伍の壱 天海上人
薄暗い堂内には、香の煙が立ち込めている。
斜めに射し込む僅かな日の光によって、漂う煙が複雑な紋様を描き出す。
昼日中だというのに、固く閉ざされた堂内には闇がわだかまり、金色に光る法具や人間より大きな曼荼羅の掛軸がうっすらと浮かび上がっている。
静寂を破るのは、微かな読経の声。
ただ一人、黒いゆったりした僧衣の老人が、曼荼羅の前に設えられた祭壇に向かって祈りを捧げている。
着衣の種類や質から判断するに、かなりの高僧だ。
位に相応しく年老いた顔には深い皺が刻まれているが、表情にも声にも張りがあり、耄碌した様子は微塵も感じられない。
ごく微かな吐息のように紡がれる、その読経にも不思議な力強さがあった。
もし、この場に誰か他の人間がいたのなら、老僧の凄まじい精神集中を感じて立ち竦んだだろう。
目に見えぬものを捉えようとするかのようなその気迫は堂内に満ち、空気をびりびりした緊張で包んでいた。
ふと、老僧の肩がぴくり、と動いた。
「これは……」
老僧が顔を上げる。
まるで思いがけないものを目撃してしまったかのように、彫りの深い目が見開かれる。
穏やかだが射抜くようなその目は、僧侶と言うより討つべき敵を目前にした武士のようだ。
「……やはり結界か。それにしても……」
まさか、と呻き声が洩れる。
「あの女人、このような……有り得ぬ、何の儀式もなしで……」
あの娘は選ばれたと言うのか。
深い吐息をこぼした後、老僧は考え込み、ややあって再び顔を上げた。
「……
小さなその声は、堂の中ではっきり聞こえた。
「……天海大僧正様、御前に」
堂の一隅、日の光から離れた、闇が一際濃い辺りに、闇よりも黒い何かがすうっと浮かび上がった。
一瞬前まで誰もいなかったはずのそこに現れたのは、まるで死病から生還したばかりのような蒼白な顔色の若い男だった。
夜陰を映す水のように暗い深い瞳、真っ黒な、忍が身に着ける衣装にも似た僧衣の一種を纏っている。
腰の後ろに
全体的に不吉な印象を与えるが、容姿そのものは菩薩像を思わせる端麗さだ。
「……黒耀。やはり、何者かがわしの敷いた結界を破ったようじゃ」
天海は、肩越しに従者たる僧兵を振り返った。
「……あの堅牢な結界を……どのように破ったのでございまするか?」
微かに驚いた気配と共に、黒耀と呼ばれた若い僧兵は尋ねた。
「神田明神が襲われた」
老僧の短い返答に、僧兵の蒼白な顔がより青ざめた。
「まさか……あの祟り神を襲うことができる者など」
「残念ながら事実じゃ。何者かまでは邪魔されて見定められなんだが、ご神体を奪って行きおったの」
「ご神体……将門公の首を……そのような」
従者が畏れに震えるのを傍らに、天海の目は遠く、鋭い。
江戸総鎮守の格を与えられた神田明神の祭神・平将門公は、かつて大いに祟りをなした荒々しい御霊としてつとに名高い。
そして、そのご神体は、本人の死後、京より関東にまで飛来した、その首そのものだと伝えられる。
無論、一般の氏子にはそのような話は伝えられないが、神仏に仕える者たちの間では、良く知られた話なのである。
「かの神は、江戸の鬼門をお預けした神々の中でも特に力が強く、反面恐るべき祟り神じゃ。万が一、ご神体を邪な術で汚され、怒り狂われるようなことがあらば、江戸を襲う災禍は、今あるようなものではすまぬやも知れぬ」
落ち着いているとすら言える声は、天海が事実をありのままに語っているからだ。
もし、状況が今のようでなければ、黒耀はむしろ天海の正気の方を疑っていたやも知れぬ。
しかし、あの江戸の町の嘘のような惨状を目にしては、天海の言葉に疑問を差し挟むことなど出来なかった。
江戸の町はおろか、日の本が滅ぶ。
「今すぐ千春と陣佐を呼び戻し、全員で神田明神へ」
黒耀の言葉に、しかし天海は首を横に振った。
「いや、事はそう簡単には済まぬ」
「……と、申されますと?」
内心、黒耀は訝しんだ。
神田明神以上に火急のことなどあるのか。
「以前、わしがそなたらの一員に加えようと目星を付けていた女人を覚えておるか?」
「千春に見張らせていた、あの女剣客のことでございましょうや? 佐々木小次郎の娘とかいう……かの者が何か?」
この際、仲間になるかも知れない程度の者にかまけている場合ではなかろうと思いつつ、黒耀は師の言葉を待った。
「かの者、自力で鬼門の結界をなす神社を、探り当てたの」
その言葉に黒耀の目が底光る。
「それは何故……」
「あの神社には、以前、熊野から流れてきた巫女とその娘が住み着いていたことは伝えてあろう? どうやら、幼き日のかの女剣客と、その母親であったらしいの」
黒耀は息を呑んだ。
正直、薄気味悪い。
まるで最初から何もかも用意されていたように、あの女は「条件」にぴたりと合いすぎている。
確かに母親は伊耶那美命に仕える巫女だったとは言え、千春の報告によれば、かの人物は全くの剣士型の人間で、神仏に仕える素養には恵まれているとは言い難いのではなかったか。
「この上に、これからじゃ、黒耀」
天海の口調は、やけに嬉しそうだった。
満足げとすら言える笑みが、年輪の刻まれた顔に浮かんでいる。
「は……」
「かの女人、例の神社での、伊耶那美命の分霊をその身に宿したようじゃ」
「はっ!?」
黒耀は、何かを言いかけ口をつぐみ、また言いかけるという仕草を二、三度繰り返した。
