廃墟で猫を飼う
@DojoKota
全話
僕は、燃やそうと思った。
何を。
僕の街を。
なぜ。
それが一番、すっきりする、わかりやすい、やり方に思えたから。
僕は、僕の生まれて、育ったこの街を、炎で燃やして、燃やし尽くして、跡形もなく、何も残らない、消し炭にしちゃおうと思った。
だって、いらないんだもん。
僕が幼い時から鬱積させた感情を解きほぐすにはそれが一番わかりやすい方法に思えたんだ。それは残酷な計画ではあった。
けれど、でも、何事にも事情がある。
それに、全てが燃えてしまうのだから、遺恨もなにも、残りようがないはずなんだ。
初めから、何もなかった、何も生まれなかったってこととおんなじなんだ。
ある意味完全無欠の計画だった。
僕の主観ではそうだった。
着火用にライターだって用意したし、灯油だって買い占めた。
すごくお金がかかったんだけれど、お小遣いでなんとかなった。
僕の貯金箱は百円玉でギチギチなんだ。
あとは、計画を実行に移すのみだった。
たしかに、この街全土を燃やし尽くすには、僕一人の力だと、随分と用意に時間がかかったし、実際に燃えて、燃えて、燃えて、燃え尽きるまでに時間もかかるだろう、と思った。
でも、その分燃えるときは暖かいだろうし、気持ちも高まるんだ、きっと、燃える街は僕を嬉しくさせてくれるんだ。
街が燃える、その原理は簡単なのだ。
子供の僕にだって、やってやれないことはない、って思った。
でも、なぜだか、計画の、実行の、直前に、ためらってしまった。
何が感情の襞に潜り込んでしまったんだろう。
心の中が、もやもやとか、ちくちくとか、そういう擬音でしかうまく表現できない混乱した無意識の働きでいっぱいになった。
僕は機能不全に陥った。
僕の心がうまく動かなくなってしまったのだ。
だるまさんが転んだに遊びほうける地蔵菩薩のように。
で、なぜだか、ちょっとだけ涙も出て来た。
燃えて死んでいくみんなのことを哀れだとは一切、思わなかったけれど、でも、なんだか、一人で気持ちが塞ぎ込んでしまった。
僕には、人間の心なんてもうないはずなんだけどな。
僕は、最初っから失敗していて、だから、僕は、人間には成れていないはずなんだけれどな。
一人でしばらく泣いた。
ちょっと、目に埃が入った時みたいに、涙が出て、なんだか、後ろめたいわけでもないのに、誰かにずっと見つめられている気がした、そんなわけないのに。
僕は、僕の、僕が、生まれ、育ったこの街を、なんらかの方法でこの世の中から消してしまいたいのに、実際に布団の中で練りに練った計画を実行に移そうと思うと、なぜだか、もっと、ましな方法があるんじゃないかな、なんて行動をためらう気持ちが、心の片隅に現れて、そうだよな、こんなはずじゃ、ないんだよな、なぜ、こんなはずじゃ、なぜ、なかったんだけどな、なぜ、どうしてなのかな、今ここに、こうして、こんな灯油くさい格好で、僕は、佇んでいて、でも、他にやりようってないしな、ってよくわかんない気分になって、それは、ためらい、というよりも思考停止の上での動作停止って感じで、そんな風に、うだうだしているうちに、日がくれて、何日も何日もただ過ぎ去って、気苦労だけが溜まっていって、はあ、ってため息とともに、僕の体が究極までしぼんでしまって僕の方こそ、この世の中ら消えてしまいそうになって、でも、まあ、そんなのただの心象イメージで、現実には、僕は、僕の体は不動にここにいて、時間だってほんの数分しか経っていなくて、僕の体に、灯油の臭いが染み付くばかりで、うん。
何事も、完全な方がいい。
完璧な方がいい。
完全無欠に憧れる。
僕は、僕の深爪が嫌いだ。
僕は僕の指先が嫌いだ。
不完全な感じがするから。
だから、ってわけでもないけれど、完全無欠に、この街を燃やし尽くしたい、燃やし尽くしたい、燃やし尽くしたい、何も残らないくらい、僕が生まれた痕跡なんてなくなるくらい、燃やし尽くして消し炭にしたい、って思いが固まるまでは、僕はこの街を燃やしちゃいけない、とそう思った。
今でも、十分に、燃やしてしまいたいんだけれども、その気持ちは、僕の心の全力ではなかったんだ。
思いが完璧に形作られたなら、きっと、こんな風に、ためらうこともないだろうだから。
完全に、振り切れてしまえたなら、全てが気持ちよく感じられるはずだ。迷いがないってすごく気持ちが良いはずだ。
気がついたら、体動いていて、気がついたら、燃えていて、気がついたら、燃やしていて、気持ちが追いつく前に、達成感も何にもないまま、街を燃やせるんだろう。
でも、今は、そこまでじゃないのだ。
その時まで、計画の実行は、お預けなのだ。
僕は、街を燃やしたいのに、燃やしたいって気持ちを飲み込んで、僕の足元から伸びる僕の影をじっと見つめて、日時計みたいに、ずっと立ちんぼしていた。
僕は、やめた。当初の計画を頓挫させることにした。
だけど、だから、その代わりに、僕は、雑貨店で、大きな、とても大きな、特大の風呂敷包を買って来た。
僕はその特大の風呂敷で、僕の街を丸ごとその風呂敷包で包み込んで、背負うことにした。
僕は、街を燃やし尽くす代わりに、街の全てを盗んでしまおうと思ったのだ。
僕にはそれができたから。燃やす代わりに盗むくらいはしてもいいんじゃないかなって気持ちはなったから。
僕の良心はたかが窃盗では痛まないんだ。
僕には、そのくらいの熱意はあったんだ。
僕はそれをした。
あっけなかった。
僕はそれをした。
風呂敷を背負いあげた僕は、人間ヤドカリみたいなシルエットになった。
巨大な何かを僕は背負っていた。
街は巨大すぎて、人間の僕は平凡すぎて、そのシルエットは、なんだか、ド派手なアフロヘアのような、発育しすぎたブロッコリーみたいな、なんというか、ぼんきゅぼん、から、最後のぼんを取り除いたみたいな、うまく説明できないけれど、もっこりしてしまった。
街って、風呂敷包に包み込むと、こんなに容積をとるものなんだな、ってびっくりした。
僕と言う小さな点の上に、大きな円が乗っかっていた。
おかげで僕から、太陽が奪われた。
だって、街はそれくらい巨大なのだ。
その巨大な街の巨大な影が僕に覆いかぶさった。
僕の視界から、青空が、綿雲が、夜空が、巨大な風呂敷包に包まれた僕の街によって塗りつぶされた。
巨大な葉っぱの切れ端を運ぶ働き蟻のような有様だった。
ちょっと重かったけれど、僕にはその重みが、充実感につながった。
僕は、この世の中から、僕の街を盗み取ってしまったのだった。
僕は、燃やす代わりに、放火犯の代わりに、窃盗犯になったのだ。
確かに、僕には、勇気がなくて、踏ん切りがつかなくて、踏切の前に佇む人みたいに、ずっと立ち往生しちゃって、僕の街を燃やしてしまうことは、今はまだできないけれど、でも、街の全てを風呂敷包に包み込んで、盗み取る、掠め取る、ということなら、できるのだった。
僕はこそ泥にならなれるのだ。
僕にはそれが、できるのだった。
街があった場所には、もう、何にもなかった。
何にもない。
空白。
真っ白な画用紙みたいに何にもない。
何もなかった。
その真っ白な画用紙の上に、僕が、巨大な風呂敷を背負って、佇んでいる。
それはなんだか、仮装行列というには、本格的過ぎるし、あと、僕一人きりだし。
季節は、春だったから、風呂敷の中の街では、桜の花びらがが舞い散っていた。
だからか、風呂敷包は、うっすらと桜色に透けていて、綺麗だな、と僕は思った。
綺麗なものは盗みたくなるんだ。
憎しみの対象は、燃やしたくなるみたいに。
僕は、僕の生まれ育った街のことを、消えてなくなれ、と思うと同時に、内心、心のどこかで、綺麗だな、と思っていたみたいだ。
こうして、盗みを働いて、みんなから避難されちゃうことを公然とあるいは傲然と実行しちゃった今、僕は、案外、なぜだか、自分の心が、手に取るように、透けて見えるように、わかる気がした。
瞬間的な、疲労からくる、錯覚かもしれないけれど。
僕にはもう生まれ故郷がない。
だって、僕が、この地上から、僕自身で盗んでしまったから。
でも、同時に、僕の街は、今や、僕のものだ。
だって、僕が盗んだんだから。
盗品は存在しないも同じ、と、同時に、盗人の独占物になるんだ。
国を支配する王様と、国を丸ごと盗んだ盗人は、実は、おんなじなんだ。
だけど、盗んでしまったものは、盗まれる前とは、決定的に、変わってしまうのも事実だ。
僕は、乱暴に、無茶に、無理矢理に、僕の街を風呂敷に押し込んだから、だいぶ形も崩れちゃったし、だから、そういう意味でも、もうあの街は存在しない。
なんだか、総じて平面的だったあの街が、今じゃ、毛玉みたいにごちゃごちゃと立体的に絡み合っている。
流石に重たいな、と僕は思った。
ずっと背負いっぱなしだった、町の警察署ごと盗んじゃったんだから、警察に追われる心配もないっていうのに、僕は、街を包んだ風呂敷を背負って、とぼとぼと意味もなく、数歩歩いていた。
意味が完全になかった。
重たい。
重たいだけ。
僕に、僕の街を背負ってどこかたどり着きたい場所があるわけでもないんだ。
街を包んだ風呂敷を路上に、いや、もう、ここには、県道も国道もないのだけれど、だから、まるで真っ白な画用紙のように何にもないこの場所へ、僕の隣へ、風呂敷包を下ろした。
僕はちょっと乱暴者だから、降ろす時、気が抜けちゃって、がちゃんと何かが壊れる音がした。
苦労して手に入れたわけでもない、盗品は、ついつい乱暴に、扱ってしまう。
僕は、自分を少し恥じた。
僕は、僕って全然完全じゃないな、って思った。
完全から程遠いのに、なんでわざわざ生まれてきて、こうして生きているんだろうってちょっと陰鬱な気持ちで思った。
でも、本当は、内心では、構わないのだった。
本質的にどうだっていいんだ。
どうせいつか燃やそうと思っている盗品だ。
僕の心の中には破壊衝動しかないんだ。
