春子、人間をやめる。

@DojoKota

全話

「何のために生きているのかな」

 自問しちゃうな。

「やーめた」

 答えまで出てしまった。

 一人相撲寄り切り押し出しだね。

 私は人間をやめようと思った。

 屋上であった。

 屋上は人間を捨てるためのゴミステーションじゃないけれど、気分を洗い流してくれる洗面所って感じでびゅんびゅん風吹いていて、涼しくて、洗われるように気持ちが良い。

 そんな場所だ。

 これまで見なかったことにしていた人生の解決策をあっさり発見させてくれる、見えないものを見せてくれる、見晴らしの良い場所だ。

 まあ、見晴らしが良い、といっても街の全貌を鳥瞰できるほどではないけれど。

 で、そんな屋上でのひと時、私は、人間をゴミ箱に捨てようと思ったんだ。

 人間、を、ね。

 私、という、人間を。

 で、「自分」だけは、とっておきたかった。

 つまり、自殺じゃないってこと。

 人間は脱皮して、自分だけは大切にとっておきたかった。

 例えばお守り袋の中とか、例えばセミの抜け殻の中にとか、自分を隠し込んで、その上で、自分の外側の人間を跡形もなく捨ててしまいたかったのだ。

 安全圏で、放火遊びをしたかった。

 ずるいなあ、と我ながら思う。

 ドラえもんくらいずるい。

 いや、のび太が一番ずるいけれども。

 スネ夫はずるくないな。

 できることなら、ロボットになりたかった。

 ロボットだ。

 人間をやめてロボットに。

 うん、ロボット。

 感情とか感傷とか、とかとかとかげ、情熱とか芸術的感性とか、とかとかとかげ、ゴミ箱にポイだ。

 けれど、私は、ド文系で、つまり、何が言いたいのかというと、ほとんど何一つ理科的知識がかけらもなくって、どうすれば、人間をやめてロボットになれるのかなんて、想像もつかなかいのだった。

 雲をつかむよりも難しい、んじゃない、空を鷲掴みにしてむしゃむしゃと食べるくらい難しい、んじゃない。

 だから、即座に私はロボットになる道は諦めて、代わりの道を、歩むことにした。

 人生何事も諦めという名のトライアルエラーが大切だから。

 本当は、本質的には、諦めたわけじゃない、虎視眈々と狙っているだけだ。

 地蔵菩薩になりたいな、ってふっと思った。

 だって、石だけれども、なんだか愛嬌がある。

 愛嬌って大事。

 愛の架け橋って感じ。

 人間にとても大きく欠けているもの。

 植物もいいかもしれない、感情とか死んでそうなところが。

 感情とか死んでいそうだけれど、死んでいないところとか。

 肝心のところで死んでいないところとか。

 空にもなってみたい、そらだ、どこまでも拡散してしまいたい。

 薄っぺらなのに、宇宙の果てまで到底見通せない深みのあるところとか、憧れなくもないから。

 電車、みたいな下半身が欲しい、ずっとレールの上を歩いていたい。

 急ブレーキだって踏みたい。

 路線変更もしたい。

 同じ場所をぐるぐると回るのも、遊具みたいで、子供の頃が無性に懐かしい私には楽しそう。

 雪だるま、は、可愛いけれど、不気味なところが、可愛さと不気味さの並存を受け入れられるなら、好き、になれるものなら、雪だるまでも及第点かもしれない。

 そんなことを、学校からの帰りしな、思った思うのだった、本当に。

 人間以外のものでなら、いくらでもなりたい形があるのだった。

 人間は、なんというか、色々な関係性が不定形で、恐ろしい時と嬉しい時のギャップが堪え難いほど渓谷なのだ。

 そのうちどれかになろうかと思った。

 なんだったら、そのうち全てになっても良いかも、とは思った。

 人間をやめるのだ、私の可能性は無限大、とはいいかねても、ありきたりの尺度では収まりが効かぬ。

 うん。

 私の存在は、曖昧だけれども、漠然としているけれども、大きいんだ。

 特別な理由もなく、ただ、なんとはなし、タンポポの綿毛とか、舞い散る粉雪とかを眺めながら、思いついたのが、この五つだった。

 一年かけて、季節の移り変わりの中で、ちまちまと考え続けたのだった。

 将来の夢がたった一つでは、行き詰まってしまう、かな、なんて、消極的な発想で、一つから、五つに拡張したってわけでもないけれど、だって、地蔵菩薩になりたいと思ったところで、すぐさまそれになれるわけでもないのは明らかで、じゃあ、他には、他には、可能性の軸を探索していくしかないのだった。

 そして、その可能性の可能性の部分だけを弄んで、気分を紛らわせて。

 つまり、とどのつまり、空想に浸かって。

 私の目の前には五つの魅力的な道が広がっていて、その五叉路の分かれ目でどの道へ進もうか、思案にふけっているのだ、と考えると、我ながら、わくわくするのだった。

 くっわくっわ。

 嬉しいのだった。

 わっくわっく。

 人間をやめる。

 嬉しいことだった。

 私の手のひらを走る運命線が大きく路線変更を余儀なくされるのだった。

 人間の運命などでは測れない、あってなきような意志薄弱な存在へ、私は、変わりたいのだ。

 五つ全てになりたいわけではなく、五つのうちどれか一つに、まぐれでもいいから、なれたなら、な、私は御満足様なのであった。

 別に、人間をやめられるのなら、血も涙も捨てられるのなら、それはそれで、なんだっていいのだから。

 だから、私は、ここ数日間、弟子入りを試みた。

 何事も行動だ。

 為せば成るかはわからないけれども、行動だ。

 どうこう言っている前に行動だ。

 近所の石仏に、山の中の巨木に、見上げたらそこに広がっている空に、踏切で立ち止まる私のすぐ目の前を立ち止まりもせずに日々通り過ぎる電車に、ゴゴウって通り過ぎる電車に、乗客たちが私を見るでもなく見ている、ああ、人間を大量に乗せているなんて、電車って人間の上位者って感じがする、あと、真冬に作り、冷蔵庫の中に、今も保存している手のひらサイズの雪だるまに、私は、毎日話しかけた。

 それは祈り。

 お祈り、じゃない。

 折々の祈り。

 お祈りは、お祈りをすることで満足してしまえるけれど、祈りは、思い焦がれている状態だから。

 私は半分燃えているんだ。

 そして、祈っている。

 時には、毛筆で手紙も書いた。

 嘆願書。

 請願書。

 ってやつを。

 ガンガン書いた。

 私なりに、不慣れながら、書いたのだ。

「弟子にしてください」って言った。

「弟子にしてください」ってお願いした。

 とてもとても小さな声で。

「弟子にしてください」って頼み込んだ。

 ちょっとだけ声を大きく響かせた。

 デシベルで言うと、何弟子レベルだろうか。

 そこそこのレベル。

 かなりのレベル。

 誰も通らないトンネルの中で。

「弟子にしてください」って申し出た。

 頭を下げた。

「弟子にしてください」って思わず叫んだ。

 通り過ぎる人は通り過ぎるままだった。

 でも、それが良いのだった。

 まるで、周りの人間はただの、舞い落ちる落ち葉や舞い散る桜の花びらと同じ存在で、私にとって、同じ存在で、だから、私は、いち早く人間をやめるべきなんだって、心から、思えるから。

 私は人間を、まあ、できることなら、今年中にやめて、新しい悠久の時が流れる生活を始めたかった。

 大学へなど行きたくはなかった。

 大学などより、今の自分から切り離された新生活を楽しみたかった。

 だって、やっぱり、人間である限り、いつか死んじゃうんだし、じゃあ、人間やめたくなってもしょうがないじゃないって感じ、いや、私は、実は、死んでもいいって気分でもあるんだけれども。

 死んでもいいのに、死んじゃいけないってことが、人間のよくわからないところで、だから、じゃあ、人間以外になることで、死んでいるみたいで、死んでいないみたいな状態に落ち着けたなら、私はちょっと、心が細切れに紛れる気がするのだった。

 ただの予想。

 そんな気がするだけ。

 でも、きっと、そう。

 そう思う。

 楽しそうな振りをしながら、どうせ苦しいことの山積みであるよりも、心が行き止まりの路地裏で、落ち着く方が大事なのだ。

 きっと、そう。

 人間関係など、私には、難しすぎた。

 十八年間も人間生活を送っていたなら、それでもう、私には、十分なのだった。

 もう、この先も同じことの繰り返しってわかるから。

 でも、地蔵菩薩も、植物も、空も、電車も、雪だるまも、なかなかに厳しい人格の持ち主なのか、私がいくら這いつくばって、お願い申し上げても、うんともすんとも返事をしてくれないのだった。

 だって、人間じゃないのだ。

 人間の言葉が通じたなら、同じ人間ってことだから。

 でも、ぬいぐるみとなら、気楽に、会話できるんだけれどもな、私。

 私はその日も、地蔵菩薩の前で、ひれ伏して、「お願いします。お願いします」と祈りのように繰り返していた。

 そんな私に、「春子、何をしているの」って秋子が言った。

 秋子が、私の背後に、音もなく立っていた。

 でも、それはいつもこと。

 だって、秋子には足音がないから。

「ア、秋子だ」と私は返事をした。

 秋子とは、親しかった。

 だって、秋子は、三歳の時に、私が作った架空の幼馴染だから、親しくないわけが、ないのだった。

 秋子のほっぺたをつねった。

 それは私のほっぺたにつながっていた。

 餅みたいな、二人だった。

 私の頬は、ぐんにゃりと伸びて、秋子の頬にぴったりとくっつくのだった。

 秋子の他にも夏子、冬子、が私の想像世界にはいたけれど、そんなにぞろぞろとこの場に出てこなくてもいいわけだがから、この場には、秋子しか、いないのだった。

 秋子はまるで、私と同じ背丈をしており、秋子が私の目の前に立つと、私の視界が、秋子だけになるのだった。

 そう、秋子が私のコンタクトがわりになって、私に秋子が見ている景色を全身を使って伝えてくれるのだった。

 そんなことができるの?

