伍の弐 御霊士動く

 あの人、来てたんだ、流石だね。


 そんな感想を、千春は抱く。


 夏が始まろうという季節だのに、冬枯れのように木々は葉を落としている。

 将軍家の菩提寺である寛永寺は、案の定と言うべきかモノの集中攻撃を受け、甚大な被害を被っていた。


 寺内の僧侶が一斉に折伏に当たる中、駆け付けた寺社奉行所の者たちがモノと直接刃を交えている。

 今まで江戸に出たことのない疫鬼の瘴気に、寺社奉行所の精鋭たちも次々倒れ、磨き抜かれた僧侶たちの祈りも、この聖域を完全に守るには至らない。


 寺の一隅では、モノに追われ逃げ込んだ民草が、肩を寄せ合って震えている。

 何やら戦火に巻き込まれた破れ寺のような風情だ。


「はい、間違いございません。確かに身の丈より遥かに長い太刀をお持ちの、女性にょしょうの剣客であらせられました。目の覚める程、美しい方で」


 そう答えたのは、若い、薙刀で武装した僧兵だった。

 法力より、臂力で御仏に仕えていそうだ。


「我々も寺社奉行所の方々も苦戦するモノどもをあっさりと……何故かあの方には、疫鬼の瘴気が通じないようでした」


 花渡の太刀は、神刀だという情報は、千春も掴んでいた。

 異様に長い、その神刀を振るうなら、花渡以外にない。


「……あのお姉さんも、ここに来てたんだね。たまたまだと思う?」


 僧兵と別れてから、千春はつんつんと陣佐の派手な袖を引いた。


「……いや。そうではなかろう。恐らく何か感付いている。上人様によれば、花渡とやらの母親は、熊野の巫女なのだろう。母親から江戸の結界のことをあれこれ聞いていたのかも知れん」