一直線に行動に移せない、くすぶった破壊衝動しかないんだ。
僕は一仕事やり終えた気分で、その風呂敷包を背もたれにして、座り込んだ。
桜の花びらの色だ、と思っていたけれど、それは、よくよく考えてみたら違った、だって、桜の花びらみたいに淡い色彩が布ごしに透けて見えるわけがない、そのピンク色は、濡れていた。
人間や人間以外の動物の血が滲み出しているだけなのだった、たぶん、と思った。風呂敷からポタポタと溢れる水滴は、なんだか本能的に忌避感と興奮を呼び起こす血なまぐさい粘度だった。
でも、僕には、血も涙もないから、平気だった。
僕に血も涙も与えてくれなかったのが、僕が生まれて育ったこの街なんだ、仕方ないよ。
だって、当初の予定では、何もかも、燃え尽きるまで、燃やしてしまうつもりだったのだ。
それに比べて、死体が残るだけ、今の僕の所業は、慈悲深いのだ、たぶん、ほんのちょっと、でも、よくわかんない。
僕には、これができた。
だから、やった。
でも、そんな短絡で、良かったのかな、今更ながら、よくわからない。
僕はこれから、何をどうすればいいのだろう、と思った。
僕は、僕の生まれ育った街をめちゃくちゃにしたい、この世界から消してしまいたいって欲望以外に、とりあえず今ここに座り込んでいる、気の抜けた自分を動かす感情がなかった。
そして、その感情さえ、僕を次の行動に促すほどに、強くはなかった。
だって、正直、これで、十分だ。
破壊衝動が街を盗むという行為によってひと段落した今、次にどんな展望のもと何に取り組めばいいのか、僕には、まるで、雲をつかむような話で、まあ、このまま、何もせず、餓死してもいいかな、なんて気分でもあった。
うん。
僕は、やりたかったことをやったんだ。
うん。
それは、たぶん、僕一人にとって話を限れば、良いことなのだ。
僕はやりたいことをやり尽くすために生まれてきたんだ。
だから、うん、これで良かったんだ。
僕は、疲れていたから、しばらく眠った。
というより、気がつけば、もう、何にもしたくなくなっていて、何にもしたくない僕が横たわっていれば、意識だって、途切れてしまって、気がつけば、夢の中だ。
騒々しい夢をみた、気がするけれど、すぐに忘れる。
夢からいつ覚めたのか、僕にはよくわからないけれど、僕の意思とは無関係に目が覚めて、ぼんやりとした半覚醒の視界でぼんやりと眺める。
そこには見覚えのない小さな女の子が、立っていた。
たぶん、十歳も越していないだろう、僕とあまり変わらない背丈。
すぐ、そこ。
僕の目の前。
視線が、あった。
思わず「こんにちは」
「こんにちは」挨拶を交わした。
いつからそこにいたのかわからないけれど、目覚めたばかりの僕と彼女はじっと見つめてしまっていた。
ずっと僕のこと、じっと観察していたみたいだった。
それで、僕が唐突に瞼を開いたから、自然視線があった。
どちらが先に挨拶を口にしたのか、よくわからなかった。
その思わぬ二重音に、なんだか夢のつづきみたいな気持ちがして、僕は、混乱した。
その混乱は、別に、僕らに何一つ影響を及ぼさない些細な混乱だったけれど。
僕らは、お互いにお互いのことびっくりして、僕は彼女みたいな赤の他人がすぐ目の前に存在していることにびっくりして、彼女は多分僕がなんの予感もなく急に目覚めて目を見開いたことにびっくりしていた。
その咄嗟の反応として、こんにちは、なんて至極言い慣れた言葉が口から出ちゃったんだと思う。
別に挨拶を交わして友好を深めたいわけじゃなかった。
僕はただびっくりしていて、彼女も僕の出方を伺うように、黙り込んでしまった。
しばらく、黙り込んでしまった。
しばらくたった。
僕は人殺しだから、間接的な人殺しだから、いや、やっぱり直接敵な人殺しだから、直情的な人殺しだから、なんだか、恥ずかしくなって、もじもじしてしまって、自分で自分のこともじもじしているなんて客観的に表現するのも変な気がするけれど、それはさておき、僕は、妙に照れ臭くて、そっぽを向いてしまった。
今更、生きた人間と仲良くできる身分ではないって気もした、死んでいった人たちが許してくれない気もするんだ。
いや、違う、そうじゃなくって、それはただの言い訳で、生きている人たちが人殺しの僕を許してくれないだけで。
だからなのかな、もう、できることなら誰にも会いたくないし、見つかりたくなかった。
光が、僕を照らさないでくれたら、と思った。
でも、女の子は、確かにそこにいて、僕は困るのだった。
困惑して、心がゆらゆら揺れちゃうのだった。
だから、僕は、彼女のことがどんなに気になっても、僕の方から、話しかけるのは、話題を探るのは、なんだか、おかしい気がした。
ダメなんだ、僕には。
僕は俯いていた。
植物みたいに俯いていた。
僕が行ったことは、常識はずれの犯罪で、僕には常識なんてないんだ、でも、僕にはそれができて、僕はすごいんだ、本当はすごいんだ、なおかつ、それをどうしてもやりたかったからやっちゃっただけで、僕に深い悪意も、執念も、決して曲がらない信念もなくって、かといって後悔しているわけでもないけれど。
僕は、街全土を強盗殺人しちゃったようなもので、多分、二、三千人は死んでいて、老人も子供も死んでいて、殺されていて、死んでいて、だから、きっと、超法規的な処置で、僕の存在は消される、いずれ、やがて、国家的な暴力によって消されてちゃんだ、怖い、怖くない、悪夢のように現実感がないから、あるいは、僕は自分で自分を消してしまうのか、あるいは、僕以外の全ての人間を滅ぼして、僕一人きりが生き残るしか、未来はなさそうで、だから、今更、ほんと、今更、見ず知らずの女の子と日常会話なんて交わしてもなって思って、そんな気分で。
徒労で。
でも、別に疲れているわけでもないんだけれど、気持ちが曇り空で。
別に、疲れているわけじゃ、全然ないんだ。
気持ちさえ高ぶれば、おんなじこと、これから隣街や隣の隣の街やそれこそこの国すべてに対して、この街で行ったことと同じことを行うことも、きっと、やってやれないことはないんだ。
僕は、自分で言うのもなんだけれども、すごいから、うん。
それはさておき、どの未来を選ぶにしたって、牧歌的に、初対面の女の子とお話しできるような存在じゃないんだ、僕は。
そんな理由で、僕はそっぽを向いて、ずっと黙り通してしまった、一方通行の湿った道路に似ている。
一方、彼女が黙り込んでいるのは、きっと、僕とは違う理由で、でも、その理由が僕にはよくわからなくて、だからなおさら、僕から話しかけづらくて、本当は、僕は、誰とでも打ち解けられる陽気な人間なんだけどな、なんて、心の中で言い訳になっていない言い訳をして、本当は、違うんだけどな、って、訂正になっていない訂正をして、僕は彼女の影を眺めている。
本当は、こんなはずじゃ、なかったんだけどな、って、いろいろ、いろいろなこと込みでそう思う。
それこそ、本当は生まれてくるはずも、ここまで育つはずも、なかったんだけれどなって。
僕はひどく人間を嫌ってしまったから、街を一つ、めちゃくちゃにしちゃったくせに、僕は、彼女にちょっと興味があった。
だって、街のみんなは僕のこと嫌ってて、僕を見かけるといつも僕から逃げていたけれど、今僕の目の前にいる女の子は、僕から逃げ出さないで、まあ、ずっと黙り込んでいるんだけれど、でも、それは多分、無口な性格なだけで、僕のこと忌避しているってわけでもなくて、僕から逃げ出さないで、かといって、怯えて身動きが取れないってわけでもなさそうで、どちらかといえば、退屈を持て余して、却って感情が死んじゃったみたいな風で、って、感情が死んじゃったみたいってどういう意味だか、僕自身よくわからないけれど、でも、まあ、そんな感じで。
ともかく、そんなどうしようもない感じで、僕らはしばらく黙り込んでいた。
彼女は随分とぼろっちい埃っぽい衣服を着ていた。
全体的に灰色だった。
灰色の、狼、いや、猫。
灰青色。
そんなイメージ。
あまりしつけの良くなさそうな猫の毛並みみたいに、その衣服は毛羽立っていた。
「ここは、どこ」
って彼女はつぶやいた。
今更ながら、つぶやいた。
でも、そのつぶやきの中身は、今更ながら、なものでもあった。
僕に対して尋ねている、というより、独り言に近い。
だって、もはや彼女は僕のこと見つめておらず、真っ白な画用紙みたいに何にもない、僕が根こそぎ僕の街を盗み取った、いわば、僕の街の跡地を見渡していたから。
彼女はなんだか、僕の存在にはあんまり興味がなさそうで、そりゃそうかもしれない、僕はただの子供なんだから、ただの暴力子供、自分の感情の揺れ動きに夢中なようだった、一人でブランコを漕いでいるみたいに。
ここはもう樹木一本生えていないのだ。
廃墟一つないのだ。
でも、廃墟なんだ。
ただ、まっさらなのだ。
ただ、街から吹きこぼれた埃がうっすらと積もっているだけ。
彼女は、困惑しているんだ。
こんなはずないって、思っているんだ。
わけのわからない場所なんだ、ここは。
こんな場所に迷い込んでしまったなら、誰だって、彼女と同じ疑問を持つと思う。
ところで、僕は、なんの脈絡もなく気がつく。
彼女には、真っ黒な、ぐねぐね動く、毛の生えた、尻尾が一本生えている。
それはやっぱり、猫みたいだ。ひっぱたら、きっと、すごく、豹変するほど怒るんだ、そう思えるくらい生々しいディテールで猫の尻尾。
そんな尻尾が、スカートから、はみ出している。
つまり、猫のしっぽみたいな感じで。なんだか、余分って感じで。
でも、同時に、ぴったりって感じで。そこになくちゃいけないけれど、そこになくてもいいはずなのに、ってまるで、なんだ、えっと、そんな偶然の産物みたいな感じで。
「ここは、私の、生まれ故郷のはずなのだけれどもな」
と、彼女は続けてつぶやいた。
落ち着いた、落し物みたいな声だった。
