陸の壱 宮本武蔵
腕の中で、抱えていた荷物が、ごとり、と鳴った。
男はふと立ち止まり、少しばかりずれたそれを水平に抱え直す。
浄奏寺へ辿り着くまでは、丁重に扱うようにとの「雇い主」からの指示だ。
その赤の地に金糸で繋ぎ馬の紋が刺繍された、大層豪華な錦に包まれた箱に、それは相応しい指示のように思える。
ただし、何かを封じるように、呪言を連ねた紐でぐるぐる巻きにされていては、その「尊重」の方向性などたかが知れているが。
これから、あまり良い扱いをしてやる訳ではないが、相応の敬意を払う「フリ」くらいはしてやろう。
込み上げた考えが可笑しくて、男はくっくっと笑った。
突如笑いだした男を見咎める者はない。
周りを取り囲む「存在」は、そんな「人間的な」反応を返してくれるようなシロモノではない。
六本脚で、ヒグマよりも大きな、長い首に瞬きもせぬ人間の頭がついてるモノ。
ゆらゆらと歩く、異様に長い脚と、図太い触手のような腕を持った三つ目のモノ。
ひらひらと空を舞いながら付いてくる、人間の柔皮を薄く引き伸ばしたような翅と異様に細長い胴体を持つ馬鹿でかい虫のようなモノ。
全身に小さな人の顔が無数に浮かび上がった、蛇とも蛭とも芋虫ともつかぬようなモノ。
その間を埋める、幾体もの髑髏鬼の群れ。
そんな異様なモノの一団に取り囲まれて、どう見ても一人人間に見える男が歩を進める。
町は怯え、場合によっては死に果て、男とその率いるモノを妨げる物好きなどいない。
そもそも、男とモノの群れが向かっているのは、江戸の中でもぽっかり空いたように、人気のない一角だ。
少し行けば末端の幕臣の屋敷がぽつりぽつりと建ち並ぶ場所もあるが、この辺りは放置され緑が繁茂し、普段から人が寄り付かないと、土地勘のない男にも見当が付く。
しかし、この場所が幕府の知るところになるまで、どのくらいもつだろう?
最悪のことを考えながら動くのは、最早性格の一部になっている。
聞くところによると、幕府に飼われている、こうした彼岸のものに関わる役職の切り札が動き出しているという。
片手に足らぬ人数、だが、万の軍勢より恐ろしいと聞く。
なるべく、その者たちに感付かせないようにするというのも、指示の中に入っていたが。
用心、用心。
何事も絶対ではない。
おどけたように呟いてみても、浮かんでくるのは嫌な記憶ばかりだ。
もっと堂々とできるかと思ったのに、結局こそこそせざるを得ないのが、昔を思い出すからなのかも知れない。
ある男の顔が明滅した。むくつけき自分と違い、白皙の美貌の持ち主だった。
殺すことには成功した、それで名声も手に入れた、だが、それ以上に失うものもありすぎた、あの男。
そう言えば、その娘がこの江戸にいるのだったな、と男はぼんやり思った。
生まれ変わりを疑いたくなる程に似ていると、自分のかつての主は言っていた。
自分の藩を脱出したあの男の妻が、身重だったらしいと後から気付き、慌てたように刺客を送り込んだ。
何年か後に、あの男の妻と守っていた弟子たちは片付けたが、あの男の娘、あの男の生き写しだけが、何年経っても始末できないのだ。
強いのだという。
まるであの男のように。
永らく忘れていた冷たい恐怖が、男の腹の底からじわじわとせりあがってきた。
今にも、その娘とやらが、目の前に出てくるのではないか、そんな非合理な恐怖に囚われる。
ほら、あの角を曲がったらそこにいる……
しかし、実際角を曲がって見えたのは、瓦も崩れかけた破れ寺だ。
自分が可笑しくて滑稽で、男はけらけらと笑った。
もし、そんなことが実際にあっても心配はいらないのだ。
男は笑いの中で確認する。
自分は強くなった。
これ以上老いないし、人間にあらざる力も手に入れた。
出てくるのなら、出てくれば良いのだ。
自分にかかったあの男の呪いを解いてやろう。
ぎゅっと木刀の柄を握りしめて、男は山門の影に立つひょろりとした人影に近付いていった。
「お帰りなさいませ、武蔵様。例のものは無事にお手に入れられたようですね」
頭の剃りあとも青々とした、若い僧侶は、そんな言葉で「宮本武蔵」を出迎えた。
こんな幽霊の住処のような破れ寺には相応しくない、小綺麗な若い男、元よりそれなりの身分を感じさせる物腰だった。
武蔵は無言で、片腕に抱えている荷物、将門公の頭蓋骨を収めた箱を掲げた。
「さあ、中へ……お前たちもよくやってくれたね」
若い僧侶は、武蔵の周りを取り囲むモノの群れに向かって優しげに労った。
この若造が本当の意味での「優しさ」を持っているとは、武蔵にはどうしても思えないのだが、モノどもはそれなりに嬉しそうにざわざわした。
まあ、褒められたら何かしら「エサ」をもらえるという、動物並の判断なのかも知れない。
