れていないし、自分なんかよりよっぽど付き合うのに相応しいはずである。

「俺、匂いにけっこう敏感なんですけど、なかなか匂いの相性のいい人っていなくて。こんな言い方するとアレかもしれないですけど、旭さんの匂いはとても心地よかったんです。俺は年齢とか気になりませんし、学生結婚したって構いませんよ」

「田中君、性急すぎるって。君に限って結婚詐欺とかはまあありえないと思うけどさ、学生結婚なんてそんな、簡単にできることじゃないだろ?」

 日向の意見に旭も賛成だったが、この青年に少なからず興味が湧いてきたのも確かだった。隣に日向がいるにも関わらず、真っ直ぐな視線を自分に向けてくれる人はこの四年間で初めてだったのだ。

 旭の心境の変化を敏感に読み取った日向が今度は青ざめた。

「旭、まさか付き合ってもいいなんて考えてないよね? 親子ぐらい歳離れてるんだよ?」

「今すぐ返事は下さらなくて結構ですので、とりあえず連絡先だけでも教えてもらえませんか?」

 それくらいならいいんじゃないか? 別に恋人としてでなくても、旭は人間としてこの青年に興味があった。

 旭がスマホを取り出すのを見た日向は突然勢いよく立ち上がった。

「ちょっと飲み物買ってくる!」

 慌てて病室を飛び出す日向の背中を、旭と優二は呆然と見ているしかなかった。

「……どうしたんだ、日向のやつ。大学でもいつもあんな感じなのか?」

「いえ、佐藤先輩は派手な見た目の割に真面目で硬派なことで有名なんですよ。うちの学校でオメガって珍しいし、あの美形ですからアルファ勢からのアタックがやっぱり凄いみたいで、かなり警戒心強い方だと思います。俺は先輩に言い寄らない珍しい部類のアルファだったので懇意にしてもらってるみたいですけど。普段はもっと落ち着いていて静かなイメージですね。あんなふうに気さくに喋ってるのは初めて見た気がします」

(本当か? 俺の知ってる日向とはだいぶ違うんだが……)

 日向はなかなか病室に戻って来なかったので、旭は優二としばらく二人で話していた。大学での日向の様子を聞く機会など滅多にないので、旭は時間を忘れて彼の話に聞き入っていた。

「お待たせ〜。何飲みたいか聞くの忘れてたから、勝手に選んできたよ」

 日向は飲み物を入れるにしては異様に大きな紙袋を抱えて病室に戻ってきた。

「ちょっと! これメガスーパートールサイズじゃないですか! しかも炭酸!」

「こんなアホみたいにでかいサイズの炭酸飲料一体誰が飲むんだ?」

「今SNS映えするって人気なんだけど、知らないの?」

 日向は巨大な紙コップを優二の前にどんと置くと、自分はスモールサイズのオレンジジュースを満足げに啜った。

「いや、先輩、これかなり高かったんじゃないですか?」

「高かったよ! 1リットルくらい入ってるんじゃない? でも君体大きいし、これくらい必要かと思って。ほら、旭を助けてもらったお礼の意味もあるわけだし」

 結構なありがた迷惑だったが、そう言われてしまうと断りきれず、優二はかなり時間をかけてバケツのような紙コップに入った炭酸飲料を飲み干した。

「悪かったね。日向のせいでこんな時間まで付き合わせてしまって」

 当の日向はバイトの時間だからと言って、自分のジュースを飲み終わるとさっさと帰ってしまっていた。

「いいんですよ。俺は今日はバイト無い日だったんで。たくさん話せてよかったです」

 あれだけ炭酸を飲まされたにも関わらず、優二は苦しそうな素振り一つ見せず、晴れやかな顔つきで立ち上がった。

「それじゃあまた連絡しますね」

 優二が病室を出た後、旭は静かになった病室で一人物思いに耽っていた。

(二十歳ごろって言えば、颯太とちょうど同い年くらいだ。そんな子供と付き合うなんてあり得るのか? でも彼を見た感じ、若いけど全然幼い印象は受けなかった。むしろ十分大人の男って感じだったし、正直なところ付き合うのも悪くはなさそうだったな……)

 病室の窓から外を覗くと、先ほど出て行った優二の白いシャツの背中が遠くに見えた。道で知り合いにでも会ったのか、誰かと立ち話しているようだ。相手の顔はよく見えなかったが、体格からしてアルファの男性であるようだった。

(アルファの友人は同じアルファの場合が多いけど、しかしあの人の体格はなかなかだな。田中君より背が高いようだが、百九十センチくらいあるんじゃないか?)

 旭は窓から視線を室内に戻すと、さっき優二と連絡先を交換したばかりのスマホの画面を、ほんのちょっとの期待を込めて嬉しそうに眺めた。

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