伍の伍 平将門公

 花渡は、社務所を出てすぐ、地面に屈んだ。


「お姉さん……えっ?」


 千春が呼び掛けるのと、花渡の触れた手から光の波紋としか言えない何かが広がるのは同時だった。


「え……ええっ!? 何コレ!?」


 千春が驚きを露にする間に、その足下から、するすると緑が萌えだしてきた。


 境内のそこここから、緑の花芽が伸び出していた。

 地面を一面に柔らかく染め上げ、一つの季節が一瞬で流れたように、それは次々に花開いた。白、薄桃色、淡い黄色、瑠璃色。

 瘴気の残滓で濁っていた大気を、花の香りが洗い流していく。


「お、お姉さん!? 何なのコレ!?」


 腰の辺りまで花で埋もれた千春が、唖然と叫んだ。


「何だ、お前。知っているだろう? お前が言ってきたのではないか――伊耶那美と」


 花のような剣客が、花の只中で笑う。


「あ……やっぱり、伊耶那美命のお力なんだ……」


 千春が目をぱちくりさせる。


「あまり将門公のご趣味ではないかも知れないが……しばし、我慢していただこうか」


「そんなことないんじゃない? 性格いい人だったって話だから、花も好きだよ、きっと」


 千春のこういうところは子供らしい、呑気な意見を聞いて花渡は軽く笑い声を立てた。


「さて、ご神体を改めねばな……翠殿の話から察するに、十中八九奪われているのだろうが……公にご挨拶もせねばなるまい」


 花渡を呼ぶあの声は、ますます強くなり始めた。

 二人は参道を並んで歩き出し、本殿へと向かう。


「あの将門さんの首を奪うなんてさー。大それたことするよね。あの人って御霊、祟り神だよ、元は」


 千春の言葉に、花渡は思わず目を見張った。


「首!? ご神体というのは、公の首なのか!? 太刀か何かではないのか!?」


 言い伝えでは、将門公は、日本で最初に刀を作り出した人物とされる。

 それは花渡でも知っているが。


「違う違う、ご神体は将門さんの首、しゃれこうべだよ。知る人ぞ知る話」


 千春が得意気に解説を始める。


「将門さんが、討ち果たされた後、首を京でさらされたって話は知ってるでしょう? その首が空を飛んで関東まで帰って来たって話は有名だよね。で、その首、どこにあると思う?」


「てっきり墓か何かがあって、そこに収まっているものだと思っていたが……ご神体になっていたのか」


 信じ難い話だが、首だけになって千里を飛び帰った男だ。

 その当の首が崇められるのも、それほどおかしなことではないのかも知れない。


「普通の人には知らされてないけどね。神仏に関わることの中には、世の中に広められた方がいいものと、選りすぐられた人の間で、そっと伝えられた方がいいものがあって、将門さんのご威光そのものは前の方だけど、ご神体については後の方なの」


