第2話

 その初老の男性の声は、旭の十七年前の記憶を鮮明に呼び起こした。

「あ……東十条さん?」

 記憶の中のその人よりは、目元に皺も増えてずっと老けて見えたが、整った顔立ちは歳を重ねても健在で、大手企業の社長を長年勤めて培われた威厳が体の隅々から滲み出ているようだった。

「やはりそうか。君は昔とちっとも変わらないね。相変わらずの美人さんだ」

「父さん?」

 颯太が旭の腕を掴んだ。まるで警戒するような、鋭い視線だった。

「父さんの知り合い?」

「えっと……」

「君の子供かい? 立派な青年だね。歳はいくつかね?」

「十六です」

 颯太の答えはそっけなかったが、夫婦はハッとして顔を見合わせた。

「十六歳? それはもしかして……」

 旭はちらっと颯太を見た。今ここで言っていいものか。旭には東十条夫妻の考えが手に取るように分かった。ここで真実を明かせば、おそらく彼は颯太を手放さなければならなくなる。それはとても寂しいことだった。だが、立派な服装の社長とみすぼらしい自分の姿を見比べて、旭は覚悟を決めた。

「はい、彼は……颯太は東十条さんの息子です」

「……父親だと?」

 こんなに低い颯太の声を旭は初めて聞いた。その剣幕に旭は驚いて颯太を見た。こうしてみると彼の横顔は父親によく似ている。しかしその表情には雲泥の差があった。まるで仇を見るかのように父親を睨みつける若いアルファは、全身から威嚇するようなフェロモンを放ち始めている。オメガである旭にはすぐに分かった。これは自分がより強いアルファであると周囲に知らしめるために放つフェロモンだ。

「颯太?」

 初対面の目上の人間に対する態度としてはあまりにも失礼だった。旭は焦ったが、幸い夫妻はそれどころではなく、颯太の態度を全く気にしていなかった。

「こんなに立派に成長して! あなた、やっぱりこの子をうちの後継者にしましょうよ」

「しかし、隼人の体面も考えてやらないと……」

「何言ってるんですか! せっかく私たちの子供がいるのに、どうして妾の子なんかに会社を譲れるもんですか」

 颯太が困惑した表情で夫人を見た。

「……どういうことですか?」

「颯太」

 旭の声に颯太が振り返った。

「父さん?」

「今まで黙ってて悪かった。実はお前は、本当は俺の子供じゃないんだ」

「……え?」

 颯太の周囲を威嚇するフェロモンがすうっと引いていくのが旭には分かった。

「訳あって俺が引き取って育ててただけで、本当はお前はこの東十条さん夫妻の遺伝子を受け継いでいるんだよ」

 颯太はゆっくりと夫妻に視線を移した。その目に歓喜の表情が浮かんだのを旭は見逃さなかった。

「あなたが、俺の母親なんですか?」


「……日向、颯太を連れて出かけてきなさい」

 東十条夫妻とのやりとりを簡単に旭から聞いた朝子は、すぐに息子にそう命令した。

「ええっ? 出かけるってどこに?」

「カフェでもファストフード店でも、どこでもいいじゃない」

「ここにケーキがあるのに?」

 朝子は息子をギロリと睨みつけた。

「分かってるくせにグズグズと居座るんじゃないよ。さっさと出て行きなさいってば!」

 日向が渋々颯太を連れて出ていくと、朝子はふうっとため息をついた。

「知りたがりの息子でほんと困ったものだわ」

 もう一度、日向と颯太が出て行った扉を確認してから、朝子はまっすぐに旭を見た。

「それで、あの社長夫妻に颯太を引き渡すって、あんた正気なの?」

「それが颯太の望みなんだ」

「颯太がそう言ったの?」

「直接聞いたわけじゃないけど、十六年間あいつを育ててきたんだ。あいつの考えていることぐらいわかる」

 朝子はフンと鼻を鳴らした。

「傲慢ね。幼稚園児じゃあるまいし、十六の息子の考えていることが言わなくても分かるだなんてよく言えたものだわ」

「……あいつはあまり表情を表に出さないけど、今日本当の母親がわかった時、すごく嬉しそうな目をしていた。周りの友達には両親がいるのに、自分には片親しかいないこと、ずっと気にしてたんじゃないかな」

 それに、と旭は机の上のマグカップに視線を落とした。

「社長夫妻の息子になれれば、お金をかけた教育を十二分に受けられる。将来も安泰だし、願ってもないチャンスじゃないか? 誰もがなれるわけでもないのに、この機会を逃してもいいのか? 姉さん、あいつは本来銀の匙を咥えて生まれてきたんだ。俺の元でくすぶって一生を終えるようなやつじゃないんだよ」

「でも……」

 頭では朝子も旭の言うことを理解していたが、それでも心のある人間として、一言言わずにはいられなかった。

「十六年前、あの子を引き取ってあんたは全てを失ったのよ。それなのに……」

「あいつを引き取ると決めたのは俺自身だ。赤ん坊だった颯太に何ができたって言うんだ。大人の都合で、育ててくれる人に連れて行ってもらうことしかできなかったじゃないか。今、彼はもう十六歳だ。自分でなんでも決められる。彼が本当の両親と暮らしたいと願うなら、そうしてやるべきだ。俺の都合なんか颯太にはなんの関係もない」

「でも、あの夫妻のところで本当に幸せになれるのかしら? あの人達は一度颯太を捨てたのよ。颯太にはどうしてあんたが引き取ることになったのか、ちゃんと話したの?」

 それは旭も少し気になるところだった。一度捨てた息子が立派に成長したのを見て手のひらを返すように引き取るだなんて、本当に子供を愛している親の行動ではない。

 しかし旭はあの夫妻に最初からそんなものは期待していなかった。そんなことは十六年前にすでに分かりきっていることだったからだ。

「颯太には黙っておく。両親のことを何も知らないのに、最初から悪い印象を抱くのは彼にとって良くないと思う。あの人達だって、立派に成長した颯太だったらきっと大事にしてくれるはずだ」

 それでも、と旭は顔を上げてまっすぐに朝子を見た。

「もし颯太が選択を誤ったと思うなら、いつでも俺のところに帰って来ればいいんだから」


 東十条夫妻に会った一週間後、颯太は旭と暮らした家を出て、社長夫妻の元に引き取られて行った。

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