陸の弐 決闘と逃亡

「神田明神のご神体は、それか」


 その一言が、武蔵を白昼夢から引き戻した。


 よく似ている。

 だが、目の前のこいつは……女だ。


「そいつを返してもらおう。ついでに、誰がこれの黒幕なのか白状してもらうぞ」


 はたと気付く。

 ああ、こいつが。

 佐々木小次郎の血を引く唯一の娘。

 異様な強さの女剣客。

 確か、名前は……


「我こそは、巌流開祖佐々木小次郎、及び伊耶那美命の恵みも深き熊野の巫女、祝部百合乃が一女、佐々木花渡! 狼藉者ども、この神刀の錆となるか!?」


 ひゅん、と冷たい光が視界を切り裂く。


「後ろの青坊主。貴様が妙な術でモノがいる世界と現世とを無理矢理繋いでいるという訳なのか?」


 佐々木小次郎の忘れ形見は、武蔵の背後に視線を走らせた。


「おや、とんでもない方を連れて来られましたね……武蔵様」


 聖英は、にこにこと相変わらず笑いながら、殊更武蔵の名前を強調するように呼び掛けた。

 武蔵は思わず舌打ちする。


「武蔵……むさし、だと!?」


 その持つ神刀程にも鋭い視線が武蔵に突き刺さる。


「まさか……貴様が……宮本武蔵か!?」


 剣士が吼えた。


 武蔵は気圧され、思わず後ずさりしそうになる。


「ええ、そうですよ。ご存知でらっしゃいますか? こちらは確かに剣豪……最近では『剣聖』などと呼ばれているそうですが、あの宮本武蔵様です」


 無邪気にすら聞こえる声で、聖英が武蔵に代わって答えた。

 悪意の塊としか思えない言動だが、目の前の剣士に視線で射すくめられ、武蔵はそれを咎めることすら忘れていた。


「武蔵様、答えて差し上げるのが礼儀では?」


 聖英がそう冷笑する間に、武蔵は気を取り直していた。


「あの佐々木の娘か。なるほどよく似ているな。確かに俺が宮本武蔵だ。お前の父親を始末したのは、この俺だ」


 武蔵は木刀を構えて呼吸を整えた。

 肝心な時に遅れを取る訳にはいかない。


 もし、この時に武蔵が振り向くことが可能だったなら、聖英の顔に浮かぶ不審げな表情に気付いただろう。

 更に言えば、目の前にいるのが自分が殺した男の生き写しの娘などでなかったら、自ら気付いたかも知れない。

 先程の聖英の言葉と、目の前の状況が食い違っている。


「因果なものだな、父娘揃って同じ男に殺されるとは、お前らは前世で余程の悪行を重ねたのだろうな……」


 舌にたっぷり悪意を含み、武蔵は挑発を投げ掛ける。

 武蔵のいつもの手だ。人をして最も動揺しそうな事柄で揺さぶり、何でも自分の有利に物事を運ぶ。


 もし、これが前面に出ていたら、武蔵がいくら強くてもあまり敬意を払うべき人物とは見なされなかっただろう。

 だが、武蔵の最後の決闘相手は佐々木小次郎だった。

 そしてそのことを含め、武蔵自身も周囲も宣伝に熱心であり、実際それは流行りの芝居小屋のように上手くいっていた。


 しかし、今目の前にいる相手が悪すぎた。


 挑発に返ってきたのは、氷のような冷ややかな視線だった。

 哀れむような見下すような、穢らわしいものを見た時のあの目が武蔵に突き刺さる。


 武蔵ははらわたの奥底が静かに煮えくり返っていくのを自覚していた。

 あの視線には見覚えがあった。

 あいつのあの目だ。

 この娘が会ったこともないはずの父親の目。

 美しい顔で値踏みし、無価値と断ずるその目付き。


 あの目を見てからだ。

 自分が命じられた仕事の範疇を超えた熱心さで、佐々木小次郎を亡き者にしようとし始めたのは。


「もう少しはマシなのを期待していたが、まあいい。貴様は何故、このようなことに手を染めている? 指図しているのは、後ろの青坊主か?」


 神刀を構えつつ、花渡は静かに質問を重ねた。

 その構えまで、父親そっくりだ。

 中身も似ている。

 再びあの男と向き合っているような気色の悪さが、武蔵を襲った。


 この女が、すでに自分を斬る気でいるのを、武蔵は感じ取っていた。

 静かな、だが少しでも動いたら斬り裂かれそうな剣気がそれを物語っている。