つぶやいた後で、独り言を言ってしまったことを、僕という赤の他人の犯罪者の男の子供の目の前で、独り言をつぶやいたことに、急に恥ずかしくなったみたいで、俯いた。
僕は、その独り言と、その彼女の反応になんて反応をすればいいのか、そもそも僕に向けられた発話でもなさそうな彼女の台詞に、返事をしていいものかどうか、迷った。
迷ってしまうと、僕は時間の流れに身を任せてしまう、無責任だから、僕は。
だって、僕は、ぐっすり眠ったとはいえ、一仕事終えた後で疲れていたし、そもそも寝起きだから、頭も良く動いていないし、そもそも、よくよく考えてみれば、誰とでも打ち解けられるなんていったけれど、やはり、人付き合いなんて最初からそんな好きな方じゃないし、友達だっていないくらいだし、人付き合いが好きだったら、こんなたくさん人が死んじゃうことしないだろうし、と言い訳ならいくらでも思いつくくらいなのだ。
僕が相変わらず黙っていると、彼女は、何かの説明みたいに、あるいは、彼女も彼女で何かの言い訳みたいに、あるいは、それはただの、ただのって言い方も変だけれども、ただの呪文みたいに、
「私は、十年ぶりに、生まれた故郷に、もどってきたのだけれどな」
って呟くのだった。
追加の説明。
僕の反応を促すみたいに。
そして、一応の説明がこれで終わった、とでもいうかのように、何にもない、真っ白な画用紙みたいな地面の上に、座り込むのだった。
墨汁の一滴みたいに、彼女の色が存在感を放つ、蛍光色ってわけじゃないんだけど。
柔らかいクッションもないから、座りにくいだろうに、地面にぺたんと、でも、かといって、ずっと立ちっぱなしっていうのも、ただただ疲れちゃうだけだし。
十年ぶりの帰郷、ということは、若く見えて、十歳にもみたいないような子供のように見えて、彼女は、僕と同じ子供じゃなくって、彼女は、そこそこ大人なのかな、と、十代にも満たない、子供の僕は思った。
経験の浅い僕は、他人の、しかも、赤の他人の、実年齢なんて押して測れない。
だって、赤の他人は、なぜか知らないけれど、年齢というものを、巧妙にずさんに、他人から隠したがるから。
僕は子供なんだ。
経験不足の子供なんだ。
僕は大人にはならない。
大人にはなれない。
大人にはなりたくない。
僕は欠けている。
何がかとてもたくさん欠けている。
だって、僕はもう、大量殺人者なのだ。
今更大人になんてなれない。
子供だから何をしてもいいってわけじゃないけれど、僕はずっと子供。
子供だったから、自分と同じくらい子供じみた女の子に、一方的に親近感を感じていたのだけれど、でも、それは、ただ、彼女の背が小さいってだけの話で、彼女が僕と同じで小さな存在だってだけの話で、もしかしたら、彼女が大人側の人間かもしれないって思うと、なんだか、寝起きで頭がぼんやりしていることも手伝って、ふてくされた気持ちになった。
裏切られたんじゃなくて、不注意に、蹴躓いたって感じ。
頭の悪い人間には、僕の感情は読み解けない。
「僕が」
と言った。
僕が言った。
「ここは、僕がめちゃくちゃにした場所。もともとは、もっと、少しは、まともな場所」
今は、まともじゃないけれど。
「そうなんだ」
平坦な声で彼女は言う。
他人に感情を揺さぶらない人の声。
自分の殻に閉じこもっている人の声ではなくて、なにか、何かが、視点があっていない人の声。
彼女はさして悲しくもなさそうに、というか、そもそも感情というものがあまりないみたいに、そっけない、落ち葉みたいだ、ゆれて、風まかせに、落ちて、飛ばされる、落ち葉みたいだ、カサカサに乾いた、でも、なんだかよくわからない、感情とは違う感動に見舞われているみたいだ、目を大きく見開いている。
そして、あたりをじっと、首をゆっくりと回して、見渡している。
見ることによって、何かが、何かが動く。
目に見えない何かが、ごとり、と動く、変な感じがする。
あと一日早く、帰郷していればよかったんだ。
そう、僕の心か、彼女の心かが、どちらかが、思う。
そしたら、彼女は生まれ故郷にたどり着くことができたのにな。
悲しくないけど、残念だ。
でも、もしそうだとしたら、彼女は、今頃、僕の血塗れの大風呂敷の中だけれども。
それは、残念じゃないけれど、少し悲しいことなのかもしれない。
何事も実情を知らなければ、後悔なんて生まれない。
ただ、薄らぼんやりと悲しかったり幸せだったりするだけで。
提灯の明かりの中夜道を歩くみたいな感じで、ゆらゆらと揺れる影が、靄のように視界を覆う。
幸運なのか不運なのかよくわからなかった。
めちゃくちゃにしたなら、めちゃくちゃにしたものは元には戻らない。
砂時計とは違うのだ。
ひっくり返したって、どうにもならない。
彼女のちょうどすぐ隣には冷蔵庫がひとつぽつんと取り残されるようにあった。
親近感のわく個物の孤独。
仮託。
実は、僕が、僕の街を風呂敷に包む前に、とりあえず、当座の食事用にと、当座の食料の保管先に、と、まあ、電源は繋がっていないのだけれども、だから、ただの、少量を詰め込む容器として、生ぬるい容器として、街から切り離して、ここに、こうして、置いていたのだ、冷蔵庫を一つだけ。
冷蔵庫からは溶け出した氷が、汗のように染み出している。
背面の昆虫じみた配線からも汗のように水滴が滴っている。
僕はそのさびしげな冷蔵庫を開けて、昨日、母が作り置きしてくれていた、サンドイッチを取り出した。
今日は、日曜日のはずだった。
日曜日のお昼ご飯のはずだった。
何もない真っ白な画用紙みたいな場所に、僕と、彼女と、家庭用冷蔵庫が、それぞれ一つずつ。一つずつ。
サンドイッチは家族三人前。
母はもう、いない。
父も、もういない。
死んじゃっている。
だって、僕に命乞いしなかったから、死んじゃってる。
そもそも、僕の行動がいまいち理解できずに、たぶん、命乞いという発想なんて彼らに浮かぶ暇もなかったのかもしれないけれど。
でも、僕としては、彼らに十分の猶予を与えるだけ、ゆっくりとじっくりと僕の仕事に取り掛かったつもりだったけれど、その気になれば、彼らは、僕の街から、僕だけを置いて、逃げだせたはずだから、どうして逃げなかったんだろう、不思議だ、襖だ、間仕切りだ。
そんなことどうでもよくって、食事中。
僕はお腹が減っている。
でも、仕方ないから、彼女に半分渡した。
サンドイッチを半分渡した。
僕の手は少しだけ、血で、汚れていたから、イチゴジャムみたいに、サンドイッチも少しだけ、角のところが、赤く染まった。日の丸みたいに、赤く染まった。
食べないでもいいよ、赤いところは、変な味、するから、って小声で伝えた。
食べ物を、自分で独り占めするほど、僕は意地汚くないんだ。
家族三人用に作られたサンドイッチはいくら一仕事を終えた後とはいえ、子供の僕一人の胃袋には収まりそうにはないのだった。
父は過食症で、母は拒食症。
そんな一家のサンドイッチ。
そんなわけもあって、多分、長旅でお腹が減っているだろう彼女に半分だけ、サンドイッチを分け与えた。
彼女は喜ぶでもなく、気まずげでもなく、なんの感情も見せずに、僕に与えられたサンドイッチを手に取ると、なんの感情もこもっていない声でお礼を言うのだった。
「ありがとう」
「別に、いいよ」
「うん」
僕はすぐに顔を背ける。
僕はたくさん人を殺したばかりなのに、お礼を言われて、反射的に少し嬉しかった。
砂漠にミラーボールって感じだった。
どういう感じだろう。
わからないけれど、キラキラ、と、光が、反射する。
砂とミラーボールの間を濃厚に光が行き来する。
心にやましい気持ちがあるときに嬉しいことがあると、なんだかそれは恥ずかしい時の気持ちに似て居心地が悪い。
でも、嬉しいものは嬉しい。
恥ずかしくて、嬉しい、身をよじるってこういうこと。
もじもじとしてしまう。
「私は、あまり、こういうパサパサしたものは好きじゃないんだけどな」
と彼女は呟いた。
あまりに感情を押さえつけているような喋り方だから、うめき声のようにも聞こえた。
あるいは、練りわさびのチューブから練りわさびをひねり出す時みたいな、そんなツンと鼻を刺す感情。
でも、こんなタイミングで呻くわけもないか。
彼女はそう呟いた後で、
「私は、思ったことをだいたい全て、過不足なく言葉にして、発話しないと、私の心の中が溢れかえって、もやもやして、まるで、火事みたいに、私の心の中が火事みたいに、見えない煙で充満して、大変なんだ、大変なの、大変なのね、首を真綿で締められているみたいに、ずっと、私が、私が、私が、膨張して、ね、うん、ね、パンッと弾けてしまいそうになるの、そういう人なのよ、生まれた時からずっと。だから、うん、他意はないけれど」
それから一拍だけ言葉を飲み込むように黙り込んで、やっぱり、言おうと決めたみたいに口を開いて、あるいは、濁流のように
「飲み物も欲しい」
って言った、ダムから溢れ出す濁流のように。
「お願いします」
そう尻尾みたいに彼女は言葉を付け加えた。
どうせ電源から切り離された冷蔵庫だから、放っておいても、どんどん腐っていくだけだから、だから、まあ、せいぜい、三日くらいしか保てない食料だから、
「好きにすればいいよ。勝手に飲めばいいよ」
と僕は言った。
僕は今更のように、人をたくさん殺しちゃった後だって言うのに、少し、優しい気持ちなれた。
鯉のぼりのように、悠々と、僕の口中へ、僕の体の中へ、心地よい風が大量に、流れ込んで、吹きさらされているみたいな感じがした。
僕は鯉のぼりでもリコーダーでもないんだけどな。
少し彼女と仲良くなった気もした。
会話らしい会話を交わせた気がした。
未開封のトランプがシャッフルされたような気がした。
嬉しいような、恥ずかしいような気がした。
熱湯と冷水が混ざり合う気がした。
居心地が悪かった。
と、同時に、ずっと正座を続けた後のように、ぴりぴりと下半身が痺れていた。
こうして誰かと食事ができるなら、街を一つ滅ぼした甲斐があったかな、って思った。