◇ ◆ ◇
破れ寺の境内に一歩入ると、そこは異界の様相を呈していた。
表から見ると今にも倒れそうなぼろ寺に見えるのだが、内部は地獄の寺院だ。
塀の内側一面に隙間なく奇っ怪な紋様が描かれていた。
庭は禍々しい法則に則って整えられ、石燈籠にも同じようなものが描かれている。
庭木は何の作用かねじ曲がっていたし、一応のように置かれた庭石は、奇妙な赤いねばつく粘液で覆われている。
宗教的素養など、大したことない武蔵には、塀や燈籠の紋様が何を意味するか見て取れなかったが、それがもたらすものについてははっきりと知っていた。
この、江戸の悲惨な事態の一端だ。
これらは、この地を護る結界に力を与える神々と、大地そのものを呪う「逆言」なのだ。
結界を汚し歪め、本来なら最高の吉相である地相をもねじ曲げて、モノが蠢く異界との境を限りなく薄くする。
要するに、本来入れない、入っても大して活動できないモノどもに対して門を用意してやり、自在に暴れ回れるように地獄の風を送り込んでやるのだ。
それ故に、本来江戸には近寄れもしないような濃厚な瘴気を漂わせる危険なモノどもが、大手を振って闊歩できるのだ。
今、江戸は強力な結界で守られた聖地どころか、地獄の一丁目と化しているのだ。
かつて、天皇と貴族が全てを支配していた京の都だとて、ここまで物騒な百鬼夜行はなかったであろう。
異界のモノどもが活動することで、纏った異界の瘴気が撒き散らされ、より江戸はモノにとって活動しやすく穢されていく。
『人間と同じですよ。武蔵様だって、ご自身と全く縁のなさそうな人たちばかりがいるところより、何となくご自身と似通ったところのある方々のいる場所の方が、居やすくお感じでしょう?』
目の前の若い僧侶が教えてくれたことを思い出す。
ちらりと見ると、奥の塀の一角に描かれた奇妙な陣が歪み、そこから「何か」が這い出してくるのが分かった。
這い出したモノは、巨大な虫に似た翅を広げ、淀んだ空気を打って舞い上がった……江戸市中の方角へ。どこかで誰かが、あのモノに食い殺されるのだろう。
ふと――若い僧侶の足が止まった。
「武蔵様。尾けられましたね?」
冷たく固い声で、若い僧侶が詰問した。
武蔵ははた、と背後に意識を向ける。
物音が聞こえる訳ではない。
だが、ふとした違和感が、かつては剣聖と謳われた男の感覚に捉えられた。
「……まあ、始末すれば良いのだろう、
武蔵は無造作に将門公の首入りの箱を聖英と呼んだ若い僧侶に押し付けた。
流石に警戒心が頭をもたげる。
この寺を取り巻く濃厚な瘴気を物ともせず近付いて来るからには、只者ではあり得ない。
寺社奉行所の精鋭だろうか。
それとも、幕府がモノ対策のため、秘匿しているとかいう噂の、例の連中だろうか。
どの道、ただでは済むまい。
負ける気がないだけだ。
「一人ではありません。二人、いますね。こちらも私と武蔵様、二人で迎え撃ちましょう」
聖英は、別段慌てる様子もなくそう提案してきた。
「二人で、ではなかろう? お前さんがそんなに公正明大であるものか」
武蔵はからかった。
「モノたちは今更数に入れませんよ。倒しても、屍はバラバラにしたりしないで下さいね。相応の術師でしょうから、屍が何かに使えるかも知れません。お前たちも、分かっているだろうね?」
最後の一言は周りのモノたちへの牽制に使い、聖英はにっこりと武蔵に笑いかけた。
目が笑っていないわけではないのだが、その表情は邪悪そのものだ。
「坊主のくせに、損得勘定は確かだな、お前さんは」
武蔵が呆れたように指摘すると、聖英はその恐ろしい笑みをますます深くして、周囲のモノに的確に武蔵の援護に回れるよう指示を飛ばした。
「来るぞ」
武蔵が口にした刹那。
閉じた山門の扉が、斜め十文字に一閃した。
光が、迸ったように見えた。
それなりの厚みの門扉が、蚊帳のように呆気なく破れる。
その向こうに見えた者は。
武蔵の喉が、恐怖にひっ、と鳴った。
そこにいたのは――亡霊だった。
かつて自分が殺した、あの男の亡霊。
妙に綺麗な色白の顔に、あの日と同じく血塗れの小袖と袴。
ああ、やはりだ。
甦ってきたのだ、あの男は。
自分への復讐のために。
ほら、手の中には本当なら自分の肉と骨とを斬り断つはずだった、異様に長いあの刀。
ああ、ああ、戻って来たのだ、あの男は。
あの男を殺した代償に、いつ果てるともない潜伏生活を送ったくらいでは、あの男は許してくれるはずもない。
身内の伝手で他藩に逃れ、全く囚人と変わらぬ生活をしながら何度も見た悪夢が現実のものとなっていた。
武蔵のごつい全身に、
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