「ふむ、なるほどな」


 巫女の娘花渡にとっては、奇異な話ではない。


「まあ、これだけ盛大に祀られちゃうと、全部秘密って訳にはいかなくて、神職でそれなりの修行をしている人なら、大体知ってるけどね」


「まあ、私の母も神職の端くれだったから、問えば教えてくれたのかも知れんな」


 そんなこんなを話しているうちに、拝殿の前に来た。

 ぐるりと回り込み、奥まった本殿に歩みを進める。


 ふと。

 ぞわり、という感覚が、花渡と千春の背を駆け登った。


 近付くにつれ感じてはいたが、荘厳な気配に、二人はしばし足を止め、打たれたように静止していた。

 大きく荒々しく、威圧的以上に惹き付けられる何か。それが神威というものならば、さながら清澄な風のように澄んでいた。


――我は平将門である。


 二人の脳裏に、そんな声が轟いた。


――神の加護を受けし者よ、我が元に来たれ。


 二人は顔を見合せ――互いの魂が畏怖に震えているのを見て取った。


「ははは、将門さん流石のご神気だねえ~」


 千春が体の奥底の震えを誤魔化すように呟いた。


「……怯えて足が進まぬなら、待っていてもいいぞ」


 花渡は軽口を叩いて自らの怯えを振り払った。

 恐ろしいと同時に、花渡には一刻も早く会いたい、という欲求が湧き上がってきたのだ。

 自分はかの神に会いに、ここに立っているのだという確かな自覚。


「……行こう。何か、将門さん苦しそうだし」


 千春は唾を飲んで前を向いた。


 花渡は本殿の扉に手をかけた。

 格子戸が開け放たれ、しんとした薄闇の満ちる内部に、光と共に二人の影が射し込んだ。


「これは……」


 内部は広く、板敷きの間の向こうに、金の飾り金具で装飾と補強を施された見事な祭壇が設えられていた。

 何となく、鎧兜の造りを彷彿とさせる外観だ。


 だが、二人を驚かせたのはその豪華な祭壇ではなく、それを中心にべたべたと貼り付けられた、無数の呪符だった。

 ぐねぐねとした、何やら文字のようなものと、多分なにがしかの法則に従っているのであろう、図形のようなものが墨で書き連ねられている。


花渡も千春も、それをまともに目にした途端、異様な気分の悪さに襲われた。

 滲み出す禍々しさが、精神を削り取る。


「これは……何だ、梵字か?」


「違う……梵字じゃない、そんな清浄なものじゃない、うんと悪いもの……」


 花渡は千春の説明を聞きながら、そう言えば似たようなものを花渡神社で始末したなと思い出していた。

 あの時は詳細に観察する余裕はなかったが、この状況では嫌でも間近で観察せざるを得ない。


「……さっき寄った神社のご神体も、こんなもので封じられていた。取りあえず、ひっぺがそう。私が高いところのをやるから、千春は低いところの札を剥がしてくれ」


「分かった」


 花渡はまず祭壇に手を伸ばした。

 一番上、社を模した屋根、その真下の、鮮やかな錦で作られた座布団のようなものから、無造作に呪符を剥がしていく。


 花渡神社同様、普通の人間なら触れただけで怪我をするだろう邪気の籠った呪符は、花渡たちの手にかかると呆気なく屈した。

 剥がす時に指先に微かな違和感を感じるものの、籠められた邪気が二人を害することはない。


 祭壇から粗方呪符を剥がして、花渡はふと気になっていた最上部の座布団を凝視した。

 人間が座るのには小さすぎるが、置物の類を据えておくのには大きすぎる。

 多分、この上にご神体の将門公の髑髏が安置してあったのだろう。


 何か告げられたように花渡ははっとし……そして、無言で呪符を剥がす作業に戻った。

 心に直接囁きかけてくる将門公の声は苦しげだった。

 呪符を取り払えば大分楽にはなっていくようなのだが、この量では二人がかりでも面倒だ。


 半時近くかけて、花渡と千春は呪符を剥がし終えた。


 何枚かは、千春が主に見せて何者の仕業か判断してもらうため、竹筒に入れて厳重に封をして懐に収めた。

 正直、花渡は主とやらのことをもっと問いただしたかったが、今はその場合ではないと思い直す。

 少なくとも、術法に通じてはいるらしいのが分かったくらいが収穫だ。


「さて、ご神体を奪った者を追わねばならぬな」


 花渡が剥がした呪符の残りをまとめて荒縄で縛りながら呟いた。


「うん。でもどっちへ行ったのかも分からないしねえ。翠さんに訊いても、倒れてたんだからそんなの分かるはずないよね」


 千春がいかにもわざとらしく腕組みして口を尖らせた。

 と。

 空気が、不意に変わった。邪術の残滓で淀んでいた社の内部に、芳しい風が吹き抜け、気配を一瞬で払いのけた。


「あ……!」


 千春が目を剥く。


 つられて祭壇の前を見た花渡も、息を呑んだ。


 黒鉄の鎧に、輝く古い形式の太刀を携えた大柄な男が、そこにたたずんでいた。


 モノの対極にある、神々しく厳かで清洌、そしてどこか包み込む優しさがふうわりと二人の女を押し包む。

 将門公。

 二人は瞬時に悟った。


 ――我は平将門なり。


 重々しい、深い響きの声が、二人の脳裏に轟いた。


 ――我が社を清めし者の名を告げよ。


「伊耶那美命に仕えし巫女、佐々木百合乃が一女、佐々木花渡なり! 此度の江戸騒乱を収めんと、こちらへ参上つかまつった!」


 花渡は声を張り上げ、次いで深く一礼した。


「……あ、あたしは時塚千春! 主の命で、この人と同じように江戸の騒ぎを収めるためにここに来たの!」


 千春の名乗りは形式も何もないものだったが、将門公はそれを気にする性格ではなかったようだ。

 大儀である、とでもいうように頷かれた。


「明神よ、貴方様のお首はどこに持ち去られたのか。持ち去った賊は何者か。教えたまえ」


 花渡は自らの内側の伊耶那美命と共に、将門公に呼び掛けていた。

 貴方を助けたいのだというただそれだけを言霊に乗せて。


 将門公は、手にした太刀で南東を指し示した。


 ――浄奏寺へ。宮本……


 それだけ告げると、将門公の姿はすうっと消えた。

 残されたのは、そこに神がいるという確かな気配だけ。


「限界、だね」


 千春が悲しげに呟いた。


「ここの状況見ても、ご神体を封じられてるのに間違いないと思うよ。だのに、あれだけはっきり姿を見せて声を響かせた。流石は江戸総鎮守」


「浄奏寺だったな。聞かぬ名だが、明神の指し示した方向にあるのだろう。探すぞ」


 花渡が踵を返した。


「……宮本って……何のことかな?」


「行けば分かるだろう。行くぞ」


 妙な胸騒ぎが、花渡な中で渦巻いていた。

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