 できる。

 二人の女の子が溶け合うくらい仲良くなれたなら。

 そして、秋子が笑う。

 くすくすと笑う。

 その笑いは天から降ってみたいに響いて、でも、雷のように轟くわけではないから、驚かないけれど、私は思わず頭上を見上げてしまう。

 秋子は、そんな私をさらに笑う。

 柔らかく笑う。

 それはまるで、捕鯨網。

 ほっぺたに包まれる気分がする。

 私は、秋子をじっと見つめる。

 すると、まるで、秋子という万華鏡を覗き込んでいるような気分に、私はなる。

 笑うことによって、秋子の顔のパーツが崩れちゃって、雪崩雪崩、誰誰誰、ごちゃごちゃに崩れちゃって、それがなんだか、万華鏡の中で福笑いみたいな、万華鏡の中のビーズが砕けたり合わさったりするみたいな、そんな感じがするのだった。

 するのだった。

 スルターンと韃靼。

 だって、秋子は架空の女の子だから、空想的な笑い方をするのだ。

 まるでギャグ漫画みたいに。

 目が点になったりさ。

 少しだけ。

 少しだけ、頭が、くらくら、と、して。

 私も笑う。

 私も、秋子みたいな、素敵に顔面を崩壊させたくって、秋子を真似て、笑うのだった。

 でも、私の笑いは何だかうがいみたい。

 でも、私は生きている人間だから、顔が皺だらけになって、福笑いじゃなくてにらめっこになるだけ。

 秋子は思わずギョッとした顔をして、それでも、ブンブンと首を振ることによって気を取り直して、微笑む。

 その微笑みは、とても、細長い。

「うむ、秋子ですけど」と秋子が言った、私への返答をしてくれたのだ、おっしゃった、って感じで、言った。

「春子、何をしているのさ」続けざまに秋子が言った。

「人間をやめようと思って」うん、人間なんてやめてしまおうと思って、私は心の中でそう念じれば、想いがより地蔵菩薩様に届くかなって思って、心の中でも、土の中でも、自分の台詞をなぞるのだった。

 私は素直に、秋子に私の心と行動をつまびらかに説明するのだった。

 だって、秋子相手なら、秋子は確かに私のこと笑うけれど、それはあざ笑うって笑いじゃないから、つまり、私は恥ずかしさを感じずに、秋子の前でなら、素直でいられるから。

 素焼きみたいに素直に。

「人間をやめようと思って、お地蔵様の前で、土下座?」

「うん」

「つながりがよくわかんない」

「繋がらない何かを無理やりつなげるための、土下座だもん」

 私は道の真ん中で、お地蔵様の真ん前で、地面に、茶色い地面に這いつくばって、いるのだった。

 雨上がりの地面だから、しっとりと濡れて、いるのだった。

 これで砂利さえなければ、しっとり&ふんわりしたバームクーヘンの上で寝そべっている感触と、同じなのだけれども、と思った。

 思ったけれど、濡れた肢体は不快ではあった。

 それに、地面から、甘い匂いが漂ってくるわけでもないし。

 バームクーヘンの上に寝そべれたなら、もっと愉快な気分だろうに。

 人間をやめるのとどちらが愉快かな、でも、人間をやめたなら、不愉快ってなくなるんだよ。

「いくらわけわかんない行動に出たって、そのわけわかんなさ含めて人間だよ。芋虫が蛹になるくらいの変態さじゃないと、並みの異常行動じゃ、人間の枠をはみ出せないよ」

 たしなめるように、秋子は言った。

 たしかめるように私は耳を傾けた。

 わかってるよって、内心私はつぶやいた。

 内心のつぶやきは、どら焼きの中の粒あんのようだ。

 つぶやき。

 粒あん。

 どら焼き。

 つぶやき。

 それは雨みたいに見える。

 降っているんだ。

 内心だけの独り言。

 内心だけの雨。

 内心だけの傘。

 黄色い傘。

 私の独り言は、時に内心によって密閉されるんだ。

 私は、秋子のこと、好きだから、だから、秋子には、肯定的な言葉しか伝えないようにしているのだ。

 税込みの商品のように。

「そうじゃなくって」

「そうじゃなくって?」

「地蔵菩薩様に弟子入りをお願いしているところなのさ。私は人間をやめてね、石になるの。石、石だぜ。イシシシ。石仏になるの。その道を、真剣に考えているんだ。うん。私は私の未来を真剣に考えているの。だって、私以外、誰も私の未来、考えてくれないでしょ。教えてさえくれない、みんな、不幸せに俯いてばかりで。私は、もう、人間をやめようと思っているの。人間なんてさ、つまんないじゃん。湿気たポテトチップスと一緒」

「へえ」って秋子が言った。

「よくわからない」秋子の目がぐるぐる回った。

 分かれよ、って心の中で私は拗ねた。

 私の心の中は滑り台になった。

「人間なんて、楽しくないでしょ」

「うん」秋子は頷いた。

「じゃあ、やめたっていいでしょ」

「そう?」

「でも、続ける理由はないよね?」

「そこが、よくわかんない」

 保守的だな、秋子は。

 私は秋子に私の気持ちをわからせるために、秋子を言葉で説得することを諦めた。

 言葉で伝わらないなら、行動で示すしかないんだ。

 熱情を。

 鉄条網みたいにいかつい熱情を。

 私はその後、百回くらい「お願いします、お願いします」ってお地蔵様に向かって言った。

 そして続けて呪文みたいに、おんなじ台詞を、同じく百回くらい、しゃっくりが思わず出ちゃうくらい、繰り返すんだ。

「お願いします、私を地蔵菩薩にしてください。だって、地蔵菩薩様のこと、石仏のこと、羨ましいんだもん。何事にも動ぜず道端でずっと佇んでいるだけだなんて。まるで、飲みかけのコーヒーカップみたいに雰囲気があるじゃない。私だって、そういう生活したいんだよ。そういう存在で、そういう面影をたたえていたいんだよ。こんな薄っぺらな人間、存在感のない人間、いやなんだよ。地蔵菩薩様は、ただ、そこにいるだけで、自動的に自動菩薩様じゃない、ずるいよ。私は、制服を着なくちゃ、高校生じゃいられないし、化粧をしなくちゃ、大学生になれないってのに。この、石頭!」ってお地蔵様にお願いをした。

「本気なんです。本気で人間やめたいんです。なんなら、全身の皮膚がカサカサに石みたいになるくらい、全身から一挙に血を抜いてもいいです。献血してもいいです。私AB型です」って付け加えもした。

 けど、返事がないから、一応、手話とか筆談とかも試みたいんだけれど、それでも返事がないから。

 仕方ないねってわけで、秋子を引き連れて、次は山に分け入って、手当たり次第に、話を聞いてくれそうな樹木にお願いをした。

 百回くらいお願いをした。

「燃やすぞ、この野郎」って思わず恐喝しちゃいそうになるくらい、そして、少し枝葉を手折ってしまうくらい、根気よくお願いをした、根、幹、茎、葉っぱ、それぞれに頭を下げた。

 オジギソウにもお辞儀をした。

 葉緑素一粒一粒にさえ、名前を呼んで、呼びかけたくらいだ。

「太郎さん、花子さん、水木さん、山田さん」って。

 次は、空。

 空に向かって、叫ぶ私。

 でも、声はどこにも届かない。

 でも、その声はジェット機のように空に突き刺さらない。

 吸い込まれる一方で。

 次は、電車。

 電車の中で、土下座。

 次は、雪だるま。

 雪だるまを、愛情表現でペロペロ舐めた。

 舌が痺れた。

 秋子も、途中から「この子、本気なんです」って私のこと後押しするように、言い添えてくれた。

 だって、親友だから。

 けれど、やっぱり、どうしようもなくって。

 だって、やっぱり、無理じゃん、どう考えたって。コミュニケーションがそもそも成り立たないよ。

 機関車トーマスはただ顔が怖いだけ。

 不毛に一日が過ぎて行くのだった。

 回転寿司のように、私はくるくると街を、くるくると、回転しながら、練り歩いて、元いた場所にまで、戻ってしまうだけなのだった。

 私は諦めようかなって思った。でも、こんな時、秋子は私には思いもよらない可能性を示唆してくれるのだ。

「春子、春子」

「なに」

「実は、私の友達にね」

 秋子に、私以外の友達なんていたんだ、って、私はちょっと驚いたけれど、黙って、聞いていた。

「弟子入りもせずに、半分だけ地蔵菩薩になった、男の子、弟子入りもせずに、半分だけ空になった、男の子、ある日気がついたら半分だけ植物になっちゃってた男の子、これまたある日ひょんなきっかけで、半分だけ電車になっちゃった、男の子、半分だけ雪だるまになっちゃった、男の子、がそれぞれ一人ずついるんだけれども」

「うん」

「彼らに話を聞いてみるのが、手っ取り早いんじゃないかな、って思う。だって要は、先輩でしょ、春子からして見たら。人間を半分やめた男の子たちは、半歩だけ、春子より先を進むのさ。本家本元に愚直に、弟子入りを願い出るより、もしかしたら、何かの手がかりになるんじゃないの」

「早く言ってよ」って、私は思った、言葉にも出ちゃった。

「だって、あまりに春子が熱心だったから。それに、もしも可能なら、やっぱり、本物に弟子入りするのがいちばんの王道だと思ったから」

 つまり、秋子の提案は邪道なのだ。

 入学試験のいろはを、教師にではなく、模試で高得点を叩き出した同級生に聞くようなものだ。

 うさんくさい、形だけの受験テクニックをつかまされるだけかもしれないのに。

 でも、その形が、当座有用だったりするのだ。

 今夜はもう遅いからってことで、秋子と別れて家路へ急いだ。

 でも、秋子は私の心の中にずっといるから、寂しくはない。

 私を縦に割いたなら、おはよう、って秋子や冬子や夏子が顔をのぞかせるんだ。

 私は、容れ物なんだ。

 秋子は、言うなれば寄生虫で、桃太郎だってかぐや姫だって寄生虫かもしれないのだ。

 私が、地蔵菩薩や樹木や空や電車や雪だるまになったとしたなら、秋子も私の心の中で、私に道連れにされる形で、人間をやめることになるのだろうか、と思った。

 電車に乗り込んだ乗客は、人間のままだ。

 秋子だって、私の中で人間のままであり続けるかもしれないけれど。

 空中に放り投げられても人間は人間だ。

 でも、地蔵菩薩や樹木や雪だるまは、どうだろう。

 夏子も冬子も、夏の甲子園も、どうなるんだろう。

 どちらにしたところで、一人じゃないから、寂しくない。

 実を言えば、私は、秋子冬子夏子がいる時点でもう、他人なんて必要としていないのだ。

 カイロさえあれば人の温かみなど必要としないように、彼女たちがいるから、彼女たちの心臓が、私の心臓の周りを衛星軌道でどくどく脈打ちながら回っているから、私はいつだって、心底温かいのだ。

 だから、人間をやめたって、平気なのだ。

 平等だ。

 というより、彼ら三人と早く、人間をやめたかった。

 飛び込み台から水中へ、そして藻屑となりたかった。

 朝がやってきて、秋子が目覚めて、秋子が私を案内した。

 誰の元へ?

