第1話
「……最近息子の様子が変で……」
「颯太の?」
電話口の日向は少し考え込んだが、すぐに思い当たる節があって口を開いた。
「旭、それは多分あれだよ。第二の性の発現の影響だって」
旭の息子の颯太は十六歳。確かにちょうど第二の性の発現期にあたった。男、女とは別の第二の性であるアルファ、ベータ、オメガが発現するのが大体颯太ぐらいの年頃になる。出生時の血液検査で自分がどの性なのかは皆わかっているものの、実際に性的特徴が発現するのがこの時期なので戸惑う子供は多い。
「……颯太はアルファだから、あんまり心配してなかったんだが」
「何言ってんのさ。アルファだって悩みくらいあるよ」
優秀で体格にも恵まれ、社会的地位を約束されていると言っても過言ではないアルファ。そんな生まれながらの勝ち組に一体どんな悩みがあるというのだろうか。社会の底辺だと蔑まれるオメガ性に生まれた旭にはさっぱり理解できなかった。
「日向だってオメガだろ? アルファの何が分かるってんだ?」
「旭は考え方が古すぎるんだよ。最近はオメガの社会進出も進んで、性的格差だって縮まりつつあるんだ。それに伴って今まで神格化されてきたアルファの地位にも変化が現れてる。逆にアルファの方も主張してるんだよ。アルファだからって過度な期待を寄せられるのは性差別の一環だって」
「へ、へえ……」
日向は旭の姉の息子で、旭の甥にあたる十九歳の大学生だ。一見遊んでいそうな派手な見た目で、しかもオメガにも関わらず、実はこの辺りで一番難関の国立大学に進学している。三十三歳の旭の思考は、彼からすれば古いどころかもはや化石かもしれない。
「それで、僕に相談ってその話?」
「あっ、いや、本題はそこじゃなくて。頼みたいことがあったんだ。お前、颯太の家庭教師やってくれないか?」
颯太も三年後には大学進学を控えている。これから輝かしい未来が待っている息子には、自分のような何も持たない人生を味わわせたくはなかった。金なし地位なし学歴なしの人生など、自分だけで十分だ。
「颯太にはちゃんとした学歴を与えてやりたい。俺は何も持ってないから……」
「持ってるじゃん。綺麗な顔と高身長」
「……金にならなきゃ何の意味もないだろ」
「それはバカな旭がうまく使わないから……」
「うるさい。俺にあるのは颯太だけだ。それでどうなんだ? 颯太のこと、頼めるか? あんまり金は出せないんだが……」
「いいよ、家族なんだし。お金はいらないよ」
K大生の家庭教師はこのあたりでは引く手数多で、本来なら時給五千円は固いところだ。この日向という青年は飄々として口の悪いところもあったが、情に厚い男でもあった。
「いや、さすがにそういうわけには……」
「あ、じゃあ今日ケーキ買ってきてよ。母さんが二人に会いたいって言ってたし。ちょうどいいから颯太の相談にも乗ってあげるよ。十代の悩みなんてどうせ大したことないだろうけど。なんか気になる子ができたとか、そんなかんじでしょ」
電話を切ると、旭は軽くため息をついて壁にかかっている時計を見上げた。もうすぐ息子の颯太が部活の土曜練習から帰ってくる。彼が帰ってきたらケーキを買って、姉の家に遊びに行こう。家庭教師の話は姉にも通しておいた方がいい。やはりタダというわけにはいかないので、そのことについても姉と相談しておきたかった。
十三時きっかりに颯太は玄関の扉を開けて帰ってきた。中学生の頃からずっとそうなのだが、彼はどうも寄り道という言葉を知らないようだった。学校や部活が終わったら、まっすぐ家に帰ってくる。このぐらいの年頃の子供というのは、友達と寄り道したり馬鹿騒ぎしたりするものだとばかり思っていたが、颯太はそういったこととは一切無縁のようであった。というより友達がいないのではないかと心配になるほどだ。旭の記憶では、彼が自宅に友達を連れてきたのは中学一年生の春一度きりで、それ以来一切友人を家に呼ぶことはなかった。旭は何も聞かなかったが、もしかして賃貸二人住まいの狭い部屋をバカにされたのが恥ずかしくて、それで友達を連れて来られなくなったのではないかと気になっていた。気になったところでどうすることもできないのだが。
「おかえり」
「……ただいま」
高校生になって、颯太は急に背が伸びた。オメガにしては背の高い自分ともうほとんど変わらない高さだ。きっと今年中には追い抜かれるだろう。部活でいい色に焼けた顔にはまだ少年の面影が残るものの、精悍で端正な顔立ちをしている。きっと学校ではモテモテに違いない。
