肆の陸 常世の花
「おう、しんシン死んだ」
「食い物みたいだ食い物だ」
ご神体の磐座に大量の血をぶちまけてずり落ちてきた花渡を、二匹組のモノが覗き込んだ。
ご神体に寄りかかるような姿勢で、太刀も手離したその娘の死骸に、二匹はよだれを垂らさんばかりににじり寄った。
「ようやくオンナだ。男ばかりで詰まらなかった」
「どこから食おうか、おれははらわたがいい」
尖った爪の生えた手が花渡に伸びた。
と。
はらり、とその目前を、何かが落ちていった。
怪訝な顔で、上向くモノ二匹の前で、上から落ち葉のように赤い何かがひらひら落ちた。
最初の一枚が合図であったかのように、次々と降りしきるのは……花渡の血を吸った、ご神体を封じた札だった。
「おう、おう、駄目だ、あれを剥がしては駄目だぁ!」
「大事な札だぁ、剥がしたら怒られるではないかあ」
慌てたように、モノ二匹がご神体に手を伸ばし。
どん! と衝撃が走った。
「あ?」
青い方のモノの胴体が、二つに分かれてずるりと落ちた。
「あっ!? ひあーっ!?」
色々なものをぶちまけながら倒れる青いモノの傍らで、朱に染まった花渡が立ち上がった。
「いきイキ生きてる!? うひあーっ!!」
反射的に繰り出された矛ごと、赤いモノが両断された。
胴を三つに斬られ、吹き出した何かの中に沈む。
見る間に、その肉体の全てが消えていく。
「ふむ……」
花渡は生き返った自分の身を見下ろした。
小袖は酷いことになっているが、肉体そのものには既に少しの傷もない。
目を上げて境内を見る。
視界が広く明るく、くっきりとなったように、花渡には感じられた。
周囲の見え方が違う。
存在する全てのものが歌いだしているように感じる。
森羅万象が、その存在する意味を花渡に語りかけているようだ。
淀んだ何かの他に、流れる光のようなものが見える。
それは聖域を汚さんとする邪悪な術法と、それに押さえ込まれてはいるが弱まりはしない神の聖なる力だ。
花渡は、自らの聖なる血を吸って効力を失った邪術の札を、無造作に剥がしていった。
ぐるぐると執拗に巻き付けられた邪さを巻き込んだ紐には、神刀で切り付ける。
恐らく二重三重に邪術がかけられ、通常では触れることさえできなかったはずのその紐は、あっさり切れて落下した。
その後しばらくかけて、花渡は境内を片付けた。
片付けるのは、主にモノに食い散らかされた人間の残骸だ。
間違いなく寺社奉行所の同心たちなので、後から検証できるように一まとめにし、神社に隣接する雑木林の中に埋める。
目印に岩を置き、近くの小川で手を洗って、花渡は境内に戻った。
花渡は改めてご神体を見上げた。
死の
復活した伊耶那美命の神威が、邪術を打ち払ったのだ。
邪術を込めてあった紐と札は、先程社務所の中から見付けた火打ち石によって起こされた火で焼かれ、既に跡形もない。
花渡はご神体の磐座の背後に回り、神刀で下草を切り払いつつ、鎮守の森の端から真裏になる方角を見た。
江戸の鬼門、
一際高く見えるのは、新築したての江戸城天守だ。
黒々とした重厚な外壁に、銅の屋根瓦がギラギラと陽射しを照り返している。
晴れやかな景色のはずなのに、何だか火事の後のように淀み、くすんで見えるのは、やはり跳梁するモノの発する瘴気が江戸全体を覆っているためだろう。
――地獄の気配だな。
浮かんできた感想を、花渡は我知らず口に出していた。
いつの間にか花渡の脳裏に、およそ都市を聖所にするための大まかな知識が詰め込まれていた。
花渡の母、百合乃が、あともう少し生きていたら、花渡に伝えたはずの、神に仕える者としての基礎知識だ。
神々の名前とその聖性を引き出す寺社の配置、モノから人と場所を守るためにすべきあれこれ。
それに鑑みて、今の江戸の状態は実にまずいと言える。
江戸をモノからの鉄壁の城塞となしていた、寺社仏閣をある法則に従って配置することにより形作られていた結界の術が、無惨に破られているのだ。
人間同士の戦に例えるなら、押し寄せる敵兵を前に城門を開け放っているようなもので、内部の人間の安全など、毛ほども保証されない。
敵兵をある程度追い出して城門を固く閉ざし、内部を修復せねばならないのだ。
城門を閉ざすにはどうしたら良い?