 秋子の男の子の友達の元へ。

 想像上の女の子の設定上の友達の元へ。

 気がつくと、場面転換。

 私の目の前に、下半身が電車の男の子がいた。

 秋子に手を引かれて、ここまできたんだ。

 彼は下半身が電車だけれど、この街には、彼のための線路がひかれていないから、どこへも出かけることもできず、ずっと彼の家の彼の部屋に閉じこもっているのだった。

「いいなあ」って私は言った。

「なにが」

「自由って感じで」

「どこが」彼は、顔をしかめた。

 彼は少年だったから、顔の筋肉を無理にひきつらせることによって、かろうじて、顔を小憎らしく歪めることが、できるのだった。

「なんなんだよ、あなた」と彼は言った。

 だって、突然お邪魔しちゃったのだ。

 彼だって、心の用意ができていない。

 私は彼の心をノックするつもりで言った。

 微笑みの中から声を浮かび上がらせる感じで。

 穏やかに。

 できるだけ、暖かい感じで。

「私はね、人間をやめたい人間です。ふふん。矛盾だね。具体的には、ロボットになりたいんです。でも、それが無理なら、地蔵菩薩になりたい、植物になりたい、空になりたい、雪だるまになりたい、電車になりたい、って思っています。あなたは、確かにまだ、人間で、人間の言葉を話して、人間の私と意思の疎通を取れていますが、半分、機械、半分電車ですよね。すばらしいな、って私には思われるのです。正直言えば、羨ましい。ずるいなあ。私は、あなたみたいな電車になりたい。半分でもいいから、人間らしさを捨ててしまいたい」

「違うよ」彼は否定した。

 即座だった。

「僕は、電車じゃない。そんなの見ればわかるだろう。いうまでもないことだ。何を勘違いしているんだ。僕は電車にはねられて、下半身がなくなって、切除して、だってぐちゃぐちゃだったらしいから、記憶ないんだけれど、事故も手術も術後も記憶が曖昧なんだけれど、こうして、今、車椅子で生活しているだけ」

「違う、あなたは、電車にはねられて、はねられた拍子に、体の半分が電車と融合しちゃって、半分だけ電車になった男の子、その証拠に、下半身は四輪の車輪で構成されているじゃない、スチール製の。それはとても素敵なこと。だって、あなたはもう半分人間じゃないんだから。あなたは、完全な人間じゃない。下り坂をどこまでも、ころころと転がっていける車輪人間なんだから。この、人間椅子め。きっと、もう一回事故を起こせば、魔法みたいに、完全に、電車になれるよ」

「電車になんかなりたくないよ」

「でも、あなたはもう半分以上電車です」

「僕は、半分以上電車と融合した男の子」

「そう」

「そんなわけないよ。いくら僕が子供だからって、騙そうだなんて、それはとてもひどいじゃないか。心の貧しい魔女め」

「私の中では、そうなっている。そうなっているんだ、だから、いいじゃないか。私は嘘なんかつかないよ。ただ、信じているだけ」

 気がつくと、秋子はぐったりと、空気の抜けた風船のようにしぼんでいて、私は、男の子と一対一で話していた。

 男の子は、根気よく私に返事をくれるのだった。

 もしかしたら、話し相手に餓えていたのかもしれない。

 そこは、病院。

 病室。

 でも、本当は違う。

 なぜって、壁紙が、私の瞼だから。

 私の瞼の裏側が今、たまたま、彼が寝泊まりしている、とある病院のとある病室につながっているだけ。

 それはとてもすごいことだけれども。

 だって、彼はさ、創造と設定に上書きされた男の子だから。

 秋子は多分、一時的に死んでいるのだった。

 秋子には、そういうことができるんだ。

 冬眠ってわけじゃない。

 目覚まし時計で起き上がることのできる死。

 それだけのことで。

 一時的に死ぬってどういう気分なのか、今度秋子に教えてもらわなくちゃって思った。

 それは、カップヌードルの乾麺になるような、そんな感じだろうか。

 それとも空気の抜けた風船になる感じ。

 私が人間じゃなくなれたら、その感じがよりはっきりとわかる気がした。

 だって、カップヌードルも風船も人間じゃないから。

 人間じゃない何かに仮託しなくちゃ何事も理解の深まらない私は、いっそ人間でなくなれた方が、世界をリアルに認知できるはずなのだった。

 色鮮やかに。

 私は秋子たちから、私が知らない体験を分けてもらうんだ。

 それが友達っていうもの。

 私はそんな秋子たちとの関係がとても嬉しくて、心地よい。

 私たちは、心地よい家だ。

 私は、すごく一方的に、決めつけるように、失礼も無礼も織り交ぜて話しているのに、彼は、少しは怒っているみたいだったけれど、思っていたほど怒らなかった。

 寛大なのだった。

 東大ではなかった。

 まるで、水槽の厚いガラスが、私と彼との間に隔てているみたいだった。

 離れている。

 私は寛大な人を目の前にすると、少しだけ気分がくつろいで、にこにこと微笑んでしまうのだった。

 シュークリームやエクレアの中身ように、笑顔が、私の口元からこぼれだすのだった。

 私の笑顔は、甘いのだった。

 彼もその微笑みにつられて、私のこと、そんな悪い人じゃないのかな、って感じで、見つめてくる。

 言葉がどれだけ人を傷つけても、微笑みが軟膏のように、私たちの関係を曖昧にするんだ。

 肌と肌がくっついている。

 彼の視線は板チョコに似ていた。

 一見生硬なのだけれども、時間さえかければどろどろに溶けてしまう、人恋しい人間なのだった。

 なんだ、彼は、人間らしい人間なのだった。

 いくら下半身が電車になっても、脳みそが人間のままじゃ、致し方ないのだろうけれど。

 彼は、半分だけの疑いの目で、様子を伺うように見つめてくるのだった。

「私も電車になりたいんだ」

「でも、僕は電車じゃないから。僕にそんなこと訊かれてもどうしようもないよ」

「違う違う、だって、あなたは半分電車だから。私より電車に近い人間だから」

「でも、人間は人間だから」

「私は電車になりたいんだ」

「電信柱じゃダメなの。電線持って突っ立てたらいいじゃないか。下半身を生コンで埋めちゃって」

「痛いじゃない。苦しいじゃない」

「わがまま」

「私は、わがままです。はい。私は電車になりたいの」

「じゃあ、僕みたいになればいいじゃないか。さっさと踏切を強引に突破してさ、電車に轢かれちゃえばいいんだ」

「違う、あなたよりもっと完璧に電車になりたいのさ。あなたみたいは不完全な電車人間じゃダメで、あなたは、ダメダメの不完全の人でなしで、あなたは人でなしで、すっごく不完全でダメな人でなしで、あああ、すっごくダメね、私はあなた程度じゃ満足できないのさ、もっと、ダメになりたいダーメなのさ。何でドイツ語。でも、私は女の子。私は、人間の要素がゼロの電車になりたい。電車って、どこからどう見ても、人間じゃないでしょ。完璧に、壊れずに、壊れてしまいたいのさ。命なんかいくらでも捨てていいけれど、壊れずに、電車になりたい」

「じゃあ、僕と話したって仕方ないだろう」

「うん、まあ、そうだけれども」

「じゃあ、なんで、僕の部屋まで押しかけて、僕とおしゃべりしているの」

「それは、あなたが好きだから」

「うそ、そんなわけないでしょ」

「うん、うそ。本当は、苦しいから」

「苦しい?」

「ぎゃあぎゃあ」

「いきなりうめかないで」

「私は苦しい。だから」

「だから」

「あがき。あがいているの」

「あがきって何」

「足掻いているの。少しでも気持ちが楽になるように。おんなじ場所でばたば駆け回るだけだとしても、駆け回っている間は、行動らしきものをしている間は、少しは、気持ち、楽になるでしょ。まるで、無自覚に息継ぎをしているみたいに。でも、すぐに、息は詰まってくるの」

 私は足掻いているだけだった。

 バタ足で、足掻いているだけだった。

 足がバッタみたいに躍動している。

 見えない海を。

 見えない海鳥が私を笑う。

 バッタって泳げないじゃん。

 ひどいなあ、笑わないで。

 わらわを笑わないで。

 とにかく、人間をやめたいけれど、人間をやめることのできない私は、少しでも、時間をやり過ごしたいのだった。

 電車の待ち時間のように、時間をやり過ごしたいのだった。

 風穴を開けて、その風穴に入りたいのだった。

 まるで風できた鍵のように。

 風穴があったら入りたいのだった。

 そして風でできた扉を開きたいのだった。

 どかんといっぱつ、閉塞感に穴を開けて、その穴を、私の墓穴としたいのだった。

 だから、中身のない空想を広げて、少しでも、人間から遠ざかれた気分を味わいたいのだった。

 線香の匂いを嗅いでいると、死ぬって怖く無くなる。

 私の空想の産物に過ぎない秋子に友達などいるわけないのだった。

 だから、この男の子も、秋子の友達、という関係性の上で、私のでっち上げた空想なのだった。

 でも、だからと言って中身がないわけじゃなかった。

 ほら、とても苦しそうな顔をしている。

 ナースコールを私は押した。

 人間の手足が生えたナスビたちがどこからともなくやってきて、男の子の全身を撫で回すのだった。

 そう、夢か。

 夢じゃない。

 白昼夢。

 ここは、私の家の私の部屋の私の押入れの中の私の瞼の裏側の暗闇の中なのだった。

 暗闇は、私を、自由にする。

 私の輪郭を曖昧にする。

 溶暗ってこと。

「じゃあ」って男の子が言った。無茶なことを言った。

「僕の下半身とあなたの下半身を交換しようよ。オムツみたいにした。濡れた紙おむつみたいに、僕の下半身とあなたの下半身を、アトムの下半身とウランの下半身を交換して、うらなりちんちん少女ちゃんを作るみたいに。いや、僕には、もうちんちんはないんだよ。下半身電車なのに、ちんちん電車にはなれないんだ。別に、全然、構わないけれど。そうすれば、あなたは、今の僕みたいに、半分電車になれて、僕は以前みたいに自分の足で歩くことができるでしょ。ところで、あなたにはちんちんがあるの?」

「ないよ」

「ないんだね」

「ないちんがーるだよ」

「なにその盗作っぽい台詞」

「でも、そんなことできるわけないじゃない」

「できるよ。だって、僕はあなたの空想なのだから。あなたが思い描けば、なんだって可変可能なんだ。あなたの脳みそが現実を忘れて、嘘のみに身を委ねれば、創造に身を委ねている間だけ、なんだって、可能なんだ。扉は開くんだ」

「じゃあ、そうする」

「ありがとう」って男の子が言った。

 男の子が私の目の前で、女の子になった。

 二本の怪獣の尻尾を、頭から生やしていた。

 ツインテール。

 ツインテールが付いていーる。

 ツインテールに大量のカメムシとゴキブリが付いていーる、それはまるでトウモロコシみたいに。

 私の頭が溶けてしまえば、それが、タネも仕掛けもない、私の目の前の光景だって、私は視力はそんなに悪いわけじゃないけれど、原子力爆弾で燃え溶ける時のように、溶解するのだった。

