KAC20245 ささやかな望み

霧野

第1話 多田美春の悲嘆

 どうして? どうして私が叱られなきゃならないの?

 私はただ、あの方のそばにいたかっただけ。その姿をいつも見ていたかっただけ。


 背中に回された手の温もりと、外見とは裏腹な力強い腕。どうかはなさないでと祈ったのは、ほんの一瞬。階段を踏み外しそうになり、彼に咄嗟に支えられた、あの瞬間。

 「大丈夫ですか?」と心配してくれた、あの瞳。真摯な眼差しが私を刺し貫き、頭の中が痺れた様にぼうっとなった。あれ以来、私の目は彼だけを追い求めている。

 落とした書類を拾って手渡してくれた時に、「どうぞ」と言った声。涼やかで落ち着いていて、心に沁みいる様だった。ううん、実際に私の心に溶け入って、今も留まっている。

 役員の姪だからとチヤホヤしてくる他の社員たちと違って、彼はただ普通に、誰にでもするのと同じように、手を差し伸べてくれた。



 好きでもない婚約者と結婚させられるまでの、僅かな期間。

 ささやかな思い出を胸に、ただ見つめていられるだけでよかった。

 社会経験のためだけに就職させられた会社だって、彼に出会えてから苦ではなくなった。誰でもできる退屈な仕事を、たまに彼の顔を見られることだけを楽しみにこなしてこられた。


 なのにどうして? 総務課のPCで彼の住所を覗き見て近所に引っ越しただけで、怒られるの?

 散々吟味して部屋を選んだのに。もう話しかけたりしていないし、部屋に忍び込んだりもしない。

 ただ彼の部屋の中を、超望遠カメラで静かに撮影していただけなのに。


 しかも彼は、その部屋を去ってしまった。ひと夜のうちに消えてしまった。



 個人情報へのアクセスを妨害されたため、盗聴器を仕掛けた。

 彼が毎朝念入りに磨くカウンターでは見つかりそうだから、椅子の下に。彼が座る度に、ギシッと音を立てるのが愛おしい。


 ねえ、どうして? 彼は最近、開発部の市川支部長と妙に親しげな気がする。二人きりで個室に篭ることも多い。


 やめて。私以外の誰かと、楽しげにはなさないで。




終わり

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