気恥ずかしくて、居心地はとても悪いけれど。
ティータイムのために、街なんて、滅んでもよかった、ちんけな、ちっぽけな、ゴミのような、僕らは、ゴミのような存在だったのかな、って、僕らの街なんて、ただのゴミ。
でも、反対に、こうして誰かと一緒に食事をできるくせに、街一つ滅ぼしちゃうなんて、僕には一貫性がないなって思った。
一貫性なんてなくたっていいんだけれど。街だって、なくたっていいんだけれど。
誰かと一対一で話したり食事をしたりするためには、街は、ちょっと、僕には、大きすぎて窮屈なのかもしれなかった。
もっと、こぢんまりした世界に、生まれ落ちて、多くの存在に祝福されながら、健やかに、悪意なく、なにげなく、生きていきたかったのかもしれない。
わからない。今更わからない。
過去は仮定できない。
もう、済んだことだ。
忘れるには大きすぎることは、忘れたふりのパントマイムで、後退するしかない。
「でも、飲み物を入れる容器がない。茶碗みたいな」
って彼女が言って、食器棚は、街の全部と一緒に風呂敷包の中だ。
「直接口をつけて飲めばいいだろ」
って僕が応えて、
「じゃあ、そうする」
と彼女は素直に、僕の提案を飲み込む、牛乳も、飲み込む、そんなに勢いはつけずに、ちびりちびりと、でも、なかなか終わらない、細く長く、彼女は牛乳を飲む。
そもそもここには僕と彼女しかいないのだ。
だから、二人が合意すればそれで終わり。
冷蔵庫の中には、牛乳パックと、麦茶を入れたペットボトルがあって、彼女は牛乳パックを選んだ。未開封のそれだから、中身がいっぱいで、案の定、彼女の口からは需要と供給が釣り合わない、支流が溢れてこぼれて落ちてしまうけれど、僕は、僕の母と違って、そう言う不潔なこと、そもそも不潔だと思わない、気にしない。まあ、乾いた牛乳は変な匂いがしちゃうけど。
彼女はげほげほと咳き込む。
けれど、生理的欲求は満たされたようで、半分以上残った牛乳パックを僕に手渡してくる。
僕も喉が渇いているって、彼女は知っていたみたいに、あるいは、自分で冷蔵庫に片付けるのがものぐさいのか。
僕も牛乳パックに口をつける。
やっぱりパックから直接飲むのは難しくて、ちょっとむせたし、かなり首回りを濡らしてしまう、汗をすごくかいていたから、寝汗と就寝前の大規模な運動で、ずいぶんと汗を貯めていたから、汗の匂いと牛乳の匂いが混ざり合って、僕はちょっと閉口してしまう。
僕たちは、黙って食事を続ける。
だって、まだ知り合って、二言、三言、言葉を交わしただけの関係だから、何を言っていいかわかんないし、僕は自分から話題を提供できるような、そういう知識も経験も持ち合わせいないし、じゃあ、他にすることもないし、いくら暇だからって、網膜が焼けるまで太陽を見つめているなんて馬鹿げているし、そもそもお腹が減っているし、そもそも曇り空で太陽なんてよく見えないし、それに空には一面に魚が浮かんでいるし、食べ物を掴んで、噛んで、飲み込んで、をただなんの感慨もなく繰り返していると少しずつ気持ちが柔らかくなっていく。
僕たちはただお腹を満たすことだけに、注力する。
そして、時が過ぎる。
時計が全部ぶっ壊れていても、時は過ぎる。
食事を終えお腹が満ちたりる、とちょっとぼんやりした気持ちになって、気がつけば、随分と時が経っている、気がする、わからない。
彼女は相変わらず、立ち去るでもなく、そこにいる。
不思議だな、って思う。
そこってどこのこと。
僕からほんの一メートル離れた場所。
もう街がないから何を基準に場所を特定すればいいかよくわからないんだ。
僕は、街が存在していた時からの方向音痴だし、なおさらよくわからないんだ。
彼女は、立ち去ろうにも、彼女が目指してやってきた故郷が、僕の背後で風呂敷包に包まれているのだ。
僕が、彼女から、彼女が欲しかったものを取り上げちゃったんだ。
僕は、意図せず、女の子をいじめちゃっている、彼女のことが先天的に好きってわけでもないのに。
今更、彼女に与えても、もうこの街は壊れているから、彼女の満足にはならないだろう。
彼女にしてみたら、目的地はここで、でも、ここじゃないのだ。
どうすることもできない。
タチの悪いバグみたいに、ただ、判断停止で、立ち尽くしているしかないってことなのかもしれない。
巣穴から遠く離れた土地に、ひょんなことで連れされた昆虫みたいな感じ。
わかんない。
だって、彼女は昆虫というには外見が柔らかすぎる。
幼稚園児の塗り絵のように、彼女の輪郭からは、彼女の色彩が、彼女の印象が、はみ出している、それが僕には柔らかさって感じで、感じられる。
「これはどういうことなのかなあ」
とのんびりした口調で彼女が言った。
彼女は一切物怖じしていない。
僕と彼女が出会ってから、彼女は一切困惑した様子を見せていない。
なんだか、まるで、せいぜいバスの運行が遅れてバス停で待ちぼうけを食らっている程度の体なのだ。
不思議だ。
生まれ故郷が僕によってゴミみたいに扱われているって言うのに、怒りもしなければ、悲しみもしない、驚きもしない、笑いもしない、きっと、見た目に似合わず色々なことを体験して来たんだ、だから、今更こんなことごときじゃ驚かないんだ、たぶん、勝手な予測、他人の人生なんてわかるわけないけれど。
僕だって、色々な体験をこれまでして来た。
だからこそ、街を燃やしたくなったし、結果、街をこの世界から盗み出して、この世界からなかったことにしようと思った、街をこの世界から盗みだすことによって、この世界を引き算で変えようと思った。
けれど、彼女みたいに、感情が平坦にはなれなかった、僕は、色々な物事を経験するにつれて、どんどん自分の感情に飲み込まれていった、激情家になっていった、僕だって、感情を捨てて、その辺に脱ぎ散らかしてみたかった。
勝手に僕は彼女を羨ましいと思った。
「どう思う?」
僕は探るように尋ねてみた。
彼女が僕に尋ねているのに、僕はそれには答えず彼女の気持ちを探ろうとした。
「もう、僕らの故郷はここにはないんだ。だって、えっと、まあ、僕がめちゃくちゃにしちゃったから。あなたは、この現実をどう思うの?わかんないな、全然推測がつかない、僕には人の心がよくわからないから。でも、うん、えっと、僕は、できることなら、あまり、怒ってほしくはないんだ。だって、怒られるの苦手だもん。怒られると、わけがわからなくなる。頭の中がまっしろ。大切なものが大切じゃない気がして、大切じゃないものが、大切な気がして、いろいろなことが、こんがらがって、地震でもないのに、防空壕に隠れたくなっちゃう。よくわかんない。それに、僕には、悪いことをした自覚がないんだ。目隠しして、スイカ割りした時みたいに、悪いことした自覚がないんだ。だから、うん。やりたくなったから、やっちゃっただけなんだ。やりたくなったことが、やれちゃっただけなんだ。僕に悪気はないよ。なんにもない。僕は手ぶらなんだ。でも、どうせ、僕のことよくわからない連中が、やがて僕を裁きにくるんだ。あるいは、僕を虫みたいに押しつぶしに来るんだ。早く逃げないと。うん。ここにいたらいけない人間なんだ、僕は。早く、この場を立ち去らないと。僕は捕まっちゃう。そして、たぶん、僕の気持ちとか関係なしに、僕は、とても嫌な目にあわされる。いつもそうなんだ」
なんだか、だらだらと長々と、それこそ独り言みたいに、つぶやいちゃった。
仕方ない。
出ちゃうものは出ちゃうのだ。
僕の口から、とめどなく出ちゃうんだ。
さっき食べたばかりだし。
飲み込んでばかりはいられない。
吐き出さないと、体重が増えてしまう。
僕の中に住まっている様々な感情が、出口を求めて、いつもいつも、僕の中で渦巻いているんだ。
誰かに聞いてもらう機会をずっと伺っていたんだ。
でも、彼女は、ほとんど赤の他人だ。ほとんど赤の他人に、こんなこと話したって、どうせ、あやふやにしか聞いてもらえない。
だって、事情も文脈も何も彼女にはわからないだから。
なんで僕、赤の他人の彼女に向かって、こんな長広舌披露しちゃったんだろう。
なんだか、目を固くつむりたくなったから、そうした。頭を抱えたくなったから、そうした。
だから、彼女がどんな表情をしているのか、僕には窺い知れなかった。
なんだってよかった。
どうせ、僕のこと無視して、どこか遠くへ行っちゃうんだ。
そして僕は、僕が盗んだ僕の街のそばで、気がすむまでうずくまっているんだろう。
でも、次に、僕は何をすればいいんだろう。
ずっとうずくまっていても、石にはなれない。
握りこぶしは肉のまま。
僕は人間が好きじゃない。
「私は」
と彼女は言うのだった。
「話せば少しだけ、長くなるんだけれども、でも、まあ、どうせ時間なら、それなりに残されているんだけれど、長くなるって言ったってたかが知れているんだけれど、えっとね、うん、私には、もう、人間らしい感情は、あまり残っていなんだ。だから、なんて言えばいいのかなあ。あ、そう、うん、って感じかなあ。あるいは、うん、あ、そう。どっちでも同じ、ってわけじゃないけれど、それは、感情の機微ってほど繊細な話じゃない、些細な話。方角みたいな感じ。北と南が違うみたいに、あ、そう、うん。と、うん、あ、そう、は違うよね。順番が、組み合わせが、方角みたいに違うよね。まあ、それはさておき、何事に対しても、どんな大それたことに対しても、それが人間のしでかしたことならば、あ、そう、うん、とか、うん、あ、そう、としか、私の心は動かないんだ。私の心は巨大な岩石。というのも、えっと、そのね、私は、猫なんだ。猫。うん。猫。猫。猫はね、人間の心は、よくわからないんだよ」
よくわかんなくて、僕には、彼女のその説明が、かなり唐突だったし、脈絡ってものがよく読めなかったし、そもそも僕は頭が悪いから、よくわからなかったし。
だから、
「よくわからない」
って答える。