 熱い、熱い、熱くない。

 苦しくもない。

 男の子の舌がブランコになったみたいに、私に向かって言葉だけ放り出された。

 私はそれを唇で捕まえた。

 つまり、おうむ返しで彼に答えた。

 私の方こそ「ありがとう」とお礼を返す。

 示唆に富んだ、対話を、ありがとう。

 感謝を込めて記憶に刻むよ。

 そして、そしてね。そして、私の下半身が鈍い刃物みたいな鈍い痛みで切り取られるのだった。

 ぎろちんぎろちんぎろちんちん。

 ぎっちょんぎっちょんぎっちょんちょん。

 そして、車椅子に乗っていた男の子の下半身から、銃弾みたいに、あるいは、ヤモリの卵の孵化みたいに、にょきにょきにょきと筍のように私のくびれた足が生えてくるのだった。

 足首が、ボーリングのピンのようにくびれていた。

 私の足首は、野うさぎのお耳のように、掴みやすい細長さだった。

 男の子は、車椅子一つを残して、私の部屋を自分の足で出て行くのだった。

 彼には影がなかったけれど、はつらつと、スキップまでしているのだった。

 私は確かな痛みで、身をよじらせていたけれど、痛たただけれども、でも、コマみたいに、回りだすこともなかったけれど、彼の颯爽と立ち去る姿は、私の気持ちを爽やかにしてくれた、清涼剤、声量の増える薬剤、いやああ、と叫ぶ私、すごく、痛い、私、たとえ半分であれ、電車になるって辛いんだな、つり革にしがみついて、身悶える私、私、彼の歩みを何度もなんども脳内で再生して、鎮静剤の代わりとした、爽やかな彼の足取り。

 押入れの外には彼が乗り捨てた車椅子が一台、邪魔なんだけれども放置されていた。

 それは確かに実物で、私には足がないから、ちょうど良い乗り物だった。

 私は、全身ナメクジになったみたいに全身運動をさせて、這々の体で車椅子に乗った。

 私の腕が、こんなに腕力を発揮した日ってない。

「秋子。ねえ、秋子。秋子ってば」

 秋子が黙ってしまって、相変わらず萎んだように倒れ伏しているので、私は、「秋子ってば、てば、てば、てば、てばー」と言った。

 そしたら、秋子が「てばーてばなにー」って言った。

「ふふん」と私は、痛みを忘れて笑った。

 もう、痛みは、ひいていたんだ。

 波打ち際と一緒なんだ。

 押し寄せてくるものはやがて、程なくしたら、引き下がってしまうのだ。

「なによ、春子。妙に元気だけど。元気なのは良いことだけれども」秋子が、生き返って、私にまともな返事をする。

 生返事。

 生き返ったばかりだから、生返事。

「ほら、みて。ほら、すごい、私すごい。ほら。早速私、人間を半分やめることができたよ。私は半分だけ電車になれたよ。ケンタウロスから、馬の要素を差し引いたみたいになったよ。赤ちゃん人間だよ。まあ、たかだか半分だけれども、たかが、半分、中途半端に、夢が叶って、中途半端な片端になっただけだけれども。でも、もう、私は完全な、五体満足な人間じゃないんだ。人間じゃないんだ。人間じゃないんだ。人間失格だね。やったね。やったやった。嬉しいよ。どのくらい嬉しいって、カップラーメンがお湯を入れてちょうど三分間経って、食べごろになった時の一万倍は嬉しいよ。とっても、嬉しい。やったあ。嬉しいなあ」

 あほみたいにあほみたいな喜びの声を私はあげるんだ。

 産声より、大げさなんだ。

 これが、第二の私の産声なんだ。

 はしゃぐんだ。

 だって、嬉しいから。

 う・れ・し・い、から。

 嬉しいからっぽ空っぽ空っぽの頭でゆさゆさ車椅子の上でミノムシみたいにのたくり回るんだ。

 本当に、人間を、やめてしまいたいから。

 本当は、完全に、人間を、やめてしまいたいから。

 だって、人間って傷つくじゃん。

 傷、つつくじゃん。

 誰か知らない人が。

 半分だけ夢が叶った喜び、そして、半分しか夢の叶わなかった、ちょっと悔しい、もどかしさを、私は味わうのだった。

「よかったね」って秋子が大人びた声でいう。

 だって、全身全力ではしゃぐ人を前にした時、人は、大人ぶるか、子供になるかの二択しかないのだから。

「ねえ、秋子、押してよ」

 私の声が、甘えている。

 人間を半分やめたというのに、甘えている。

 車椅子は自走できるようにホイールに手すりがついているのに、車椅子を、押してよって、秋子に、甘えているのだ。

 人間を完全にやめてしまったとしても、甘えたっていいよね。

 ナメクジだって、塩じゃなくて、砂糖をかけたら喜んで太ってくれるんだ。

 秋子が私の車椅子を押してくれる。

 狭い室内をぐるぐるぐるぐる回るんだ。

 畳の境目で、少しだけ車輪が傾くんだ。

「秋子、私はもっと人間から遠ざかりたい」

「どのくらい?」

「鯨一頭分くらい」

「絶滅危惧種だよ」

「自分の人間としての肉体だけ捨てて、あの星へゆきたいよ」

「うん、うん」

「私は、夢が半分叶って、もう、情熱に火がついちゃった」

「ああ、消火しなくちゃいけないね」

「やめてよ。それだけは、やめてよ」

「マッチポンプだから?」

「うん、そう、せっかく燃えている炎を消してしまっては、なんにも、なくなっちゃうから。一旦燃えだしたものは、燃焼と余熱を楽しみ尽くすしかないんだよ」

「そう、うん、そうだね」

「はやく、次の秋子の友達の元へ連れて行ってよ」

「うん」

 秋子は、私を勢いよく押した。

 私たち二人は、窓ガラスを突き破って、屋外へ出た。

 二階だというのに、私たちは、怪我をしても、平気だった。

 だって、二人だもの。

 そこには、待ち構えていたみたいに、というか、待ち構えていたのだけれども、瓶詰めにされた小人が転がっていた。

 それが、もう一人の、秋子の友達だった。

 繰り返しになるけれど、秋子も秋子の友達も空想の空想を広げて作り上げられた虚構だから、都合よく、ころころと転がり落ちる時のように、テンポよく、秋子と秋子の友達は、私の目の前に、順序正しく、立ち現れるのだった。

 私たちは、ただ、窓ガラスを割ったり、二階から飛び降りたりするだけで、友達の友達に出会えるのだった。

 便利な世の中だ。

 瓶の中は小人一人が窮屈そうに詰め込まれていて、他には何もなかった、空白がないくらい、小人は、小さいくせに、太っているのだった。

 小人、といっても六十センチくらいはあった。

 だから、瓶も、ちょっとしたガスボンベくらいの大きさだった。

「なにこれ」私は、その小人を指差して呟いた。

 蹴りたかった、ほんとは。

「じゃじゃじゃじゃじゃじゃ」って秋子が言った。

 そして、こう続けた「じゃじゃん」

「こんな変なのとも、秋子は友達なの」

「うん」

「お前、よく秋子と知り合えたなあ」って言いながら、私は瓶を小突くのだった。

 小人の眼球はスライムみたいに、透明な瓶に球形の形を歪ませながら、張り付いていた。

 緑色の瞳だった。

 でも、これは何の半分なのだろう。

「これはなに」

「空の半分の小人です」

「わけがわからないな」

「彼には、中身がないのです。中身が空っぽ。それってつまり、空と一緒。しかし、中身が空っぽでは、本来、生存もできませんし、出生もできませんし、存在も保てないはずなのです。だ・け・れ・ど・も、中身が空っぽの彼を無理矢理存在せしめるための工夫がこれなのです」

「さらに、よくわからないな、と私は繰り返し言わざるを得ないよ」

「中身がない小人を瓶の中身に詰める、ということ。これは発想の転換だね。中身のない彼が瓶の中身に収まることで、彼の中身の無さが、彼の空っぽさが、彼が中身であることによって矛盾相殺されて、中和されて、打ち消しあって、彼は中身のないままにこの世の中に存在することが可能となったのです。すごいよね」

「ふへへ」って私は、秋子の子供っぽい理屈を可愛いなあ、と思って笑った。

「神秘ってこういうこと」

「中身がないことが神秘なの?」

「そういう話じゃないってば」

 秋子の、理屈をこねくり回す手は、児童が粘土や泥遊びをする時の手とそっくりだった。

 紅葉色に輝いている。

 太陽は、巨大な紅葉なのだった。

 大怪獣。

 でも、こんな中身のない小人を紹介されても、どうしようもないのだった。

 中身の無さゆえにか、小人は虚ろな瞳で、頭空っぽのよだれまみれで、なんというか、小人のよだれ漬けって感じの瞳で、中空を眺めており、涙まで黄ばんでおり、私たちとは一切視線が合わないほどだった。

 かわいそうだ。

 可愛くはない。

 こんなのと友達になって、嬉しいのかな、楽しいのかな、喜ばしいのかな、笑えるのかな、でも、こんなのがいたら、かわいそうで、放っては置けないかな、穴を掘って埋めて身を隠すかな。

 と思っていると、秋子は小人が詰まった瓶を蹴倒した。

 そして、蹴り転がした。

「中身のない人間は空と一緒。そして、こいつは、瓶詰めにされることで己を中身とすることでかろうじて形式をとどめている肉人形。肉肉肉、肉だ。いっそ瓶から解き放って、完全に中身のない空っぽの空にしてしまってもいいんじゃないかなって私は思うよ。春子、こいつを瓶ごと崖か何かから蹴り落としてしまおう」

「死んじゃうよ」

「死ぬわけじゃないよ」

「じゃあ、どうなるの」

「空になるの。中身が空っぽで、瓶詰めにされているがゆえに、半分空っぽな彼が、本当に空っぽになるところを、私たちは見るの。それは、きっと、春子にとってヒントになると思うよ。人間って、こんなふうに空虚になれるんだな。こんなふうに廃人になるんだな。なるんだったら、なるんだ。すごいんだよ。これから、春子は、人間をやめるんだから。もうすぐだね。誰かが人間をやめるところを目撃することは、将来の春子にとって、とてもためになることじゃないかな。だって、だってね、伊達眼鏡だってね、似合っているよ、春子にだって、将来の不安とかあると思うから、予行演習って大事、将来を見据えた予行演習って大事。プラシーボ効果だってあると思うよ。サブリミナル効果って感じで。だから、私たちはこいつをめちゃくちゃに壊してしまおうよ。リンチ、隣人を、リンチ、隣人をレンジでチンだよ」