 もしこの女が何者かに遣わされて自分を追ってきたなら、場合によっては尋問のため、すぐには命を取らなかったかも知れない。

 しかし、こちらにはもう一人、聖英がいる。

 自分を斬り捨てても、そちらを締め上げれば事情を聞き出すことは容易、つまり自分には存在価値がないのだ――親の仇という価値以外は。


 ほんの一瞬ちらりと、この佐々木花渡なる女がここにいる経緯に興味が湧いたが、そんな勘繰りを許すほど、この女も状況も甘くない。

 この女からは血の匂いがする。

 人を斬るのに慣れた者特有の禍々しい気配。


 木刀を構える。構える。


 殺すのだ。

 殺さなければ自分が確実に殺されるしかない。



 がしゃがしゃと骨の軋む音を立てて髑髏鬼が、そして奇妙な鳴き声と共にモノの一団が前に進み出て武蔵と並んだ。

 安堵を覚える。

 少なくとも一対一ではない。

 少しくらい、自分の剣の腕が劣ったところで問題はない。

 多勢に無勢、こやつの父親もそれで死んだのだから。


 しかし。

 それはいかにも甘かった。


「動くな、坊主!」


 子供のように甲高い、だが鋭い声が響いた。


 花渡の剣気に金縛りにされている武蔵の背後で、聖英の体ががくん、と固まった。

 ひゅっと、何かが空を切る音と共に、聖英の手の中にあったご神体が宙を舞った。

 痛切な歯噛みと共に武蔵は思い出した。

 侵入者は二人いたはずなのだ。


「ざまーみろ、マヌケ!」


 子供じみた嘲りと共に、松の太枝の上で誰かが小躍りする気配。

 そう言えば外にまで張り出した松の枝があったと武蔵が思い出しても何の役にも立たぬ。


「おい!」


 人間と違って融通のきかぬ髑髏鬼に、合図を出す。


 鉤縄で引っ掛けてあっさりご神体を奪還した子供に、髑髏鬼ががしゃがしゃと迫る。


「千春!」


 花渡が叫ぶ。

 と同時に、千春と呼ばれた子供も叫んでいた。


「右のお前! 真ん中のと戦え! 左のお前は、右!」


 先頭に立っていた三体の髑髏鬼の動きが、がくり、と止まる。

 次いで命じられたまま、仲間に襲いかかった。

 千春と呼ばれた子供は次々と髑髏鬼、そしてモノに命令を飛ばした。

 見る間に混乱を極めた同士討ちが始まる。

 自由を保っているのは、最早武蔵だけになった。


「……面白い仲間を持っているではないか」


 武蔵は内心の憤激を皮肉な笑いで隠した。

 やはり、この女と一対一でやるしかないのか。

 いや、この状況ならあの妙な力の子供も含めた二対一か。

 まこと、明らかに自分より強い相手、向こうに有利な相手とは戦わないと決め込んでいる武蔵の信条に反することおびただしい。


「仲間かどうか知らんが……例え一対一でも、貴様のような奴では私に勝てんよ」


 枝から飛び降りてきた千春なる子供が、花渡の後ろに姿を見せ、得意げに手の中のご神体を武蔵に見せびらかした。

 やーい、やーいと囃し立てる。


「お前のような性根では、いつか必ず我が身を滅ぼすものだ」


 びしりと空気に固定されたような神刀の切っ先がぎらりと光る。

 まるで血を吸わせてくれとでも言うように。


 ふと、花渡の表情が変わった。


「つくづく、父母が気の毒だ。貴様のような見下げ果てた下郎に命を取られたとあっては、いくら何でも釣り合いが取れぬ……そういう訳で、斬らせてもらうぞ。折角の仇討ちの機会なんでな」


 剣気が強まり、武蔵の体を射抜いた。


 自分は誘き出されたのではないか、とすら武蔵は思った。

 自分のいいようにしている気でいて、結局は仇として討ち取られるべくこの女に仕組まれていたのではないか。

 そんな滅茶苦茶な想像が現実味をもって感じられるほど、武蔵は追い詰められていた。


 まるでそれを悟ったかのように、花渡はニヤリ、と牙を剥いた。


「あんたとさあ、後ろの坊主が親玉って訳じゃないよねえ?」


 千春が小馬鹿にするように手を振った。


「今江戸で起きているようなことの全部を、あんたらがこの隠れ家だけで全部準備できたとは思えないもん。まだ裏があるよね。あんたらの役目は将門公をどうにかして、お江戸の結界術を破ることくらいだったんじゃないの?」