「今から朝子おばさんのところへ遊びに行くんだけど、颯太にも来て欲しいって。どうする?」
「行くよ」
部活で疲れているだろうに、颯太は即答した。このぐらいの男子高校生というのは家族とどこかへ出かけたりするのを鬱陶しがるものだと旭は思っていたが、今だに颯太は旭の誘いを断ったためしがなかった。
「シャワーだけ浴びていい?」
「うん、もちろん」
シャワーで汗を流してさっぱりした服に着替えると、颯太は黙って旭について家を出た。
「あいたた」
先月の手術の跡が痛んで、旭は思わず顔をしかめた。すぐに颯太が肩を貸してくれる。
「大丈夫?」
「ありがとう。大丈夫だよ。時々ちょっと痛むだけだ。お前は平気なのか?」
「俺は治ったよ」
さすがは若いせいか、それともアルファの生命力なのか。全く同じ日に同じ場所を開いたはずなのに、颯太はもうすっかりピンピンしている。もはや感心するしかない。
こんなに出来た息子の一体何を心配するというのか。側から見れば疑問でしかないだろう。親想いで優しく、アルファで、部活も勉強もよく頑張っている。本当に、学のない自分が育てたとは信じられないほど、颯太は勉強が良くできた。お金をかけた英才教育を受けられればもっと伸びるに違いない。
颯太に対する違和感は、おそらく十六年間ずっと彼を育ててきた旭だからこそ感じてしまう、本当に些細なことに過ぎなかった。例えば、先ほどすぐに肩を貸してくれたが、触れ合っている部分にどこか緊張感を覚えた。必要以上の身体的接触を避けようとしていて、それを旭に気づかれないように努力している感じだ。それから視線も必要以上に合わせようとしない。高校生になってから急にだ。
(まあ、本来親子の距離感はこれくらいが普通なのかもしれない。今まで颯太は俺にべったりだったけど、もう大人みたいな体になってきたし……)
「颯太、おばさんとこの日向がお前の家庭教師をしてくれることになったんだ」
「日向が?」
「うん。あいつはオメガだけどK大生で優秀だし、どうかな?」
身内なので多少謝礼の融通がきくし、と旭は心の中で付け加えた。
「いいの? 家庭教師はお金かかるだろ?」
「日向だから安くしてくれるよ。本当はお前にも塾とか行かせてやりたいんだけど……」
「塾なんか行かなくたって俺は勉強できるよ」
「いやでもやっぱり受験で不利になるだろ……」
「K大生の家庭教師がつくなら問題ないよ」
颯太はきっぱりとそう言い切ると、急に立ち止まって辺りを見渡した。
「父さん、道ここであってる?」
「あれ? ケーキ屋さんこっちじゃなかったっけ?」
滅多にケーキなど買うことがないので、一本筋を間違えてしまったようだ。もう一本内側の筋に入れば、和菓子やケーキのお店が連なった通りになるのだが、大きな道路に面したこの通りは高級ブティックの立ち並ぶ、旭にはちょっと縁のない道であった。
「ごめん、一本間違えた。戻ろうか」
今来た道を引き返そうとして、旭は一軒のお店のショーウィンドウの前で思わず立ち止まった。
ガラスの向こうのマネキンが着ているのは、ブランドのロゴを前面に押し出したスーツで、その後ろの壁に同じスーツを着たモデルの男性のポスターがでかでかと貼られていた。デザインも奇抜でとても普段使いできるような代物ではなかったが、背が高くてモデルのオーラを放つその男性が着ていると、高級感があって思わず目を引かれた。
(颯太も本来はこんなスーツを着るような……)
「欲しいの?」
高級スーツをビシッと決めた息子を想像していた旭は、突然颯太に聞かれてはっと我に返った。
「まさか。普段見ないようなものだから珍しかっただけだよ。きっと何十万も……」
スーツの袖から下がっている値札を見て旭は口をつぐんだ。思っていたよりゼロが一つ多い。高級ブランドスーツを舐めていたようだ。
(これ本当に服の値段か?)
あまりの世界の違いに旭は呆れて首を振った。
「さあ、早くケーキを……」
「おや? 君は」
記憶の彼方から聞こえてくるような声に、旭は思わず振り返った。今しがた彼がショーウィンドウを見ていた店から、妻を伴って一人の男性が出てくるところだった。
「ひょっとして、村上旭君じゃないか?」
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