 私はちょっとだけためらったけれど、「うん」ってすぐに頷いた。

 経験が、私には不足していたから。

 敬虔な気持ちが。

「でも、壊すのは、外側の瓶だけだよ。中身の彼は傷つけちゃダメ」

 最低限の思いやりって感じ。

 亀の甲羅を割る時みたいに。

「うん、心得ている」と秋子は忍者みたいに言った。

 忍者って残忍の忍。

 そして、割った。

 思い切り、坂道から、道路から、瓶詰めの小人を蹴り落として、瓶を、分厚いガラスだった、を割った。

 人間をやめることは死ぬことじゃない。

 だから、怖がる必要はないんだ。

 だから、人間をやめるために、死ななくてもいいんだ。

 自殺はだめってこと。

 反対。

 瓶を破られた彼は、ナメクジのように広がった。

 それは、ぷわぁって感じだった。

 そして、分裂した。

 鼠算式に分裂した。

 そこから先、が、記憶がない。

 だって、これは空想なのだ。

 空っぽの、想いなのだ。

 空っぽなのに重いなのだ。

 つまり、夢のように、淡雪のように忘れてしまう。

 ばいばい。

 さようなら。

 左翼なら、さようなら。

 右翼なら、うようよいるね。

 気がつくと、ね、私は、秋子と一緒に、登山中、夕日を、夕焼けを、山頂から見つめていた。

 目が、痛くなるくらい、じっと。

 将棋盤を見つめる時みたいに、じっと。

 夕日と、太陽相手に、だるまさんがころんだをやっているみたいに。

 夕日は、私にも視認できるレベルで、じわじわとと動いていた。

 時計の針とコンドーム。

 そんな感じ。

 じわじわと時計の針とコンドーム中身に似ていた。

「ア、秋子」

「ア、春子、きれいだねえ」

 私たちは互いに呼び合った。

 夕日が綺麗すぎて、すぐには、相手がそばにいることに気がつかなかったんだ。

「うん」

「じゃあ、三人目の私の友達に、会いに行こうか」

 秋子は、私が座る車椅子を押してくれた。

 さっそくだった。

 登山道だから、ガタゴトと揺れた。

 外人となら、カタコトで喋れた。

 今は日本人ふたりぼっちだけれども。

 私の切り取られた足の付け根が、とにかく痛んだ。

 痛んだけれど、その痛みは、コカコーラ味だった。

 コカコーラ味の痛みを、私は楽しんだ。

「あの、小人は、どうなったのでしょうか」お伺いを立てた。

「小人は、拡散したよ」と秋子が言った。

「ぶわああああああんって」秋子は歯を見せて笑った。

「そして、世界を包み込んだんだ」秋子は続け様に言った。

「ふへえーん」

「そう、普遍的存在になったのさ」

「空っぽのくせに」

「空っぽって、つまり、0。0って何にでも足せるでしょ」

「でも、掛けたり、割ったりはできないよ」

「それはそれでいいんじゃない。ただ、全てが無になるだけで。今と何にもかわらないわよーん」と秋子は語尾で、コヨーテのように遠吠えした。

 すると、山のあちこちで、山火事みたいに、野犬たちの遠吠えが返してきた。

「ほら、三人目の友達も、すぐそこまできている」と秋子が言った。

「犬?」

「そう、犬」

「犬も友達?」

「ただの、犬じゃないわよ」

「じゃあ」

「私の、犬の友達は、ただの、いぬ、じゃなくて、いいいいぬぬぬぬ、なの」

「あああきききこここ?」

「なに?」

「どーいうこと」

「とても、良い、布なの」

「ああ、いいぬの。たしかに、いいいいぬぬぬぬっていいぬのって感じだね」

「そうでしょ」

「それって、つまり、水道管に根詰まり、毛皮ってこと?毛皮を洗面台で洗うと根詰まりしちゃいそうだもんね」

「んーん」

「違うんだ」

「剥製」

「はくせい」

「は・く・さ・い」

「白菜?」

「違うよ」

「いじわる!」

 私は怒った。

 そして、秋子は、私に怒られた。

 殴られた。

 泣かれた。

 そして、泣き止んだ。

 秋子の眼球は、雨季と乾季を繰り返す。

「それは、何の半分なの。樹木?雪だるま?地蔵菩薩?」

「えっと、ね」

 秋子は言葉を詰まらせた、想像の連想の想像だから、口からでまかせなのだろう、これまでのやりとり全部、だから、時折、整合性が取れなくなって、台本が、脚本がフリーズ、破綻しかける。

 そういう時は、じっくり腰を落ち着けて、あせらないで、補填しなくちゃ、つくろわなくちゃ。

 私は、秋子をあまり困らせたくないから、秋子が十分あれこれ考えられるよう、だまって、風を通せんぼするみたいに、胸を張って、登山道をガタゴト揺られているのだった。

「雪、だるまかな」

「どうして?」

「剥製になれば、体温がなくなる。雪だるまも、とっても冷たい。冷たいよね?たぶん。剥製は、そこそこ冷たいよ」

「毛皮を着ると暖かいよ」

「雪でできたかまくらの中も温かいよ」

 温かいという漢字の、右半分は、何だか、かまくら、って感じだ。あるいは、こたつの上に、みかんって感じ。

 そう思えないかな。

 私には、そう見えちゃうんだけれども。

 ああ、風景が、風景画みたい。

 雲が、影が、何か別の生き物に見える。

 私はなんでもよかった。

「ありがとう」

「急に、なに」

「なにはともあれ、ありがとうってこと。そういう気分を秋子へプレゼント!」

「うん!」

「じゃあ、早く、その、剥製になった友達に会いに行こうよ。そして、私も剥製になるんだね。私もね。なれるかな、がんばるぞお。おおおおお。そしたら、私も、さ、さらに半分、雪だるまに近づいて、人間から、遠ざかれるんだね」

 わけが、わからなかった。

 わけが、わからないこと、って人生で、よくよく考えてみると、多くて、少ない。

 剥製になった段階で、もはや人間じゃないじゃん、って思ったりもしたものだった。

 でも、やっぱり、それだけじゃ、私の理想までの、半分の距離だった。

 たどり着いた。

 秋子の友達の元まで、私たち、たどり着いた。

 秋子が立ち止まって、私の車椅子も停止した。

 反動で、ちょっとだけつんのめった。

 だって、私は、もう、だいぶ弱っているから。

 目の前に、巨大な、毛皮。

 その毛皮は、その剥製は、犬が原材料であるはずなのに、ガスボンベで無理やり膨らましたかのように、雪だるまそっくりの、もっこり、もっこり、もっこり、とした、二段重ねのアイスみたいな輪郭をしていた。

 かわいかった。

 かわいくはなかった、やっぱり。

 審美眼って秒速で変わっちゃう。

 だって、二メートルはあったんだ。

 おおきかった。

 原材料も、一匹の犬じゃなかった。

 複数の、犬が、まとめられて、殺されて、屠殺されて、ガス室で縊り殺されて、練り飴みたいに、練り合わされた、そんな感じだった。

 死体はおもちゃにもなるんだよ。

「なにこれ」

「犬ですね」

「犬の反対は、鵺じゃないよ」

「そりゃそうですよ」と秋子は答えた。

「でも、犬っていうよりは、あれじゃん。あれじゃん」

「あれれれ」

 そういう秋子は、可愛かった。

「そもそも、さ、男の子なの」

「しなびたちんちんが、テトラポッドに生えるカメノテみたいに、いっぱい」

 生えている。

 犬の腹部の乳頭かってくらい、ちんちんがやっつくらい、ヤツメウナギみたいに、生えている。

 無精髭みたいに、生えている。

 ちんちんが風に揺られて、ちんちちちちちちんちん、と風鈴みたいに涼しげに鳴った。

 それは、風流。

「そうだよね。ちんちんがこんなに生えていたら、男の子、間違いなしだよね」

「うん、こちらが、私の友達の半分雪だるまになっちゃった、男の子です」

 雪だるま状の犬の剥製から生える両手で数える程度の数のちんちん、それは、黒ひげ危機一発みたいなビジュアルだった。

「うん、犬だって、人間の友達だよね」

「そうだよ」

「うん」

「そういうこと」と、秋子はい言った。

 言い張った。

 テントを張った。

 キャンプだ、キャンプだほほほほ。

 優しい声だった。

 優しい声で、言い張れるってすごいな。

 納得と説得がセットでお得。

「これは」と私は訊いた。「死んでいるの?」

「魂は、宿っているよ」

「どうして死んだの?殺されたの?」

「みんな、末期ガン」

「犬でも癌になるんだ」

「当たり前じゃん。生き物なんだから、生物の最小構成単位は細胞なんだから、さ。死ぬときゃ死ぬよ。細胞レベルで死んじゃう。呆気なくね」

「そっか、じゃあ、かわいそうだなあ」

「うん」

「かわいそうだね」

 私は、言葉とは裏腹に、ふふふって感じでほほえんでしまった。

 別に口に嘘を言わせた訳じゃない。

 ただ、なんだか、恥ずかしくなって、他人を憐れむことってなんだか私には、恥ずかしくって、笑って誤魔化してしまうのだった。

「新進気鋭の芸術家が、癌になって死んだ犬を寄せ集めて、ぬいぐるみを作ろうと思ったのさ」

「ぬいぐるみ」

「そう、ぬいぐるみ」

「いぬのみぐるみ剥いでぬいぐるみ、ね」

「そうそ」

「人間のための、人間のためにね」

「でも、出来上がったのは、これ。かわいくなかった!私の誕生日プレゼント!」

「だって、犬の死に顔って、口裂け女みたいだもの。特に、苦しんで死んだならば」

「うん、悪夢から生まれたんだ」

「かわいそうだね」って私はさっき言った台詞を、モノトーンで繰り返した。

「かわいくなくても、私の友達!可愛いとか、可愛くないとか、そんなのどうだっていいじゃない!春子だってそう!春子は私の友達!うん」

「うん」

「犬×ぬいぐるみ×雪だるま、可愛くないわけ、ないんだけれどな。でも、実際は、可愛くないけれど。お父さんが、血まみれで、作ってくれたんだ、繕ってくれたんだ。お父さんは、芸術家なんだ!」

 秋子は、犬、で、できた、肉だるまに抱きつくのだった。

 そして、頬ずりをする。

 もしかして、秋子のお父さん死んだのかな。

 遺品なのかな。

 それにしては、下品だな。

 そして、秋子は、突然野太い声で言う。

「こんにちは」

 腹話術士みたいに、声音を変えて。

 それに対して、私は答える。

「こんにちは」

「えへへ」って秋子が照れたように笑った。

 私も、ふふん、と微笑んだ。

「はじめましてですね。春子さん」

「何言ってんの、秋子」

「俺は、俺はね、秋子じゃないよ。秋子の友達、犬太郎」と秋子は言った。

 秋子は続けた。

「本日はお日柄もよく、俺の住処に、よくきてくれましたね。ありがとう。歓迎するぜ。まま、どうぞ、何もない山の頂上ですが、くつろいでください」

「はあ」

「ところで」

「はい」

「本日は、なにか俺に聞きたいことがあるとかで。いえ、秋子の方から、俺に興味のある友達がいるとかって伺っていたものですから。内心嬉しくって、ね、待ち侘びていましたよ。えへへ」

