第3話

 颯太がいなくなると、2LDKの賃貸が寒々と広く感じた。颯太はほとんど物を持っていなかったが、そのわずかな持ち物ですら自分の部屋に置いたままだった。普段着など必要なものは新しい家でもっと高価なものを買ってもらえるだろうし、旭が処分してもよさそうだったのだが、まるで実家に荷物を置いたまま寮生活を始めた学生のようで、旭はとても彼の私物に手をつける気にはなれなかった。

 これからどうしようか。いつかはこんな日が訪れることぐらい十分承知していたが、あまりにも唐突すぎてまだ心の準備が追いついていない。

(とりあえず借金を返さないといけないから、バイトを増やすか、思い切って転職するのもいいかもしれない。自分一人だけなら住む場所も勤務時間もこだわらなくていいし)

 新しい職場で人間関係が変われば、恋だってできるかもしれない。もう決して若くはないが、だからといって手遅れなほど歳を食ってもいない。もう子供のことを気にせず、好きなように恋愛して、好きなように朝帰りして、好きなように結婚できるのだ。旭はそうポジティブに考えることにした。

(それじゃあまずハローワークへ行って……)

 ピンポーン!

 突然のチャイムの音に、旭は我に帰った。

「え……誰?」

 今日は宅配を頼んだ覚えもないし、訪ねてくる友人も思い浮かばない。姉は旭や颯太を事あるごとに家に招きたがったが、自分から旭の家に来ることは滅多になかった。

 恐る恐る覗き窓から覗いてみると、オレンジ色の派手なTシャツ姿の華やかな青年が目に飛び込んできた。

「え、日向?」

 慌てて玄関の扉を開けると、スーツケースを持った美しい甥が玄関口に立っていた。

「やっほー! 今日からお世話になりまーす」

「……え?」

 困惑する旭をよそに、日向はうんしょっとスーツケースを勝手に部屋に運び入れた。

「颯太が使ってた部屋ってこっち?」

「ちょ、ちょっと待て待て待て!」

 慌てる旭を見て、日向は思案するように首を傾げた。

「あれ、もしかして颯太から何も聞いてない?」

「聞いてない!」

 颯太は昨日出て行ったばかりだが、出ていく時も何も言っていなかったし、連絡は一度もよこしていなかった。

「自分が出て行って部屋が空くから、僕に使っていいよって颯太が提案してくれたんだ」

「俺になんの断りもなしにか?」

「それは僕も知らなくてごめーん」

 謝罪の精神のかけらも感じられない日向の言葉に、旭は甥を睨みつけた。

「ていうかなんでお前がうちに住むんだ? 今まで通り実家に住むのに何か問題でもあるのか? 大学だって姉さん家からの方が近いじゃないか」

「それがさー、新しいバイト始めたんだけど、そのバイト先がここからの方が近くて。大学だって別に遠くないし、バイトの方が終業時間遅いからバイト先に近い方が何かと便利じゃん? 僕たちオメガは夜の独り歩きは控えた方がいいし」

「新しいバイト? 飲食店か何かか?」

「家庭教師だよ。ちょっと変わった家で拘束時間も長いんだけど、めちゃくちゃ羽振りいいんだ。旭にもちゃんと生活費入れるから安心して」

「いや、急にそんなこと言われても……」

 日向はもうすでに勝手にスーツケースを開けて、中の荷物をクローゼットにしまい始めている。

「げ、颯太の服と僕の服同じサイズじゃん。やっぱりアルファだな。あいつどれくらい大きくなるんだろう」

「おい、日向……」

「旭だって颯太がいなくなって寂しかったでしょ? 僕がいた方が楽しいし、何かあった時も安心だって。母さんも心配してたし」

 いや、もう三十三歳だし、なんの心配があるってんだ?

(ああ、俺のバラ色おひとり様暮らし計画が……)

 とはいえ日向の言うことは正しかった。病気になったり怪我をした時に手を貸してくれる家族が一緒に住んでいれば助かるし、孤独死の心配も無い。それに、明るくて気の置けない日向が側にいると、颯太がいなくなった喪失感を確かに和らげることができた。

(日向はもう大人みたいなもんだし、変に気を使う必要もないだろう)

 こうして息子が出て行った部屋に甥が住み着くことになり、旭の寂しい一人暮らしは一日と続かなかった。


 一緒に暮らしてみて分かったのだが、日向はびっくりするほど優秀な同居人だった。まず、彼は家事が非常に良くできた。拘束時間の長いバイトをしているとはいえ、学生の日向は社会人の旭より圧倒的に自由時間があるらしく、頼んでもいないのに掃除洗濯はもちろん、料理まで作ってくれた。

「いや、すごくありがたいんだけど……」

 よく味の染みた美味しい肉じゃがをいただきながら、旭はため息をついた。

「そこまでしなくても、お前だって忙しいだろ? こんな家政婦みたいなことさせてたら姉さんに合わす顔がないんだが」

「僕がなんもせずにおじさんの家にパラサイトしてたら、それこそ母さんに怒られるよ」

 そうそう、と日向は鞄から封筒を取り出した。

「これ今月の家賃」

「いや、別に要らないって」

「バイト先が家賃補助出してくれるから遠慮しないで」

 旭は日向が渡してきた封筒を押し返そうとしたが、封筒が思いのほか厚かったため気になって中をあらためた。

「じゅ、十万?」

 思わず素っ頓狂な声を上げた旭を日向がニコニコと嬉しそうに見る。

「それだけあれば十分だろ?」

「いや、お前、ちょっと待て。お前ここの家賃がいくらか分かってんのか?ていうかバイト代って一体いくらなんだ?」

「えー、僕実家から出たことないからわかんないんだけど、これくらいのマンションって二十万くらいするんじゃないの?」

「それどこの高級マンションだ? 六万だよ六万!」

 正確には六万三千円だったが、そんなことは最早どうでも良かった。

「ていうか家賃補助が十万も出るバイトなんて聞いたことないぞ! それ絶対闇バイトかいかがわしいバイトだって! 今すぐ辞めてこい!」

「ただの高校生の家庭教師だよ。あと学校の送迎で運転手もするんだ。週五回だからそれぐらいもらうもんじゃない?」

 そんなバイト旭は聞いたことがなかったので、すぐに反論することができなかった。

(確かに運転手を雇うと金がかかるだろうが……)

 旭はすぐに朝子に連絡を取ったが、彼女の反応は意外なものだった。

「ああ、そのバイトのことなら私も知ってるわ。実はその高校生の子私の知り合いでね。だから大丈夫よ」

「本当に?」

「ええ。それに日向がちゃんと家賃入れてるって聞いて安心したわ。彼のことお願いね」

「いや、姉さん……」

 どう考えても怪しかったが、実の親にまでここまで言われてしまうとこれ以上旭が口を出すわけにもいかなかった。

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