彼女は、ふふん、って笑う。
それから言葉に続きを与える。
地続きの言葉を。
僕はその言葉に身をまかせる。僕は彼女の言葉を文字通り信じる。
「私は十年前まで、かつてここにあった街で人間として暮らしていたのだけれども、ちょうど十年くらい前、猫になって、猫になったんだ、この街を飛び出したの。にゃあ、とその時、鳴いたな、猫としてのうぶ声を上げたな。獣にうぶ声なんてないのかな。わかんない。孕んだことないから。その時私は十歳だった。十歳って線香花火。線香花火?うん?自分でもよくわからないこと口走ってしまう。まあ、いいや。でも、十歳の女の子が家出をするには、猫になるしかないんだ。なぜならば、だって、人間の十歳はとてもとても子供だけれど、猫の十歳は、老練って言ってもいいくらいの年齢で、つまり、年寄りの一歩手前で、年寄りの一歩手前ゆえに、いつ死んだって、我ながら後悔ないし、経験なら誰にも負けないし、だからね、なんだってできるんだ。特攻みたいな感じで。熟慮の末の蛮行を行える。ちょっと年寄りすぎるきらいはあるけれど、十年生きた猫は、この世界のほとんど全てを知り尽くしているんだ。心の中になんでも書いてある地球儀を持っているんだ。魔法使いの水晶玉みたいな猫。経験が、豊富なんだ。まるで、花束みたいな猫。だから、私は未熟な人間の子供をやめて、老練なベテラン猫へ変化して、それは簡単なことなんだけれど、この街を後にしたの」
「そうなんだ」
僕は頭を抱えるのをやめて、彼女を見つめた。
確かに真正面から凝視してようやくわかったけれど、彼女頬には、猫みたいなヒゲが数本生えている。そもそも、猫みたいな尻尾だって生えていたし。
僕はそれに触りたくなる、ヒゲと尻尾それぞれに。
僕は自分の感情を制御できないから、思わず手を伸ばして触ろうとしちゃったんだけれども、初めて彼女が不機嫌そうな顔をしたので、手を引っ込めた。
敏感な部分って誰にだってある。べたべた好き勝手に触り弄りたいなら、お地蔵様を相手にしないといけない、あるいは、死体。
彼女は猫だった。
でも、僕のペットじゃない。
だから、僕が犯した人殺しや窃盗の罪を咎めない、超法規的猫。
猫には人間の法律は適用しない。
猫は殺人犯にだって懐くときは懐く。
その代わり猫が嫌がることはしちゃいけない。
猫には猫の法律があるんだ。
猫は、猫そのものが法律なんだ。
「うん、わかった」
って僕は独り言のように呟く。
何がわかったのか、未整理のまま。
「私は化け猫なの。どうして私が猫になって、そうして、こうしてまた、半分だけ人間に戻って生まれ故郷に戻ってこれたのか、それはよくわからない。神様が、私のこと、好きなのか、嫌いなのかも、よくわからない。物理学者じゃないから私。私にはそれができたから、それをやっただけ。別に才能ってわけじゃないよ。にゃあお。今のは猫のあくび。少しだけ眠たいの。才能とかそういうのじゃなくて、なんていうのかな、ただ、自然とそれができたの。砂時計の砂みたいな感じ。まるで爪が伸びるみたいに尻尾が生えた。そして、それをしちゃったの。いけないことだったのかなあ、猫になって、家出するなんて、よくわからないけれど。迷子になるみたいな感じかな。私が子供の頃、まだ親と一緒に暮らしていた頃、私はよく迷子になったけれど、別に、迷子にならないでいようと思ったら全然迷子にならないでいられたの。だって、ずっと、母や姉や父にくっついていればよかったのだから、手のひらが熱くなるくらい、ずっとぎゅっときつく手を繋いで。でも、私は、一人でひとりでに狭い路地や狭い通路へ迷い込むことを好んだの、それができたの。できたから、しちゃった。しちゃったら、私は迷子。私は、迷子になりたかったわけじゃないのに、迷子になれたから、迷子になっちゃってた。多分、それと、同じことなんじゃないかなって思う。猫になるって。そして、こんなことになっちゃうって。私は、人間をやめて猫になることができた。なぜか知らないけれど、何も知らないけれど、だって、猫だから、別に、知らなくったっていいんだけれど、知りたいわけでもないし、知識欲は猫にはいらない、食欲さえあればそれで十分、毛づくろいしていれば一人前、十歳をすぎた年寄りになりかけの猫は特にね。にゃあお。猫になる、他の人が見落とすその可能性を私はごくごく当たり前に見つけることができた。私はいつも、人とは違う考え方をしていて人とは違う答えの見つけ方をするの。なぜだか、わからないけれど、気をてらっているわけでもないのに。そんなふうに、見つけることができちゃって、だから、思わず、そちらへ進んでしまった。本当は引き返した方が良かったんじゃないかなって思った、少し。私は別に、化け猫になりたいわけじゃなかったし。ただ、でも、私は、気がついたら、猫で、猫ゆえに、残りの寿命なんかたかが知れていて、だから、私は、私の街に、私の家に、止まっていたくはなかった。別になんだっていいんだけれど、なんだっていいわけじゃなかった。死。いずれおとずれる、死。その前に、どこかへ。どこかへゆきたかった。風のように流されていたかった。よくわかんないけれど、海が見たくなった。海。連れて行ってもらったことなかったから。違う。記憶にも残らない三歳とか二歳とかそのくらいの時に、私は父母に連れられて海へ行ったことがあるらしいの。でも、記憶にないから。ただ懐かしいだけで、記憶にないから。その失われた記憶を補うために。私は、猫になって、猫になって、海を見に行っていたの老練な猫になって、海へ。死。海へ。死。別に、海が大好きってわけでも、心が焦がれるってわけでもないのに。ただ、幼い時、記憶にも残らない幼い時に、見た光景を自分の中で重ね写しに見てみたいってだけで。うん。私は、おしゃべりだなあ。うん。まあ、うん。
だって、ずっと猫だったからかな。人間の言葉を喋るのも十年ぶりだし、うん。私は無自覚のうちに、私が初めて覚えた言葉を、話すことに、懐かしさを感じているのかな。うん。言葉から匂いがするよ。懐かしい匂い。ごちゃごちゃした懐かしい匂い。雑踏。言葉が雑踏。言葉がザトウクジラ。ザトウクジラみたいに大きな吹き出しいっぱいに私の言葉。漫画の中の私。私には、懐かしいものに、今の自分自身を重ね写しにすること以外に、目的とか、生きがいとか、ないのかも。うん。変なやつ、私。うん」
彼女は訥々喋っていたから、よくわからないけれど、とてもゆっくりと時間が過ぎて行った。
時間の流れがゆっくりになっていた。
砂漠の砂を全て砂時計に詰め込んだみたいに。いや、違う。全然違う。
それはただ、猫の時間だった。
猫の、体感時間が、僕にまで波及しただけなのだろう。
まるでドラえもんのように終わらない永遠の子供時間。
僕は、なんて言えばいいのかな、そろそろ、自分のことも彼女に対して話さなくちゃいけない気がした。
だって、彼女のことは、彼女の台詞によって、正直、何が何やらよくわからないけれど、信じるとか信じないとかじゃなくて、ただわけがわからない与太ごとのように思われるけれど、でも、それでも、彼女についてなんとなくわかることはできて、彼女の言葉に身を任すことはできて、何か大きなものの断片をつなぎ合わせるように、なんとなく、彼女という存在が、なんとなくわかって、でも、僕のことを、彼女はほとんど何も知らないのだ。
うん。
教えなくちゃって思った。
でも、教えるほどのこともないんだけどな。
「どうして」
って僕は言った。
「どうして、戻ってきたの。この場所に」
本当は、こんな場所にって言いたかった。
こんなゴミみたいな場所に。
ゴミ溜めに。
でも、あえて貶める理由が見つからないうちに僕は僕の台詞を言っていた。
「もうそろそろ、私は死ぬから」
「死ぬんだ」
「うん。猫だもん。半分人間だから、多少は、猫にしては長生きかもだけれども、うん、まあ、もうそろそろ潮時なんだよね」
「死ぬから、なんなの」
「お父さんとかお母さんとか、私のことをよく知っているはずの人のそばで、死ぬのが一番かなって。じゃあ、何が二番で、何が三番なのかはよくわからないけれど、でも、そう思って。海を見ていて、砕け散る波しぶきとか浴びながら、ふっと思って」
「どうして」
僕は、ただ訪ねてばかり。
「それは、うーん、わかんないけど。私の人生を補完してくれる気がするからかな。私の死が、彼らの思い出と一体になるんだと思うから、かな。よくわかんない。変な理屈は猫には要らないから。でも、私は何かに繋がりたいって薄ぼんやりと思ってる」
「猫になったら、あなたの気持ちがわかるの」
「そんなことないよ。猫にだって、いろいろな性格のいろいろな思想の猫がいるんだから」
「そっか」
「そうだよ」
「ごめんね」
って今更なのように僕はそっぽを向きながら謝った。
「僕が、僕の街をめちゃくちゃにしちゃったから、あなたの両親は、もう、いないよ、いるにはいるけれど、ひき肉みたいになってる。ひき肉でも両親って言えるのかな。肉は肉だけれども、肉親なんて言えるのかな。なんで、僕、謝っているんだろう。本当は、自分が悪いなんて全然思っていないんだけれど。でも、なんていうか、あなたは、これから、もうじき、死んじゃうわけだし、そういう人の前では、平に謝るのがいい気もするんだ。平気で謝ればいい気がするんだ。平然と。平常運転で。なんの根拠もないけれど。よくわかんないけど。ごめん。ごめんなさい。ごめんうわああああんなさい。わかんないや。どうして人は悪いことをしたら謝るのか、僕にはよくわからない。わからないのはなんだかちょっと雷みたいで怖い。雷ってどうして発生するの。でも、他にどうすればいいのかわからない。ごめん。ごめんなさい。うわあああん。ごめんうわあああんなさい。うん。違う。これでいいのかな。わかんない。こんな風に、謝れば、許してもらえるのかな。わかんない。わかんないけれど。うん。ごめんなさい。うん。でも、僕は、悪くないんだ」