 そして、秋子は唐突に地声に戻り、「そうだよ、春子ちゃんはね、人間をやめたい女の子なのさ。そしてね、なんと、どうせ人間をやめるなら、可愛らしい雪だるまになりたいんだってさ。いかしているね。センスがいいね。目の付け所が、目のついているところは、普通だね、鼻の上って感じで。イカしてるぅ!」

「そうだな。人間にしてはなかなかだ。いや、すんません。俺、人間より、犬の方がエライって思っているタイプでして。人間って二本足だしさ。足の数なら犬の方が多いんだぜって感じでさ。俺、人間を舐めてかかってまさあ。犬だけに。」と野太い声で秋子。

「まあ、太郎くんの思想心情とか、どーでもいいけどさ。話を戻すとさ、太郎くんってさ、シルエットが雪だるまっぽいじゃん?なんか、もこ、もこって感じで」の太くない声の秋子。

「ああ、そうだな。我ながら、イカしたシルエットだぜ」と野太い秋子。

「格好いいよね、太郎くんは。で、どうすれば、太郎くんみたいなビジュアルになれるかな、なにかアドヴァイス、もらえないかな」

「お願いします」って私も頭を下げた。

 頭を下げると、髪の毛が伸びた。

 一般相対性理論だった。

 太郎くんは言った。

 剥製になりたいなら、とりあえず、その全身を覆っている生皮を剥ぐべきだ。

 ってね。

 いや、私は、剥製になりたいわけじゃないのだけれどな。

 ってね。

 でも、太郎君は言うのだった。

 剥製になりたいなら、生皮を剥がないと、話にならないよ。

 って。

 私は、全身の生皮を、剥ぐ、ことになった。

 秋子が、友達思いの秋子が、手伝ってくれた。

 一人では切れないようなタイプのウェディングドレスを結婚式場の職員によってたかって着せ替え人形されちゃう時のように、私は私の意思に反して、私の生皮を剥ぎ取られていった。

「痛い」

「痛そうだね」

「うん、痛い」

「赤い、そして、ところどころ、白い」

「そうだね私の体の中で、紅白歌合戦中なのかな」

「そんな訳ないじゃん」

「ノリ悪いなあ」

「うう、ごめん」

「赤、白、白、赤」

「うん、赤くて白いね、目がチカチカするよ」

「あ、これ」

「なに?」

「広島の平和記念館で見たわー」

「蝋人形?」

「蝋人形にしてやろうか」

「広島平和記念館の蝋人形にしてやろうか」

「そうそ」

「ああ、痛い」

「痛そう」

「ゆっくり剥いでよ」

「ゆっくり丁寧に剥いでさ、人間の皮の下着とか作ってうっちゃおっか」

「いいね、捨てるより、はるかにいいかも」

「ゆっくり剥いだって、痛いものは痛いよ」

「うわあ」

「なに」

「風が、冷たい、冷たぁい。冷た痛い」

「そりゃそうだ。全身タイツを脱いだようなものだから」

 私は、とても、痛くて、痛くて、寒くて、痛くて、でも、全身血まみれでどくどく熱ってか、湯気たっていて、湯気が立つくらいなのに、寒くて、車椅子が、血まみれで、あまりに寒いから、脱いだばかりの肌を着込もうかと思ったけど、覆ったけれど、秋子のやつ、意外と不器用で、びりびりに裂けていて、しかも、その裂けた私の肌をマントみたいに、秋子が羽織っていて、友達の剥いだばかりの生皮をさ、秋子は嬉々として、身に纏っていて、スーパーマンみたいに、マントにしていて、人間の肌でできたマントを着込むヒーローだなんて、かっこいいかも、って私は思ったりして、で、そんなわけで、仕方がないから、全身をタンポポの綿毛で覆った。

 季節は、そんな感じだった。

 うん、季節は、そんな感じだった。

 風が強く吹くと、タンポポの綿毛が、風をはらんで、私を包み込んだまま、私は、上昇した。

 それはなんだか、空を飛ぶ、雪だるま、もどき、だった。

 たんぽぽ姫。

 たんぽん姫。

 思考が、エレベーターになった。

 エレベーターガールは、いつだって、飛び降り自殺。

 飛び降り自殺試写会。

 秋子は、急いで私の手を握り、私と一緒に上昇した。

 秋子だってエレベーターガール。

 秋子が首に巻きつけた私の肌が、失踪するバイクの運転手の手編みの方のマフラーみたいに、はためいた。

 私の顔に、びちゃんびちゃんと、私のかつての肌が、張り付いた。

 やめろーって思った。

「とても痛かったけれど、でも、これで、また一歩、人間から遠ざかれたね」と私は言った。

 秋子は、とても嬉しそうに、充実感たっぷりの笑みを見せた。

 タンポポの綿毛が真っ白で、まさしく、私は、雪だるま人間だった。

 足もないし。

 これで、両腕がなかったならば、まさしく、だるまだったのにな。

 まさしく、まさしくだった。

「春子さん、秋子、またね。またきてよ。俺のこと忘れないでよ。俺はいつもここにいるから。千年後もここにいるから」とすぐ耳元で、秋子が野太い声で言った。

「うん。わかってる。犬太郎、またね」ってすぐに秋子が言った。

「またね」って犬太郎が繰り返した。

 犬太郎は、私たちの、はるか下界、私も声を張り上げて「さようなら、ありがとう、またね、犬太郎さん」って言った。

 犬太郎が、吠えた。

 さびしいな。

 あれ、剥製のくせに。

 吠えた。

 そして、ドラえもんみたいな顔で笑った。

 もしかして、秋子の方こそ、犬太郎の、えっとその。

 そして、私が混乱している目の前で、別に爆発なんてしなくてもいいだろうに、犬太郎は、爆発した。

 私は目が眩んだ。

 爆風に煽られて、急転直下、まるで蚊取り線香に炙られた哀れ蚊のように、くるくると、危なげな軌道で、空を舞った。

 私は、目が回った。

 眩暈と睡眠欲はちょっと似ていて、眠たくなったので、空を飛びながら、私は、眠った。

 どうせ、なんとでもなるだろう、って思って。

 眠った。

 眠った。

 眠った。

 目覚めると、そこにも、秋子の笑顔があった。

「おはよう」

「おはよう」

「まだ、おねむなの、私」

「じゃあ、眠っていなよ」

 私は乾電池になって、目覚まし時計に装填された、気がした。

 そして、五分後、目覚ましが鳴ると、私が、むくりと、起き上がり、私は乾電池ではなくなるのだった。

 寒かった。

 冬だった。

 雪、雪だった。

 埋もれていた。

 秋子と二人で、馬鹿みたいん雪に埋もれていた。

 けれども、私たちは二人で抱きしめ合っていたから、全然、寒くなかった。

 半分雪だるまの男の子と別れた途端、冬になって、雪が降りだすなんて、と思った。

 まるで、爆発した犬太郎が、細かい切片となって、舞い散っているかのようだった。

 きっと、そうなのだろう。

 私は、全身真っ白のタンポポの綿毛で、うふふふ、これはちょっと目が悪い人なら、私のこと間違いなく、雪だるまだって思うだろうな、って思った。

 雪が、ダンスを踊っていた。

 私たちの目の前で、牡丹雪たちが、ひらひらと、ダンスを踊っていた。

 雪が、降り降り、振り付けを踊っているんだ。

 私は、それを蛍に似て、綺麗だな、って思った。

 捕まえようとしたら、蛍と違って、舌の上で、溶けてしまった。

 柔らかかった。

 私もいつか、溶けるのかなって思った。

 ポメラニアンくらい、柔らかかった。

 そして、そしてね。

 私の目の前に、緑色の巨漢がいた。

 大きかった。

 大きいんだよ。

 どーなつくらいおおきい。

 穴が空いているの。

 でも、私とどこか似ていた。

 どういうことって、私は思った。

 雪は雷。

 雪が雷がやっぱり雪が踊りを踊って私の皮膚の剥がれた肌の上をスケーターのように滑って溶けていく風景の中、そんな中、全身緑色の背の高い、男の人がいた。

 いたんだ。

 男の人が、いたんだ。

 すたんだっぷ。

「誰」と私は言った。

「山田さんです」と秋子が説明した。

「俺、山田っす」と緑色のたぶん男の人が言った。

 言葉まで、緑色、ではなかった。

 普通に、真っ白な言葉を、彼は吐き出してきた。

 真っ白な息に乗った、真っ白な言葉。

「この人は、全身、苔むしているのですよね。見たまんま、そう、苔饅頭みたいに。あるいは、鶯みたいに。あるいは、苔の生えた地蔵菩薩みたいに」と秋子が言った。

「苔ですか」

「コケティッシュですね」と秋子が言った。

「えへへ」と山田さんは照れたように笑うのだった。

 私はその笑顔に、照りつけられる。

 それは夕日みたいに、目という小規模な海に、滲んだ。

 そして、山田さんは説明を続ける。

「生まれ落ちたた時から、一度もお風呂に入っていないんだ、俺。産湯にさえ、さ。だって、面倒だったんだもの。で、気がついたら、こんな感じさ。ふかふかの苔に全身が蝕まれているってわけ。びびったよ。びびびびびん。でも、光合成で、なんとか生き延びているんだ、ってわけ。腹も減らねえぜ。そもそも、俺の、腹は、どーなつみたいに、俺が俺で自分でくっちまったけれどもよ。俺の大腸、癌だったんだよ。太陽の黒点、あれは、太陽癌だぜ。だから、くってやった。そしたら、癌が、治っちまった」男の人が、思いの外高い声で言った。

 そしてその高い声は、弧を描いて、私の元まで落ちてきた。

 高く高く跳ね上がったボールみたいに。

 私は、それが、ちょっとだけイメージじゃなくて、少しだけ、その場でジャンプして、驚きを示した。

 まるで、メンコみたいに。

 メンコ勝負みたいに。

「不潔じゃないんだ、自然体なんだ。自然と一体化しているわけだからな。いわば、トトロって感じ。俺はな。トトロだって、お腹に穴いているだろ。ああ、あれは、化け猫のバスか」

「ってことは」

 私は秋子の方をチラチラ見ながら確認をする。

「あなたは、半分樹木ってわけなの?それとも半分地蔵菩薩?」

「まあ、どうだろうな。半分樹木って言葉の概念がまず意味がよくわからないな。そして半分地蔵菩薩ってなんだ?まあ、俺は地蔵ではないさ。なにせ、クリスチャンだからな。では、さて、どうなんだろう、俺は植物なのか、はて、どうだろうか。俺は俺自身のこと客観的にはよくわからないからな。わかっていたならば、こんな苔まみれになるまで、俺は俺を放置はしないさ。だから、君のその質問には答えかねるね。だって、俺は、俺自身のこと、まるで、全然よくわからないんだからさ。俺は、五里霧中さ。ゴリラに夢中ってわけ。ああ、ゴリラと乳繰りあいたいぜ。それ、ドラミングか。そういう意味じゃないか。まあ、俺にわかることなんてなんにもない。なんにもわからないものさ。脳みそもどーなつだからな。どーなってんの、俺。わははは。わからないものは、わからないのさ」