その様子を微笑ましげに、天海が見やっている。
「それは……それはどういう!?」
「かの女人、伊耶那美命を祀った……例の花渡神社で、一旦はモノに殺されておるの。ところが、すぐに甦ってきおった。伊耶那美命が、かの者の体に自らの分霊を分け与えて甦らせたようじゃ」
黒耀は言葉を失った。
そのようなことが可能なのか。
黒耀はかつて自らの身にも施された秘術を思い出す。
かの術は、神の裁定に従い百万人に一人の逸材を選び抜き、秘術中の秘術を施すことで、神の分霊と人とを一体となし、言わば人為的に小さな神を造り出す。
それ程の手をかけても、上手くいかないことはある。
だのに、かの女は、誰の力を借りることもなく、自らの素質のみで神に選ばれたと言うのか。
それ程までに、かの女は神に愛されていたというのか。
「あの気難しい神々の母御が、あの女人だけは大いに気に入っておわしたと見える。いや、この天海にも読めなんだ」
「……いかがなさります?」
よりにもよってこの時に。
黒耀には最早適切な判断がつかない。
「どうやら、あの女人は、この事態を自らの手で収めるつもりらしいの」
天海は何故か上機嫌だ。
それが黒耀の訝しさにますます拍車をかける。
この江戸に天海が施した、神仏の霊威を借りた聖なる結界の術は、歴代の将軍を動かし、同時に神仏の意思を汲める天海だからこそなし得たものだ。
三代に渡り将軍家に仕え、モノに対する守りを一身に任せられてきたからこそ、この大規模な結界術は完成した。
人の往き来、並びに神仏の霊気は妨げないどころか活発にする結界は、ただ人間に仇なす邪なモノだけは厳しく締め出す。
ただ、人間は死んで行くので、それに伴う弱小のモノだけは完全には押さえ切れないが、古典にあるような都そのものをどうにかするようなモノは這い出してくることが出来ない。
にも関わらず、今の状況にあるということは、天海の結界術そのものを阻害出来る技量と知識のある者が関わっているはずなのだ。
とんでもないことだし、どのような力があろうと、一人で出来るとも思えないのだが、それを更に覆そうとはどういうことか。
あの花渡なる女は、恐らくそれを分かっていない。
「あの女人の宿した伊耶那美命は、この日の本の天地を産み出した創世の神。いかなる神仏の聖所も、その上に間借りしておるようなもの。そのお方が動くとなると、分からぬぞ」
創世の女神が、自ら産み出した世界のために動くと、天海は言う。
一体何が起こるのか。
「いかように……なさいます?」
じっと見詰める黒耀の瞳に向かい、将軍家相談役、「黒衣の宰相」天海はゆったりした笑みを返した。
「両方とも、相手にしてやるしかあるまい」
「……は」
意味が分からない。
「そなたらは、あの女人と手を組み、結界を繕うのじゃ。そなたらもまた、かの者の行いに力添えせよ。この天海も預り知らぬことを、かの者が弁えている可能性もあるでの」
「それでは……あの者を
流石に愕然とする。型破り過ぎるではないか。
「今は、じゃ。結界を繕い終えるまで、角突き合わせる訳にもいくまい。それにの……まだある」
「は……まだ、と申されますと?」
この上更に何なのか。頭がくらくらしてくる。
「江戸の水がの。濁ってきておる。水の流れが結界を守り、常に浄化しておるのは知っておろう? それが汚されておる」
「……
埋め立て地故に良質な水に恵まれない場所が大半の江戸に、飲用となる水を供給する巨大な溜池。
無論、水は人々の日々の飲用だけではなく、モノに対する結界の術を常に張り巡らせ続ける一翼を担う。
結界の術を常に発動し続ける状態に保つ仕掛けは幾つかあるが、水とその清らかな流れはその中でも重要なのだ。
「溜池にかなり強力なモノが入り込んで、水を汚し結界を損っておる。かの水は、お城の堀とも一部繋がっておるでな、このままではお城にまでモノが押し寄せる」
天海の言葉は厳しかった。
江戸の気の中心地たる江戸城の守りが破れるということは、この国の頂点たる将軍その人の身が危うくなるということ。
それ即ち、人間のモノに対する完全な敗北を意味する。
それに加え、誰かがモノに汚された水を飲んだりすれば、その人間が単純に死ぬだけで済むのか。
「陣佐を呼び戻し、
黒耀は諾のいらえを返す前に、ふと顔を曇らせた。
「神田明神に回す手、二名だけでは力不足となりますまいか」
「いや、ご神体を奪った相手は、そう大人数でもないようじゃ。人の生身のままで、疫鬼を斬り伏せるかの者に千春を付ければ、何とかなろう」
真に恐ろしいのはこの場合、ご神体を奪った相手よりも、祟り神と化すやも知れぬ将門公。
付け加えられた言葉に、黒耀は頷いた。
色々と不安はあるが、今は天海の見立てを信じる他あるまい。
「御意に」
一礼し、黒耀は足下の影に沈み込むかのように消えた。
天海はふうと吐息をこぼした。立ち上がり、きつく閉ざされていた堂の扉を開く。
無情に晴れた空、この堂を囲む木々の分厚い緑が目に眩しい。
その向こうにそびえる、堂々たる江戸城天守閣が黒々と輝いている。
きっと、今頃その主が、このどうにもならぬかに思える事態にかんしゃくを炸裂させているのだろう。
「さて。どうなるかの?」
天海は呟き、南の方角に厳しい目を向けた。
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