僕は心の中でさらにさらに、言い訳を重ねた。
三面鏡で自分の顔を多角的に見つめているような気分で、心中で、言い訳を重ねた。
「あなたは何をしたの」
彼女が確認するみたいに、自分の足元を確認するみたいに尋ねる。
彼女は猫だから、台詞のたびに、発話のたびに、尻尾が揺れる。
風もないのに揺れる。
風もない、じっとりと湿った感じは、全身毛皮に覆われている感じと似ている、敏感になっていて、同時に、何かが溢れそうで。
星が死ぬときみたいに。
星が死んで流れ星が生まれるときみたいに。
「街をめちゃくちゃにした」
「それだけ?」
「うん」
「だから、ここには、もう私の生まれ故郷はないのか」
「うん」
「そっか」
「うん」
「まあ、そういうこともあるのかな。うん。だって、ほら、私がここを去って十年になるんだし。十年前のままでいてよっていうのは、私の側の勝手な憶測および、私の勝手なわがままって言えばわがままだよね。うん。まあ、別に、構わないよ。だって、別にさ、私のものってわけでもないんだし。ただ、街があって、父と母がその街に暮らしていて、その父と母の間に私が生まれて、別に生まれたかったわけでもないけれど、生まれて、育って、別に育ちたかったわけでもないけれど、すくすく大きくなって、それで、ふっと猫になろうって思って、猫になって、出て行っただけなんだから。別に、ここにかつてあったその街は、私の街でもあるけれど、ただ私にゆかりのある場所に過ぎなくて、まるで髪の毛や爪のように、私であって、私そのものではない、私の外側を取り巻く、外装みたいなものに過ぎなくて。パッケージで。抜け殻ってことだね、つまり。貝殻ってことじゃない。私のものってわけじゃないんだから。うん。まあ、それに、私だって、ひどいことたくさんしてきたしね。泥棒とか。そのほかにもたくさん。猫が生きて行くためには暗黒面が必要なんだ。誰かがしでかしたひどいことを責められるような猫じゃないよ。猫には法律は適用されない。陪審員裁判の陪審員にさえなれないんだ。私は。宝くじだって買えない。うん。だから、まあ、うん。そんな心にもない謝罪で謝らなくてもさ」
「うん」
「ごめんなさい」
彼女はにっこりと微笑んで、ごめんなさい、と言った。
僕もそれを見習って
「ごめんなさい」
って言いながら、笑った。
「うん」って彼女が言った。
「うん」って僕も言う。
彼女は随分とおしゃべりで、僕のもやもやとした気持ちが言葉になるよりも早く、僕のもやもやとした気持ちを取り囲むように、彼女の言葉が彼女の口から溢れてくるのだった。
彼女の台詞には、別に、なんの深みもない。
なんの深慮もないけれど、ほとんど意味を通さないような台詞でもあるけれど、とにかく、言葉が溢れて、ラジオでも聞いているみたいに、僕はぼんやりしてしまうのだった。
音の洪水、ってわけじゃなくて、壊れた蛇口からいつまでもこぼれ落ちる水滴みたいに、訥々と彼女は喋るのだった。
喋るのをやめると、バランスを崩してしまうみたいだった。
今の彼女は、酸素の代わりに言葉を吸ったり吐いたりしているのかも知れなかった。
彼女はもうすぐ死ぬっていうのに、随分と落ち着いている。
僕にはよくわからない。
死ぬって、ただただ怖いことのはずなのに、あの世はきっとお化け屋敷みたいに怖いはずなのに、けど、いざ死ぬとなれば、自分にはどうすることもできないから、ただ、ぼんやりとした気持ちで、何事も受け入れるしかないのかも知れないけれど、あるいは彼女は猫だから、特別死を恐れないだけかもしれないけれど、わからないけれど。
よくわからない。
正直、まだ、わかりたくない。
僕は、まだ子供なんだから。
ずっと子供なんだから。
「あと、どれくらいで死んじゃうの」
「わかんない。わかるわけない」
「それもそうだよね」
「でも、とても、疲れているよ。疲れと、心地よい感じが交互に襲ってくるの。眠くてびりびり。にゃあお。交響曲みたいに、時折、シンバルみたいにバシンバシンって。うん。刺激的で疲れている」
「じゃあ、座ればいいのに。あるいは、横になればいいのに」
座る場所もないくせに、僕はそんなことを言う。
「うん」
彼女は、なにもない地べたに座り込む。
それは体育座り。
なんだか、少し、僕と彼女の距離が近づいた気がする。
気のせい。
目線があっただけ。
「死ぬ前にしたいことってあるの」
「わかんない。よくわかんない。けど、まあ、一人はいやかな。猫のくせに、私は寂しがり屋なのかな」
大量殺戮者の僕は、ほんとうは、この場を迅速に立ち去るべきなのだけれども、あまりにたくさんの人間を殺し過ぎちゃったからか、なんだか、逃げることが面倒でもあって、彼女が死んじゃうまで、しばらくの間、そのしばらくってのが何日なのか何週間なのかもわからないくせに、ここにいようと思った。
どうせ、僕の街にあった警察署は、警察官ごと風呂敷の中なのだ。
隣街の人々が、僕の蛮行に気づき、警察なり自衛隊なりが、組織され僕を捕縛しにやってくるまで、まあ、それなりの時間はかかるだろう。
もし、思いの外、早く、僕に追っ手がやってきたなら、風呂敷に包んだ街など置き去りにして、彼女だけ背負って逃げ出せばいいんだ。
僕には、誰よりも早く逃げることだってできるんだ。
できるんだ。
だって、街を丸ごと一つ盗めるくらいなのだから。
僕は、多分、やろうと思えば、地球の裏側まで逃げることだって可能なんだ、たぶん、やったことがないから、ちょっと我ながら半信半疑ではあるけれど。
でも、よくよく考えてみれば、彼女を背負って逃げる必要はどこにもないんだ。
彼女はただ、一人が嫌なだけで、彼女のそばにいるのが、僕である必要はないんだから。
僕を捕まえにきた警察や自衛隊の部隊が彼女をすみやかに保護すれば、それで済む話だった。
でも、所詮彼女は猫だから、有事の際には、置き去りにされて、誰にも顧みられないかもしれないけれど。
僕はなんだか、彼女にとても興味が湧いていて、だから、聞きたいことがたくさんあるきがした。
聞きたいことがある、というより、彼女には僕には知りようもなかった色々な知識が隠されている気がした。
とどのつまり、僕は僕の知識欲を充したくて、彼女から離れるのが嫌だった。
「猫って、実際のところ、大体が寂しがり屋だよ」
僕は良く知りもしないくせに、そう決めつける。
だって、寂しくない生き物なんていないと思ったから。
占い師みたいに、常識的で、当たり前なことをわざわざ断言する。
でも、やっぱり、自信がないから「たぶん、そう思う」なんて蛇足を付け加える。
「そっか。そういうものか。そういうものならそういうことか」
などというぐるぐるその場を回り続けるような台詞を彼女は言う。
多分溜まっていた疲れが表出しつつあるんだ。
彼女の整っていた輪郭線が、これから印象派絵画のように滲んでいくんだ。
彼女は全力であくびするときのように大きく口を開いて、それで、台詞だけ吐き出す。
「私は、猫のくせに、十歳で猫になったくせに、猫とか飼ったことないし、他の猫と仲良くなったこともないから、よくわからないや。でも、寂しくて、寂しいから、誰でもいい気分だ。ほんと、誰でもいいんだ。それこそ、言葉さえ通じるなら、石ころでもいいよ」
「僕でも」
「うん。そう。こだわりがわかない」
「誰でもいいって何が、どう言う意味で」
「自分以外の言葉が聞きたい。一人旅をしていると、一人で暮らしていると、ずっと、自分で自分の独り言を聞いて過ごしているようなものだから、他人の言葉を聞くと、すこし、気持ちが緩む。ずっと、自分。自分。自分。自分。なんというか、ガラスか鏡のように、薄い層が積み重なっていて、それが、それらが、前提されているそれらが、ぱりん、と割れる感じ」
「よくわからない」
僕はこれまで一人じゃなくて、みんなと街のみんなと暮らしていて、これから一人になる身だから、ひとりぼっちになるっていうことがどういうことかよくわからない。
穴を掘って、その中にずっとうずくまっている感じだろうか。
僕はひとりぼっちになりたかったから、みんなをやっつけたんだ。
やっつけたんだ。
逆説的にいえば、それは、みんなをやっつけなくちゃ、僕は到底ひとりぼっちになれなかったってこと。
でも、まあ、ひとりぼっちになってすぐ、こうして彼女と二人で、あるいは、一人と一匹で、会話を重ねているわけだけれども。
僕は、街をめちゃくちゃにしてから彼女と出会うまでのほんのひと時、マッチ一本が燃え尽きるくらいの短い時間、ひとりぼっちだった。
その時は、達成感と虚脱感と静寂が僕の胸を満たしていた。
それだけだった。
炎のように、風に揺られていられた。
風が吹けば、ただ、風に揺られていられた。
何者にも縛られず空を飛んでいる気分だった。
あるいは、はるか上空から自由落下をしている気分。
どちらにしたところで、自分のこと外側から眺められる気がする、一人の時なら。
僕の感覚と彼女の感覚は多分だいぶずれているのだろう。
なにせ、違う人間なんだ、いや、種族が違う。
「自分一人きりっていうのは、ずっと、自分の上に自分を上乗せしていく感じがする。仮説の上に仮説の上に仮説の上に仮設住宅を重ねて論議している感じ。想像に想像を重ねて何か得体の知れない未知な領域を模索している感じ。TRPGって感じ。それはそれで、悪くないけれど、そのうずたかく積み重ねられた自分は、バベルの塔って感じで、変な電波を時折、電波塔みたいにキャッチするけれど、でもなんだか、すごく、他人とか他の動物から疎外されてしまっている感じがした。一人で、見知らぬ土地を、自分だけの理由でさまよっていると、なんだか賽の河原でバベルの塔を再建しているイメージ、バベルの塔の頂上で一人途方に暮れているイメージ。我ながら、よくわかんない。だって、私は猫だもの。人間とは感覚が違うんだろうな。魚肉ソーセージがすごく好き。ステーキより好き。でも、猫は正直者だから、嘘はつかない。あるいは、私は正直者だから、嘘はつかない。あるいは、私は」