「ふふふ」って私は笑った。

 はて、なぜ笑ってしまったんだろう。

 でも、笑うのは楽しい。

 楽しいって何。

 楽しいは、苦しいをマイナスにしてルートをつけた感じ。

 歯を剥き出して、笑うのは。

 私は。

 私ははははははは。

 でも、困ってしまった。

「ねえ、秋子」

「なにかな」

「私は彼から何を得ればいいのだよ。何を学べっていうの、この抹茶ドーナツ男から。ミスターどーなってんの山田から。なんていうのかな、なんの役にも立たない人って感じがするよ。まるで、デクの棒だね。でも、よくよく考えてみれば、人間をやめたい、私は、純粋なるデクの棒になりたいのかもね。それは、なんて言えばいいのかな、ほんと、まあ、無害で無益で親切そうなんだけれど、見当違いの無関心って感じで。いいところといいところが打ち合わせして、打ち消しあって、いとこといとこが打ち消しあっているみたいって感じで。近親相姦。まあ、どうでもいいって感じ」

「でも、春子は、樹木になりたいんでしょ」

「そう、林檎、林檎を実らせたいよ。まるで、稲穂のように」

「じゃあ、彼がヒントになるんじゃない。もっとインタビューがんばって」

「でもさ、私が樹木に憧れるのは、なんていうのかな、清廉で清冽で、孤高の人って感じがするからなんだよ。樹木ってさ。人じゃないけど。たぶんね。自己分析によれば。植物って。無欲でどこか仙人じみているっていうかさ。まるで、セックスしないしさ。干物みたいな。あ、でも山田さんもセックスしないか。そんな苔むしていたら、ぜったい、性病持ちだもん。でも、それはさておき、彼は、そういうんじゃないじゃん。無欲って感じじゃないじゃん。ただ、ただ、緑色なだけじゃん。緑色になりたいなら、全身ペンキでベトベトになればいいだけじゃん。彼は、ただ、苔でもこもこしているだけじゃん」

 うん、って山田さんは静かに頷いた。

 そして、秋子も同意する。

「まあ、うん。確かに、もこもこ度合い、もうすでに、春子はタンポポの綿毛で、十二分に、もこもこだものね。タンポポにも鼻毛ってあるのかな。だって、タンポポって花だし、そして、綿毛だし、じゃあ、鼻毛じゃん。確かに、春子は、今更、苔まで、生やさなくても、いいね」

「うん、だよね」

「うん、だよね」

 私たちは仕方ないから、苔男を、燃やした。

 も・や・し・た。

 いえーい。

 枯れ木を集めてキャンプファイヤーを楽しむように、苔むした、半分樹木かもしれない男を、樹木の活用法としては、至極妥当なやり方として、燃やした。

 燃えやすいように細かく、鉈で割った。

「まってくれー」と男は言った。

 燃えた。

 燃やした。

 だって、いらんもん。

 いらないもん。

 燃えるゴミ。

「熱いって、痛いって」と男は呟いた。

 でも、泣かないなんて、偉いな。

 神様は、ほめて、くれるよ。

 ひどい話だった。

 私たちは、笑うのだった。

 そして、苔男は、炎男となった。

 つまり、燃える男。

 かっこいいかな?

 いや、炎そのものが男の輪郭となった。

「俺は山火事だあ。山火事が俺だあ」と男は言った。

「そうだ」と秋子が言った。

「春子も燃えてしまえばいいのだ」と秋子が言った。

 無責任に言った。

「燃えてどうするっていうのよ」私の声は悲鳴だった。

 男も言っていたように、熱いって、痛いのだ。

 痛いのは、必ずしも、熱くないけれども。

 でも、よくよく考えてみれば、私はここまでのところ、痛い目にばかりあってきている。

 つまり、痛みには、慣れている、のだった。

 慣れているけれど。

 涙が、涙が、だめだな、涙が、溢れてしまうのだった。

 私の涙で、私に燃え移った炎が、消火されていく。

 それは、まるで、何かの循環で。私は半分焦げていた。

 炎が、鎮まっていく。

 私は、わんわん泣いた。

 おわんいっぱいに泣いた。

 そのお椀では、鬼太郎の目玉親父が泳いでおり、目玉親父だって、泣いていた。

 私は泣き続けた。

 履き続けたパンツ。

 黄色い。

 滝。

 黄色い滝。

 そう、私は滝だ、焚き火だ、滝だ。

 そう、ずっと、泣いていた。

 私は、半分燃えて、そして、涙が止まらなくなってしまっていた。

 つまり、私は、今や、噴水だった。

 噴水の、春子だった。

 スプリングなスプリンクラーってわけか。

 はは。

 秋子が笑った。

 以心伝心。

 人間じゃなくたって、心はあるよ。

 私は両腕がなくて、全身タンポポの綿毛で覆われていて、そして、燃えていて、泣いていた。

 痛いよ。

 熱いよ。

 涙がしょっぱいよ。

 塩ラーメンだ。

 目から塩ラーメンだ。

 うん、私は、もう、色彩だった。

 それは炎という原色の赤を涙という原色の青と混ぜ合わせた結果、私は、マーブル模様の紫だった。

 そう、私は、カラフルだった。

 か・ら・ふ・る。

 そう、私は、人間から、随分と、ずれて、しまって、いたのだった。

 うん、これで、良いのだった。

 うんこ、出がいいのだった。

「秋子」

「なに」

「ありがとう」

「えへへ」

「私、もう、随分と、人間の形からは崩れてしまったよ。溶岩みたい。ようがんばったわあ私。嬉しいよ。秋子。ありがとう。やー。やー。やー。秋子。私、人間を、もうすぐ、やめられそうだよー。卒業。死期。卒業」

「えへへ」って秋子が笑った。

 嬉しくって、可愛かった。

 もっと笑えよ、って私は思った。

 まるで、お酒をすすめるみたいに、私は笑いをすすめた。

 すると秋子の顔面が、みるみる膨らんで、青空を覆い隠してしまうくらい、膨らんで、そして、笑った。

 すごい、笑いだった。

 とても大きな、笑いだった。

 私は、その笑みに、飲み込まれそうになったよ。

 さて、私は秋子と一緒に、家へ帰ることにした。

 だって、半分電車の男の子に会って、私は半分車椅子になったし、半分空の中身のない小人を小瓶から解放して、まあ、なんていうのかな、気分が少し晴れたし、半分、雪だるまの犬ころと遊んで、生皮剥がれてタンポポお化けになって、全身真っ白なキャンバスになったし、半分、植物の苔むした男を燃やしたついでに、私自身燃えて、赤と青の狭間でカラフルになったのだ。

 これってもう、人間やめているって言えると思う。

 そうだよね。

 どうですか。

 まるで、中世の魔女の拷問みたい。

 いや、確信はないけれど。

 拷問かあ。

 拷問が、go on かあ。

 轟音。

 でも、まあ、こんなもんなんじゃないって。

 秋子は、私の隣をぼんやりとした表情で歩きながら、言った。

「でもさあ、まだ、半分地蔵菩薩の私の友達には、会っていないよ」

「うん、でも、今日はちょっと、疲れちゃったかな。お腹いっぱいっていうか、うん」

「まあ、彼は石だからね。石に会っても、つまんないかもね。犬も歩けば、石にあたっても、それ、蹴躓いているだけだからね」

「石にだって、宝石はあるよ」

「地蔵菩薩が宝石なわけないでしょ」

 うん、って私は頷いた。

 だって、それじゃ、地獄の鬼に盗まれちゃう。

 でも、あれ、同時に、私は、身動きが取れなくなってしまっていた。

 というのも、まるで、私の影が、地蔵菩薩になってしまったかのように、重たくなったからだ。

 変なの、って私は思った。

 変である。

 変だね。

 私は変数。

 消えてしまいそう。

 確かにね。

「どうしたの」って秋子。

「うん、なんだかね。影が、重たいんだ」

 これ、影じゃないよ、鉛じゃないの。

「体が重たいんじゃなくて?」

「うん」

「どれどれ」と言いながら、秋子は私の影を調べてくれた。

 そして、結論。

「春子、これは」

「うん」

「影が、蛹になったみたい」

「わけがわかんないよ」

「影が蛹になってね、身動きを止めちゃったの。そして、今しばらくの時を経て、きっとね、羽化するんだ」

「羽化」

「うかーーーー」って秋子が言った。

 飛び跳ねるくらいの勢いで。

 私は驚いた。

 つまり、羽化して羽ばたいて飛び立つ感じを全身でもって表現しているのだろう。

 そう思った。

「なんだ、私は、てっきり自分の影が地蔵菩薩になったのかなって思っちゃったよ。会話の流れから。川の流れのような会話の流れに竿差して」

「あるいは、重度の鬱かもしれませんね」

 秋子は、急に医者になった。

 まるで、現実みたいじゃないか。

 でも、実際ところ、秋子こそ、現実なのだ。

「そんなわけないじゃん」

「まあ、そんなわけないけれどさ」

 私たちはぼんやり時を過ごした。

 だって、仕方ないじゃん。

 たとえ、どんないきなりな展開だとしても、自分の影が急に蛹になって、身動きが取れなくなったなら、しかも隣におしゃべり相手の友達がいるってなったら、それは、ぼんやり、おしゃべりしながあら、時を過ごすしか、ないじゃない。

 うん。

 楽しいよ。

 ぼんやり、時を過ごすって。

 そして、羽化が始まった。

 多分だけれども、日没の数からして、私たちは、三日間くらい、ぼんやりと、時を過ごして、やり過ごしていたみたい。

「あ、春子」

「なに」

 私たちは、さすがに疲れていて、口数も、少なかった。

 でも、純粋な驚きと、期待感はあった。

 そして、期待感って風船。

 ぱーん。

 風船の中から生まれた、桃太郎。

 でも、遥か上空から墜落。

「見て、影から虹色の光が漏れ出ているよ」

「うん」

「もしかして、というか、もしかしなくても、始まったね」

「え、えっと、何が」

「だから、羽化が」

 うかーーーー。

「あ、そうやったね。さすがに、三日も野宿じゃ、疲れちゃって、頭が回んなくて、お腹も減ったしさあ」

 それに、もっといえば、私は両足を切断して、皮膚をびりびり剥がされたあとなのだ。

 セロテープみたいに。

 そして、もう、すごく痛いんだよ。

 本当は長期入院が必要なのに、三日も野宿じゃ、体がもたないよ。

 でも、いいのだ。

 私は、人間をやめるんだから。

 私は、期待感に胸を膨らませた。

 胸が膨らんだ。

 Dカップ。

 だって、私の影から何かが生まれるってことは、きっと、その影から生まれる何かは、これまでの私とは違って、つまり、人間じゃない何かなわけで、人間じゃない何かが、私の影から生まれた瞬間に、たとえば、肉体の方の私が自死を遂げたなら、それはつまり、私が、人間をやめて、人間以外の何かに、成り代わったってことじゃないの。

 いや、どうなんだろう。

 わかんないや。

 ぼんやりとする頭じゃ、わかんないや。

 ぼんやりとする頭を、ぺっちゃんこにしたい。

 でも、期待感に胸を膨らませる私は、まるで、風船のようだ。

 今にも、空だって飛べるよ。

 空が飛べたなら、というか、三日前の私は確かに空を飛んだのだけれども、いや、あの時は、山頂から飛び降りたから、山の標高を利用した滑空だったけれども、空が飛べるなら、私は、仲の良いドッグファイト中の二機の戦闘機のように、影から飛び立つ何か新しい何かと一緒に、飛び立とう。

 一緒に、空へ。

 うん。

 いや、秋子も一緒がいいけれど。

 秋子は、風船みたいに、膨らんでいないからな。

 そら、飛べるかな。

 でも、ほら、飛べるから。

 秋子、ちゃんと、空、飛べるかな。

 飛べるから。

 ちょっと、不安だ。

 不安定だ。

 不安だった。

 空を飛ぶって不安定。

 そして、めりめりというおぞましい音と共に、私の影が、ゴジラの卵みたいに、ふたつに裂けるのだった。

 さ!け!た!