 とても十一、二歳くらいの子供とは思えぬ、鋭い舌鋒に武蔵は返す言葉を失った。

 こんな子供が妙だとは思ったが、まさか。


「何者かと思えば……そうか、そやつ御霊士みたましか。すでに組んでいたか」


 言葉の意味が取れなかったらしい花渡の顔が曇る。


「……千春?」


 まるで隙を見せぬまま、花渡が千春に呼び掛ける。


「ごめん。今は説明できない。とにかく、ここを収めるのに手を貸して」


「収めると言われてもな……こいつを斬り捨てればいい訳か?」


「そうそう、あ、後ろの坊主は残しておいて。この小汚いおっさんは殺していいいよ……殺したいんでしょ?」


「それはまあな」


 芝居見物の日取りでも打ち合わせるような気軽さで、武蔵の扱いが決まった。


 しかし。

 それをむざむざ待つ武蔵でもなかった。


 風を巻いて間合いを詰めた武蔵が、木刀を振り下ろす。

 船の櫂を削って作り出したという触れ込みの長大な木刀は、その特異な重心のせいで恐るべき速さで花渡を襲った。


 しかし。

 花渡の神刀は、やすやすとその攻撃を凌いで見せた。

 刀の背であっさり、木刀を流して弾いたのだ。そう太いようにも見えない腕は、恐るべき膂力を秘めていた。


 武蔵はたたらを踏んで後退した。

 すっと、花渡の目が細まった。


「宮本武蔵。貴様、自分と自分の木刀に何をした?」


 ぞくりと。

 武蔵の腹が冷えた。


「その得物、ただの木刀ではなかろう。それに貴様の動きも妙だ。その歳になれば体は衰えるはず。どうやって身を保たせている?」


 見透かされた。


 武蔵は獰猛に笑った。

 流石にあの男の娘は、どこまで行ってもあの男の娘だ。


 吼え猛るような怒号と共に武蔵が走った。


 まっすぐ突くと見せ掛けて、いきなり跳んだ。

 とんでもない跳躍力で、花渡の頭上に舞い上がる。


 が、それより速く、銀の軌跡が奔った。


 視界が己の血で塗れた。

 胴半ばから腕の内側まで斬られて、武蔵は落下した。

 落下の拍子に、ごぼりと内臓がこぼれた。


「お姉さん……こいつ!」


 千春が息を呑む気配。

 焼け付く痛みをこらえて、武蔵はひゅっと笑った。


 視界に広がるその血は……青黒かった。


「どういうことだ!? 貴様、モノだというのか!?」


 困惑というより怒りに近い、花渡の口調に、武蔵は再びの笑いをもって答えた。


「納得いくまいな。貴様の父を殺した男がモノだなどと。どういうことだと思う?」


 機を伺いながら、武蔵は花渡に戯言を投げ掛ける。

 こぼれた臓腑が再び、生き物のようにずるずる動いて武蔵の腹の中に収まって行こうととするのを、戦う二人の女が凝然と見詰めるのを感じながら。


「お姉さん殺して! こいつ、モノだよ!! 最初からモノだから強かったんだ!」


「いや、それはおかしいな。こやつには、確かに血の繋がった父親がいたはずだ。モノに親子も何もあるはずがあるまい」


 あの巌流島の決闘をお膳立てしたのは、武蔵の実父、無二斎だ。

 この花渡は、母親からその情報を聞いているだろう。

 混乱しているはずだ。


「千春。人間がモノになることはあるのか? 屍の化け物になる以外でだ」


 唐突に聞かれて、千春がうろたえた。

 動こうとした武蔵の首筋には、ぴたりと神刀が突き付けられている。


「……あるよ。理屈の上ではね、あるんだ……だけどまさか……そんな」


「千春?」


「もっの凄く、特別な邪法なんだ……あたしも、主に聞いただけで見たことはなかった…こいつがそうなら、まさか……」


 花渡の気配がわずかに揺らいだ隙に、武蔵は木刀を跳ね上げた。


 予想通り、花渡は背後に跳び、武蔵は一挙動で起き上がった。

 そのまま脱兎の如くに逃げ出す。

 出口ではなく、寺の奥へと。


「止まれ、動くなーーー!!!」


 千春の言霊が、武蔵の全身を拘束しようとする。

 鎖のようなそれはしかし、武蔵の気の前にほどけて消えた。


 花渡が後を追う。

 しかし武蔵は棒立ちの聖英を突き退けついでに花渡の前に放り出した。


 一瞬だけ花渡が倒れてくる聖英を押し退けた瞬間に、武蔵は寺の堂に飛び込んでいた。


 落ち窪んだ床を跳び越え、本来なら本尊があったであろう場所に一気に飛び込む。


 壁に描かれた奇怪な陣図の前に、油の浮いた水面に似た輝きが広がり、武蔵を呑み込む。

 自然の理を曲げて自分を別の場所に送り込む術の気配を感じながら、武蔵はどこでもない空間で哄笑を上げた。

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