彼女がまた、彼女の台詞を空転させ始める。
何が言いたいのかわからないまま、判断できないまま、穴の開いた浮き輪のように、それでも自動的に発話しないと、気持ちまでしぼんでしまいそうで、だから、手の届く範囲に散らばった言葉をやみくもに呟いているみたいだった。
ゆっくりと深く息を吐き続けるみたいに、脱力しきった彼女が、尻すぼみの台詞を吐き出す。
「ところで」
と彼女が言った。
僕ではなく、巨大な風呂敷包を見つめている。
「今更なんだけれども、これは何。私の生まれ故郷がなくなって、こんな得体の知れないオブジェが、あなたと一緒に存在している。かすかに私が生まれた街の匂いがする、だから、なんとなく予想はついているけれど、でも、これは、何。嘘くさい。なんだか、嘘で塗り固められた存在って感じがする。血の匂いもする」
「言いたくないんだけれど」
と僕はいうけれど、
「なら、言わなくていいんだけれど」
と彼女は僕の言い草の真似をする。
「褒めてくれるなら言う、けれど、褒めてくれないなら、言わない」
「褒める」
彼女は動物的に即答する。
「すごいね、って感心してくれるなら、言う」
「それは、事前に、すごいねっていえばいいの、それとも、あなたの話を聞いたあとで、すごいねって感嘆すればいいの、それとも、合いの手のように、すごいね、すごいねを連発すればいいの。まるで、ハイハイの途中の赤ちゃんに声援をかける時みたいに。別に、どれでも、私は構わないよ。だって、私の言葉は安いから。安いからといって品質が劣る、というつもりもないけれど。他人のことをすごいねって思えることは、気分が爽快で、心地よいことだから」
「全部」
僕は頭の中が真っ白になってしまう。
「すごいね」
って彼女は言う。
「うん」
僕は俯いてしまった。
僕は僕の影と目があった。
僕の影にはギョロ目が無数についていた。
その目が、僕を多角的に見つめていた。
「僕は、すごいんだ」
「すごいね」
僕は空虚な何かで自分を満たしたいって気持ちがあって、自分の中身がスカスカだなって気持ちがあって、でも、それは僕自身に無数に穴が空いているからで、いくら中身を満たしても、すぐにその満たされた感じも抜け出してしまう気がしていて、じゃあ、肝心なのはそのぽっかり空いた無数の穴をガムテープか何かで塞いでもらうことで、ミイラ男みたいにガムテープでぐるぐる巻きになることで、そんなことしたら肌がかぶれてしまうから、まあ、どうしようもないのだった。
僕が少しの間黙っていると、「すごいね」って彼女が鳥のさえずりのように言った。
彼女はなんだかご機嫌だった。
彼女は、どんな無意味な台詞であっても、喋っていられるなら、それで良いようだった。
間が保たれたら、それでいいらしかった。
間。
死期が近づくと、そういう、中身にあまりこだわらない、安定した気持ちに落ち着くのだろうか。
ただ、人間らしい、猫らしい振る舞いをしていることで満ち足りた気持ちになるんだろうか。
わかんない。
勝手な僕の推測と願望だもの。
「僕が」
って僕は言った。
「僕が、この街を壊したんだ」
「うん、それは知ってる。なんとなく、わかってる」
彼女はすごいね、と言ってくれないのだった。
代わりに、「でも、改めて考えれば、それはとてもびっくりだ」と言った。
「うん、それはとてもすごいことなんだ。だって、僕はまだ子供なのに、成人の半分の年齢なのに、この街を、壊した、というか、滅ぼした、って言った方がいいくらい、めちゃくちゃに壊しちゃったんだから。原型がない、跡地もない、跡形もないわけではないけれど」
粗大ゴミのように不定形の膨らんだ風呂敷包が、一応町の残骸として残っている。
「うん、うん」
って彼女はカウンセラーみたいに頷く。
猫、死にかけ、カウンセラー。
「言葉を尽くして説明するほどのことでもないけれど、僕のやったことは、ただ、街をめちゃくちゃにしたってだけなんだけれども、それで僕のやったことの説明はほぼほぼ終わりなのだけれども、本当は、当初は、燃やし尽くそうともったんだ、僕が、生まれ育った街を」
「すごいね」
よくわかんないタイミングで彼女が褒めてくれる。
「それはすごいことだと思うよ」
感心してくれる。
僕には、よくわからない。
火に油を注ぐことを、彼女は褒めることだと思っているのかも知れない。
僕の話題が、放火の計画に及んだから、僕の言葉の上での炎に追い風を与えるつもりで、褒めてくれたのかもしれない。
あるいは、僕の話などはなから聞いていないのかもしれない。
でも、その割には、僕の目をじっと見ている。
僕はたじろぎそうになる。
僕には、彼女のことが色々とよくわからない。
「すごいね」
ってまた、彼女が言った。
「でも、結局、僕は、この街を盗むことにした。盗むったって、街全土を粘土みたいにこねくり回して、風呂敷包に押し込むんだ。街を丸ごと一つ、僕の手荷物にしちゃうんだ。それは、大怪獣の襲来より、大震災より激しい。もしかしたら、放火なんかよりさらに救いがないかもしれない。誰も助かりっこないんだ。偶然で生き延びる道さえない。ともかく、この大きな風呂敷包には、僕の手によって、僕の街だったものが詰め込まれている。残骸。血の匂い。というか、肉と血の匂い。僕の家族も詰め込まれている。できるだけコンパクトに、折り重なって。たくさんの家族が詰め込まれている。保存食みたいに隙間なく。あなたの家族も、もし、不慮の事故で、昨日以前に亡くなっていなかったのなら、詰め込まれている。いや、旅行などで、街から離れていたなら、別だけれども」
考えてみれば、たまたま旅行などで街から離れていた人たちが、たまたま今帰ってきて、僕らを発見することもあり得た。
その場合、僕はどう対処したらいいんだろう。
おかえり?
ただいま?
ちょうど目の前の彼女がそういう立場の猫だった。
「ふーん」
と彼女は言った。
それから、すごく眠たそうな顔で微笑んで、「すごいね、すごい」と言った。
いくら、すごいすごい、と言われても、相手の感情はそれだけじゃ推量れなくて、僕の気持ちは満たされそうにない。
連呼する言葉ってすごく軽い。
軽いのに浮き上がれない。
彼女の言葉は十分な浮力を生み出さなくて、僕の心は、浮き上がれない。
同じすごいでも、すごく嬉しい、もあれば、すごく悲しいもあるわけで、今更ながら、いくらすごい、と言われても、言ってもらっても、その言葉からは能面みたいに感情が読み取れなくて、僕はなんだか、不安を感じる。
「僕には、そういうことができたんだ。だから、やっちゃった。後悔はしてない。だって、過ぎたことは仕方ないんだから。母さんが昔言ってた。過ぎたことは仕方がないんだ。時は、巻き戻らない。父さんは失敗ばかりしていた」
「うん、別にそれでいいと思うよ。私は、あなたのこと、別に、いやじゃないから」
日は没しかけていて、あたりは、もう夕暮れで紫と赤に景色が滲んでいる。
薄闇の中で彼女の目がきらきらと光る。
やはり、猫なんだ。
僕は再び眠たくなる。
肌寒くもある。
目が少し冴える。
でも、彼女と話していて、それなりに疲れてしまっていた。
だから、やはり、眠たくなる。
僕は、風呂敷包の余っている布をひっぱって伸ばして身にまとった。
小さな子供がカーテン布を春巻きみたいに身に巻きつけるみたいに。
彼女も僕から少し離れた位置で同じことをする。
彼女の場合は餃子の皮って感じ。
僕はくるくる、彼女はばさばさって感じ。
風呂敷を身にまとった結果、血の臭いがより強くする。
でも、別に、嫌な匂いってわけでもない。
だって、まだ、腐り始めてもいない。
それにしても、こんなやがて腐って腐臭のする肉塊とコンクリート片の集積を盗んで、僕は何をしたかったんだろう、と思う。
気持ちを楽にしたかったのだとしても。
ガラクタ。
ただのガラクタ。
何もかもガラクタ。
何も得るところがない。
ただ、後戻りができなくなっただけで、後戻りができないことと前進は全然違うのに。
後悔なんてまるでないけれど、このまま人生が惰性で終わってしまうのは、なんだか勿体無い気がした。
僕はもっと焼け焦げたい。
僕にはやり残したことがたくさんあって、それを見つけなくちゃって思う。
でも、もう、ちょっとだけ離れた場所にいるだけの彼女の顔さえよく見えない。
薄闇。
今はもう夜。
夜は僕みたいな子供の活動する時間じゃない。
「夜だね」って彼女が言って、「うん」って僕が頷く。
「肌寒くなってきたね」って彼女がいうから、「うん」って僕が頷く。
「どうして」って僕は尋ねる。
「どうして、あなたは、僕を責めないの」
「なにを」
「あなたの家族はもうこの世の中にはいない」
「そうだね」
「どうでもいいの」
「そういうわけじゃないけれど」
「それとも僕が鈍感だから、うまく気づけないだけで、あなたは実はとてもとても怒っているの?僕の隣にいながら、怒っているの?」
「どうだろうね」
彼女が目を瞑って、もう彼女の目がきらきら光ることもなくって、あたりは本当に真っ暗闇、さっきまで、彼女の瞳だけが、きらきらと小さな光を放っていたんだ、変な光景だった。
「あなたは、怒っていないの?何をされても、僕が何をしても、怒らないの?」
僕は彼女に無遠慮に手を伸ばしたくなる。
「いくつもの理由が重なっている」
と彼女が言った。
「だって、あなたは何よりも、そもそも、子供だもの。子供相手に本気で怒っても仕方ないでしょ。私は、こうみえて、猫としては、経験豊富な大人なんだから。大人は、子供相手に、本気で感情をあらわにしたりしない。泣いたり、怒ったり、喚いたり、地団駄踏んだりしない。そんな無下なことしない」
それはつまり、心の内側では怒っているってことなのだろうか。
あるいは、子供など取るに足らない存在だから、そんな取るに足らない存在には、心揺さぶられないってことだろうか。