 私は叫んだ。

「ついにこの時が!」って。

「うわー」って叫んだ。

 ばかみたいだね。

 私たち。

 いや、秋子は妄想だから、私ひとりか。

 まるで、フォークギターのソロか。

 でね。

 黒い影。

 私の黒い影な地蔵菩薩な蛹から。

 蛹から。

 さなきだに。

 無数のダニみたいな小さな虫が。

 そうじゃない。

 これは、文字だ。

 無数の、私、という文字が、溢れ出した。

 そして、私を、文字じゃない方の私を繭みたいに、包み込んだ。

 それは、くすぐったい感じ。

 全身、刺青を、入れた時みたいに、くすぐったい感じ。

 私、という文字が、私という肉の上を、耳なし芳一のアレみたいな感じで、つまり耳、這いずり回るのだ。

 這いずり回るのだ。

 ぐずついた天気。

 くすぐったい天気雨。

 生まれる前の景色。

 私の魂が、九つに別れる前の一つだった頃。

 私の指がカエルだった頃。

 そしてほっぺたに、栗鼠がクリネズミが、栗とリスが、クリトリスが、クリ年寄りが、繰り返し、暮らしていて、世話の焼ける人々が、そこには、いて、凍てついていて、ここに、居て、ついて、来て、ずっと、そばにいて、そんな、感じで。

 私は、目覚めるのだった。

 全ての夢がそうであるよう、夢は現実で、私の目の玉から、立体的に夢が、溢れ出しているというのが、目覚めるということだから、私の目の玉から、立体的に、色鮮やかな夢が、確かに、溢れ出しているのだった。

 だだだだだん。

 銃声。

 私は、ひとでなしだった。

 ひとでなしってことは、殺人だって平気。

 殺人兵器だもん。

 私は、人でなしになった。

 うん。

 そう。

 でも、気がつくと、私以外の全ての人間が、いや、人間が、だって、私は、もう、人間じゃないのだから、私の影の中で、澱むように、霞むように、生息していた。

 私の影は、人間たちが生息するための、沼地になったんだ。

 うん。

 秋子が、秋子も、人間をやめたみたいで、天使の輪っかをつけて、つばさまでつけて、ぱたぱた、私の頭上を飛び交っていた。

 秋子の隣には、冬子、夏子の懐かしい姿もあった。

 まるで、トリプル菩薩。

 私は、微笑んだ。

 微笑めば、いつだって嬉しくなれる。

 嬉しいってスキーって感じ。

 大すきーって感じ。

 私は、空飛ぶ、秋子、冬子、夏子でお手玉をした。

 私は、本気ではなかった。

 私は、うん、そう、なんだ。

 うん。

 世界は、私、という文字によって、取り囲まれていた。

 まるで、囲碁みたいに。

 以後よろしくお願いします。

 つまり、空の向こう側は、私という黒々とした文字で、取り囲まれていた。

 真っ黒だった。

 真っ黒だった。

 黒い太陽。

 黒い蟻。

 私には、もう、あれです、あれですね、肉が、なかった。

 長ったらしい肉がなかった。

 だって、ええっと、その、いろいろあったから。

 いろいろあって、人間を、やめてしまったから、私には、肉体などなかった。

 誕生日だった。

 いや、私は、生まれ変わったわけでもなかった。

 私は、そばにいて、光ることのできる、キーホルダーだよ。

 そうじゃないから。

 そうでもいいじゃない。

 わかっているから。

 わかってあげる。

 そういうことだった。

 私は、秋子たちを、花束みたいに、抱きしめた。

「そんなに強く握り締められたら、苦しいよ」って秋子は冬子の声真似をしながら、夏子を人形みたいに扱って腹話術みたいな感じで、言うのだった。

 私は、秋子の、そんな一発芸に、くすくすと笑うんだ。

 ぐずついた天気。

 くすぐったい手のひら。

 すると、そのくすくす笑いが、まるでスピーカーからの発話のように、秋子、夏子、冬子、春子の口から、あ、私の口からも、ほぼ同時に、でも、微妙にずれて折り重なって、発せられるのだった。

 攪拌されるカクテルのようなもの。

 攪拌されるカクテルのようなのみ物。

 私は、その時、地蔵菩薩だったし、電車だったし、雪だるまだったし、植物だったし、空だった。

 それは、つまり、空一面に、地蔵菩薩が浮かび上がって、星空の、星座みたいになっていて、その地蔵菩薩から地蔵菩薩へと、行き来するように、まるで、蜘蛛の巣のように、電車が、行き交っていて、粋がっていて、行きがかり上粋がっていて、でも、老人に席は譲って、それはそれでよいのだけれども、星空が、どこか寂しそうに、そんな私のことを見つめていた、星空は瞳、きらきらと星のように煌めく瞳があるように、実は、星とは、瞳、一方、地球は月と雪だるまになった。

 二つは、くっついて、離れられなくなって、くっついたまま、癒着した筋肉。

 植物は、一斉に、クラッカーみたいに、芽吹いた。

 それはオーケストラの指揮者の仕業、あまりに、一斉に、芽吹いた。

 そう、私は、ロボットだった。

 ロボットに、なれなたのだ。

 私はようやく、私は要約。

 私の要約、妙薬飲んで、私はロボット。

 手のひらが貫かれる、というのは、とても心地よく、私は、穴、まみれになった。

 まるで、どろんこで遊んで、砂場で遊んで、泥に塗れた時のように、私は、ぽっかりと空いた穴で遊んで、穴まみれになった。

 全身、無数の穴となって、それが、どんどん広がって、互いに侵食しあっていた。

 千手観音みたいに、無数の小指が、私に空いた穴に、エーーーって感じで、差し込まれた。

 秋子たちの、小指だった。

 私の穴は、まるで、指輪みたいに、秋子たちの小指に、収まりが、効くのだった。

 私は、私の掌から出発する、人々を、ぼんやりと眺めるために、目玉じゃない目玉を作って、見つめた。

 秋子たちは、全身、小指まみれになって、次々と開く、私の穴を埋めにかかった。

 けれど、穴は広がる一方で、小指になった秋子たちは、ついに、私の穴に、吸い込まれていった。

 そう、私は穴。

 穴だったんだ。

 生まれた時から、ずっと、穴だったんだ。

 うん。

 そう。

 ね。

 いや、穴があまりに大きくて。

「春子」って秋子は言った。

「またね」

「またね、っていつ会えるのさ」

「いつだろう」

「もう、誰とも会えないかもしれない」

「どうして」

「どうしても、こうしても、私は、もう、人間じゃないわけだし」

「うん、そうだけれども」

「まあ、そうだけれども」

「それが、どうしたの」

「どうもしないよ」

「死ぬ時になれば、私の中身が、秋子であることがわかるよ」

「うん」

 そんな感じで、秋子とは、とりあえず、別れたのだった。

 それは、分裂じゃなくて、分別じゃなくて、融合って感じなのに、分かれだった。

 それから、というもの、私は、人間をやめて、でも、人間をやめちゃった私がなんであるのかは、なんで有るのか、在るのか、或るのか、根本的には、結局、よくわからなくて、よくかき混ぜた味噌汁みたいに、攪拌、そう、私は、攪拌だった。

 核反応。攪拌されることによって、密度が均一になって、それゆえに、味噌汁は味噌汁らしくなると言うのに、私は、私らしくなると言うのに、かき混ぜられた私は、一体、私は私らしいにもかかわらず、私とは何かって感じで、じゃあ、そこで悩むのかって言えば、ただ、星を眺めているだけだった。

 私は、苔むしていた。

 悩んでいた。

 私は、瓶詰めだった。

 悩んでいた。

 私は、車椅子に乗っている。

 悩まないよ、もう。

 私は、犬で剥製だった。

 悩まないったら。

 私は、影に包まれていた。

 悩んじゃうのだ。

 あいうえお。

 私は、たとえば、私という存在が、とてもとても長く伸びて、宇宙の端から端まで私の肉体が、伸びてしまったとしても、それは、私にとって、私らしさにとって、なにも、何一つ、変わらないのだった。

 それこそが宇宙遊泳ってわけで、つまり、それの原因としましては、縞々パジャマ、私には他者が、もういないんだね、だって、だって、だっこ、ねえ、だっこったら、だって、私は、人間からぷっつり、はみ出てしまったのだから。

 まるで、まるで、そう、なんて言えばいいのかな。

 自ら。

 好んで。

 自から、水から、私は水かしら。

 私は、蛇口かしら。

 私の掌を、重ね合わせるために、そこには、私の手のひらに覆われるために、太陽が、登っていて、月と言う形をした階段梯子を、太陽が、ひとり、こつこつと、真面目に登っていて、それはドレミファソラシド、空、それは、まったくもって、忖度の人外だった。

 がががががん。

 爪の伸びる速度に追いつけないアキレウスノロは、台風が私を包み込んで、早着替え。

 私は、そうお姫様。

 人間サイズのちんちんを生やした、身の丈五十メートルの巨人が、人間の女とセックスをしている。

 そう、私は傍観者。

 観覧車。

 ららばい。

 雲の間。

 それは、光が住まうところ。

 そして、はじけている、言葉が。

 言葉が、私の全てを伝えようとするかのように、黒雲となった、黒幕となった、カーテンコール、言葉の群れが、ここから、あそこへ向かって、びゅんびゅんと、飛び立とうとしている。

 うん、うーん、唸っている、そして、飛び立った。

 私は、それを見届ける、という、前に、ぷしゅんと、消えることとなった。

 消えた。

 私。

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春子、人間をやめる。 @DojoKota

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