花渡は考え込んだ。
そもそもどうやって城門を、江戸の結界を破ったのだ。
大体いくら何でも、結界が破れた途端にこの数のモノが跳梁するようになるなどおかしい。
結界を破る以外に、モノを大量に放つような何かがなされたはずなのだ。
幸い、モノは城門を閉ざせば……聖なる力を張り巡らせる結界を修復すれば、その力を削られ、その場にいられなくなり逃げ出すか、場合によっては消滅するはずだ。
まず、結界を何とかすれば良いのだが。
花渡は再びご神体の前に引き返した。
何事がなされれば良いか、その脳裏に閃くものがあったのだ。
「ここは、江戸の鬼門。モノに対する守りで、最も重要であるところ。だからこそ、あなた様はここを守っておられたのですね、母上」
まるでその人がその場にいるかのように、花渡はそっと囁いた。
今なら母の考えていたことが分かる。
「ここを繕えば、大分マシになる。そうですな?」
花渡はまるで是の返事を受け取ったかのようにしゃがみこんで、地面にそっと指を触れた。
ふわっと
それが触れた先から、地面に緑が芽生えた。
周りを埋め尽くす夏草の緑ではなく、もっと瑞々しいもの。
時間を何百倍にも縮めたかのように、地面を割って現れた緑はするすると伸びていき、やがて先端に蕾を付けた。
あれよという間に、様々な花が満開に花開き、境内は一面の花園と化した。
淀みが残っていた大気から邪気が祓われ、芳醇で清らかな香りが満ち満ちた。
様々な色の、この世では有り得ないと思わせる造作の花が咲き誇る様は、まさに聖なる楽園を地上に降ろしたかのようだった。
常世の花だ。
花渡は自分に芽生えた新たな力に満足しつつ、周囲を見渡した。
伊耶那美命は、死者に手向けるべき聖なる花を司る女神でもある。
その神威の籠った聖なる花は、全てを浄化する。
これで、結界の要の一つである花渡神社の穢れは祓われ、少しだけ結界は繕われた。
しかし。
『どうにかされたのは、ここばかりではあるまいな』
花渡は一人ごちた。
江戸の結界を形作る寺社仏閣は山とある。
幾つもある城門のうち一つだけを閉めても仕方ないのだ。
次に閉めるべき城門の一つが、頭に思い浮かぶ。
あの場所へ。
踏み出そうとして、花渡はふと、懐に違和感を感じた。
まさぐってみると、あったのは金色がかった橙色の丸い果実が二つ。
意識がいささか変わる程、香り高く、清々しく、そして豊かな香りだ。
花渡は微笑んだ。
これは常世で出会った父母からの贈り物だ。
一つを懐に戻し、そしてもう一つをご神体側の日当たりの良い一角に、地面を掘って埋めた。
真上から手を当て力を注ぎ込むと、見る間に地面を割って、常世で見たあの果樹が姿を現した。
人の丈を超える高さまで伸びると、広がった枝に真っ白な花と金色の実が鈴なりになった。
花々と絶妙な調和を感じさせる香りが、周囲をより清浄にする。
花渡はその実の名を知った。
時じく香の木の実だ。
常世の力の凝った神樹。
しばらくその枝振りを見、父母の思い出に浸ると、花渡は踵を返して決然と、境内を後にした。
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