どちらでもありそうで、どちらでもなさそうな気がした。
彼女は僕のこと許してくれているわけではなくて、何か別の論理で、僕のそばにいるのだろうか、って思った。
「他のみんなもそう思ってくれるといいけれど」
と僕は、警察官とか自衛隊とかのことを想像しながら呟いた。
彼らはとても、怖い、顔をしている。
眉間にシワがよっている。
でも、千人以上殺した人間は、子供とか大人とかそういうカテゴリーから完全に外れちゃうだろうな、と思った。
あるいは、人間でさえ、ないかもしれない、彼らの目に映る僕は。
でも、彼女は猫だから、数がうまく数えられないのかもしれない。
人間の死を数字で捉えられないのかもしれない。
「それに」
と彼女が続ける。
「何度も繰り返すようだけれども、どうせ、私はすぐに死ぬんだよ。もうじき、もうじき、もうじき、終わりの時がやってくるんだ、三日後くらいかなあ、わかんないけど、夜の寒さに耐えられるなら、あと三日は生きられるかな、わかんないけど。そんな今際の際に、他人のことなんで、正直どうでもいい。どうでもいいよ。あなたが救世主でも、人殺しでも、天使でも、悪魔でも、私にひどいことをしない限りは、どうでもいい。なんというか、太陽みたいな感じ。全ての生き物が、太陽みたいな感じ。すごく、どうでもよくって、ちょっと、ぽかぽかしている。暖かいような、中途半端な冬の暖かさなような。だから、あなたが何千人、何百人、人を死に追いやっていようが、私には、正直、関心がわかない。だって、私自身、死の淵に追いやられている一匹の猫だから。私がこれから死ぬみたいに、たくさんの人が、あなたの手によって死んでしまった、別に、うん、悲しくはない」
彼女の心の中に悲しみがないってわかって、僕は少し安心する。
悲しんでいないってことは、心の底から怒る理由が彼女にはないってわけで、たぶん、ないってわけで、彼女は僕のこと怒っていないはずで、じゃあ、こうして彼女のそばにいてもいい気がした。
とはいえ、彼女の猫的感性は僕には、いまいちその全貌が掴めないのだけれども。
「うん」
って僕は一旦はうなずいておきながら、言い添える。
「よくわからない。変なの。僕には、納得できない変な理屈」
「納得できないなら、どうなるの」
「考え続ける。不思議だな、ってぼんやりと、考え続けてしまう」
「じゃあ、ずっと考えていればいいじゃない。別に、実害はないんだから」
って彼女がいう。
僕も、それもそうだな、って思う。
彼女はすぐそばにいるのに、彼女の思考回路が、僕にはいまいち掴めないばかりに、僕は眠りにも就かずに考え続ける。
いくつもの根拠薄弱な仮説を思いついて、その上に、彼女の言動を乗せる。積み木遊びみたいに空想の中で、思念と思念を重ね合わせて、巧妙にバランスを取ろうと試みる。僕と彼女とでは、性別が違うから、年齢が違うから、種族が違うから、だから、僕には彼女の思考の筋道がよくわからないのだろうか。
考えてみるけれど、ただの暇つぶしに終わる。よくわからないままだ。
「そして、なによりも、うん、まあ」
って彼女がいう。
「そもそも、ひどいことをしてしまったのは、あなただけじゃないし。まあ、私だって、それなりの、たくさんの命を奪うようなこと、してきたから。金魚すくいとかさ、子供の頃、夏祭りで。他にも、いっぱい。命なんて、安くて、軽くて、私の行動を抑える文鎮にはならない。今更、誰かのこと責める気持ちになれないよ」
「なにをしてきたの」
「思いつきで、衝動的で、壊滅的で、悪いこと」
「よくわからない」
「海を、飲み干したの」
「海を」
「猫になって、海を見に行ったって言ったよね」
「うん」
「海までたどり着いた私は、長旅でとても疲れていて、お腹が減っていて、喉が渇いていて、空腹よりも、さらに喉が渇いていて、そしたら、目の前に、すごくたくさんの、水が、まあ、それが海なんだけれども、広がっていて、誰のものでもない水が、ちょっとしょっぱいけれど、飲もうと思ったら飲めなくはない飲み水が、神様の思し召しなのかわからないけれど、あったの。私は、喉がとても渇いていて、舌なめずりさえできないくらい、口の中がカラカラだった」
「それはとても大変だったね」
って僕は、言う。
僕の言葉が気に入ったみたいに、彼女は「うん」って頷く。
そして続ける。
「だから、海水の全てを飲み干してしまったの。最初は、一口だけ、とりあえず、飲もうと思ったのだけれども、飲み始めたら、止まらなくなっちゃった。掃除機みたいに、すごい勢いで吸引する私の口。喉が破裂しそうなくらい、ごくんごくんごくんごくん、って。顎が外れるかと思った。地球を覆うほぼ全ての塩水を、一週間くらいかけて、飲み干したの。猫一匹が引き起こした天変地異。すごい。私は、すごい。欲望は止められないんだ。だって、喉が、とても渇いていたんだもの。うん。だって、飲めば飲むほど、喉が乾くんだもの。塩水だから」
「そんなことがあなたにできたの」
「うん」
溌剌とした声で彼女が頷く。
「だから、今でも、私のお腹の中には、大量の水が、海水が渦巻いている。私の中で、プランクトンが、赤潮が渦巻いている。私の体の中が、海になっちゃったの。それはちょっとだけ、ドラマティックなこと。私の体内がジオラマ。私の胃袋、という海底。もともと地表に海として広がっていた領域は、今では、ただ、山あり谷ありの陸地。窪地。だって、水分がそもそもないんだもの。私に、飲み干されてしまったのだから。私が死ねば、私の中の海も消えて無くなる。この地上から海ってものが歴史から姿を消す。私はすごいことをしてしまった猫。」
「魚や、鯨や、海豚はどうしたの」
「半分くらいは、私の、胃袋の中。残り半分は、ほら」
と彼女は頭上を指差す。
「大量の魚影が、空を泳いでいる。鰯のの群れが、いわし雲より鮮明に泳いでいる。暗くて、月影ごしじゃよく見えないけれど。海を奪われた彼らは、海の青さから空の青さに住処を変えて、夜空を泳ぐことにしたの。生き物は、その気になれば、なんだってできるの。私だって、驚いたけれど、現に、大型水棲哺乳類までが、空に、雲間に浮かんでいるんだから」
僕はずっと俯いて、俯いてばかりだったから、今の今まできずかなかったのだけれども、夜空を、星や雲や月の間を縫うように、大量の水中生物たちが泳いでいた。
浮かんでいた。
飛んでいた。
僕は、僕と僕の街のことばかりずっと考えて、お湯が沸騰した薬罐みたいになっていたけれど、世界は、僕がうつむいている間に根本から変わってしまっていたみたいだった。
「そっか」
と僕は思う、言う。
彼女が言っていることは、本当なんだって思う。
彼女は、十歳で猫になり、生まれ故郷を抜け出して、海までたどり着いて、海を飲み干してしまった猫、ちょっと、特別な、猫。
僕は思わず、「尊敬します」なんて、我ながら格好の悪く、脈絡のない台詞を呟く。
尊敬したからと言ってなんだっていうんだろう。
僕と彼女との間に、特別な絆なんてないのに。
「だから、私は、何億何十億何百億という生き物の住処を奪った、海を飲み干した、悪い猫。すごく、悪い猫。すごい、猫。世界を変えた猫。でも、死にかけの、故郷を失った猫。この世界は、私なんか産まなければよかったのにね、って素直に思うよ。私なんか、生れさせちゃうから、なんだか、この世界の形が、いびつに、変わっちゃうんだ。だから、まあ、たとえあなたが何千人、何百人、あるいは、私の両親を殺していようと、私に、あなたを責められる筋合いも、論理も、根拠もないから。まるで、私には、何にもない。よって立つべき拠り所がない」
「どうして、空に浮かんでいる魚たちは、落ちてこないの」
「頑張っているから、じゃない。すごく、頑張って、るから、じゃない。ハチドリみたいに」
「頑張っているんだ」
「うん、とても、頑張っている」
巨大な鯨が、月を覆う。
そして、巨大なクジラが、そのまま、月を、飲み込む。
猫も鯨も人間もひどいことをしている。
世界から、また一つ大切なものが失われてしまう。
別に、僕は、それで構わないけれど。
でも。
「頑張ってどうこうできることじゃないと思うけど」
「でも、気持ちは大事だよ」
「そういうものなの?」
「うん。気持ちがないと、欲望に飲まれちゃう」
彼女はなんだか、自分は画家で、夜空いっぱいの光景が、彼女自身の手による絵画作品ででもあるかのように、機嫌よく、夜空を僕に指し示す。
なんで今まで、この光景に気づかなかったのか、我ながら不思議だった。
世界のこと、僕は、ちゃんと見つめていなかったのかもしれない。
ずっと、ずっと、街を燃やし尽くすことばかり、考えていたから。
まあ、空を魚が飛んでいるからと言って、それがなんだって、話だけれど。
僕はもっと、この夜空をはっきりと見たくなって、あと、実は、今夜はとても肌寒くて、今更ながら、街の残骸、風呂敷包に包まれた街を、燃やした。
僕には、それができたから、燃やした。
明るくて、暖かくて、とても暑い。
あと、たぶん、いろいろなものをごちゃ混ぜに燃やしてしまっているから、とても健康に害のありそうな煙がもくもくとたなびいている。
巨大なキャンプファイヤー。
その隣で、その百メートルくらい離れた場所で、僕と彼女はうずくまっていて、僕と彼女とがちょうど身に纏えるくらいの切れ端を風呂敷包から切り取っていたら、それに潜り込む形でうずくまっていて、彼女がしでかした天変地異の成れの果て、というか、夜空に浮かぶ魚、水棲哺乳動物、恒星、夜鳥を眺める。
「あと、三日後くらいに死ぬの?」
「うん、たぶん、そのつもり」
「死んだら、お墓を作ってあげるよ」
結局、僕は、僕の生まれて育った街を燃やした。
僕は、満足だった。
廃墟で猫を飼う @DojoKota
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