 陣佐は、ふと鋭い目で遠くを見た。

 何かを見付けようとするかのように。


「そう言えば、あのお姉さんの生まれ育った神社って、ここからそんなに離れてないよね」


 千春は記憶を辿る。

 天海によると、佐々木花渡の生まれ育った花渡神社は、それほど大きい訳ではないが、創建自体は極めて古い――この地が江戸と呼ばれるはるか以前からの由来の社だという。

 その割には知名度はそれほどでもないが、それはある思惑があってのことらしい。


 神域には、世に広く知られ、参拝者を多く集めた方が良い場合と、ごく限られた資質ある者だけに伝えられ、密やかに祀られた方が良い場合の二通りあるのだという。

 花渡神社は、紛れもなく後者だったのだろう。


 だが、それを割り引いても、その神社が花渡の母親である巫女が世を去って以来打ち捨てられ、荒れ放題になっているのは侘しい話だ。


「あのお姉さん。もしかして、江戸を何とか元に戻そうとしてるんじゃないかな……こんな離れた鬼門の方角のお寺に来るって、偶然じゃないよね……」


 千春は考え込む。

 花渡が母親からどの程度の知識を得ていたのかは推測するしか出来ないが、先程の僧兵の話では、モノに襲われ死にかけていた娘をわざわざ助け、寺まで連れてきたという。

 利害損得だけで動いてはいないはずだ。


「まずいな」


 しかし、陣佐は渋い顔だった。


「持っている神刀とやらがどれだけ強力か知らんが、振るっているのは所詮人間だ。剣の腕は大したものだそうだが、モノに対抗するにはそれだけでは足りぬだろう」


 花渡が「並の」人間ではないことは、陣佐も知っている。

 自分たちを束ねる天海大僧正が目を付けたのだ。

 自分たちのようになる資質は、生まれつき持っているはず。

 それでも、今の時点で花渡は「人間」の枠に押し込められている。

 それでは、例えどれだけ剣の腕が立とうが限界が来るのだ。


「陣佐、あのお姉さんが生まれた神社に行ってみない?」


 珍しく緊張の感じられる声で、千春は促した。


「……ああ。どうせ元より行かねばならぬだろう。鬼門の守りの一つであるのに無人になっているから、寺社奉行所の者たちが様子を見に行っているはずだな」


 陣佐は、ごうごうと音を立てて燃え盛る愛刀を、ぶんと振った。炎が尾を引く。


「危ないかも知れない。明らかに、鬼門の辺りって他の場所より強いモノがうろついてるじゃん。もし、剣の腕だけで対抗できないようなのが出たら」


 モノの纏う瘴気にも色々ある。

 今現在の花渡の力で引き出せる神刀の神気で、中和できるくらいのものだったら良いが、それを上回る地獄そのもののような瘴気を纏うモノも存在するのだ。


「……行くぞ」


 茫洋と、だが断固として、陣佐は歩を進めた。

 燃え盛りながらも持ち主を害すことのない炎が、大柄な体の周りに火の粉を撒き散らす。


「待ちなって!」


 狐の面が揺れ、千春がとととっと後を追おうとしたその時――


 二人の足元に落ちている、木立と塀が作り出す濃い影が、水面のように揺らいで見えた。


「つわっ!? 黒耀!?」


 巨大な魚のように影から浮かび上がって来たのは、黒い簡易な僧衣にざんぎり頭の、蒼白い修行僧だ。


「何だ……急にどうしたのだ? 上人様からのお指図か?」


 勢いを削がれて、陣佐はぽかんと立ち止まった。


「陣佐。我と共に今すぐ溜池へ」


 ゆらりと黒耀が立ち上がると、特有の香の香りが鼻孔をくすぐった。

 洒落や楽しみで焚くようなものではなく、密教の儀式で使うような、不穏な香りだ。


「……千春はあの花渡なる剣客を探し出し、神田明神へ。かの者は、花渡神社にまだおるはずじゃ」


 千春と陣佐は、顔を見合わせた。


「ちょっとどういうことなのよ、何があったのか説明しなさいよ、さっぱり分かんないじゃない!」


 千春が黒耀に食ってかかる。


「状況が変わった。あの花渡なる者、その身に伊耶那美命を宿したようじゃ」


 二人とも、一瞬、意味が取れなかった。


「……待て。どういうことなのだ。あの剣客に上人様が伊耶那美命を宿すのは、これからで……」


 陣佐は明らかに困惑した声を上げた。


「いや、違う。伊耶那美命の方から、あの剣客に近付き、その身に宿ったのじゃ」


 静かにとんでもないことを告げる黒耀に、二人は言葉を失った。


「……嘘でしょ!? 嘘だよね!? そんなことあり得る訳ないよね!?」


 千春の声が引き攣っている。


「嘘ではない。上人様が感得された。即ち事実そのものじゃ」


「……そんな……そんな馬鹿なことが」


 普段からどことなくぼんやりして見える陣佐が、本格的に気が遠くなっている。


「詳しい話をしている時間はない。とにかく、今は溜池にモノが出て水を汚していること、それから、神田明神のご神体が奪われたことが分かれば良い」


 二人の頭が一瞬真っ白になった。


「神田明神……ご神体って……えええー!!」


 千春が絶叫する。


「江戸の結界を乱すため、そして将門公の祟り神としての力を利用するため、何者かが公の頭骨を奪った。すぐに取り戻さねばならぬ。千春、急げ」


 最早何に驚いて良いのか分からなくなっている千春を尻目に、黒耀は同じような状態の陣佐に手招きした。


「なれはこちらじゃ。溜池に急ぐぞ。今、青海が見張っておるが、あれでも苦戦しておってな……」


「……分かった」


 陣佐が歩み寄ると、黒耀はその腕を掴んだ。


 一瞬で、まるで水に足を踏み入れたように、黒耀と陣佐の体が影に沈む。

 その様子を見送った後、千春ははぁあと盛大な溜め息をついた。


「ああもう、何だか分かんないよ! とにかく一緒に神田明神だ、お姉さーん!」


 焼けばちで腕を振り回しながら、千春は駆け出した。

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