参の肆 寛永寺門前町の騒乱

 これで死ぬのだ。


 あやは、土間の上がり框に寄り掛かった姿勢のまま、ぼんやり思った。

 殺される前に、いっそ気絶でもすれば良いのに、意識は一向に途切れなかった。


 目の前にいるのは、赤い一つ目の馬が立ち上がったような奇怪なモノだ。


 さっき、そいつが土間に踏み込むと同時に吐き出した煙のようなものを吸い込んだら、全身が萎えて立っていられなくなった。

 鼻と口から血が滴り、内腑全体が焼け石で炙られるような感覚が、間断なく綾を苛む。


 さっき綾を庇おうとした母は、土間に倒れ伏してぴくりとも動かない。

 父や祖父は表に出たきりだが、どうなったのかは明らかだ。


 最早、どこがどう痛いのか苦しいのかも分からなくなってきた。

 ここは、お寺の門前町だから、モノは怖くないよ、と教えてくれた祖母の言葉を思い出してしまう。こんな時に。


 どうして、こんなことになったのだろう。

 膿血のような色のモノが、ゆっくりと近付いて来るのを、綾は他人事のように眺めて……


 ひゅん!


 濁った視界を、清洌な銀の光が切り裂いた。


 ずるり、とモノの胴体がずれて、二つになって転がった。

 たてがみが綾の脚に当たり、ぞっとする感覚が這い上る。

 しかしすぐに、モノの骸は消えて行こうとした。


「おい! しっかりしろ!」


 凛とした声が、綾の薄れ行く意識を繋ぎ止めた。

 誰かが、目の前にいる。

 自分ではなく、倒れた母の側にに屈み込み、何かしていた。

 程なく、重く、沈痛な溜め息が、その口から洩れた。


 その人影はすぐに母親から離れると、自分の前に屈み込んだ。


「おい! 生きているか!?」


 触れられたところから、急に苦痛が退いていくように感じられた。

 見えるのは、真っ白な花のようなかんばせ。

 今自分を殺そうとしたのがモノならば、この方は天人だろうか?

 神仏の使いなのだろうか?


 そんなことを本気で信じ込む程に、その女は美しい。

 そう、女。

 橙色と紫の華やかな若衆小袖を纏っているが、確かに女だ。


「生きてるな……今すぐ寛永寺かんえいじまで連れて行ってやるから、少しこらえろよ」


 女に抱え上げられた。

 もう、これで助かった。

 綾はようやく、意識を手離した。



 ◇ ◆ ◇


 救い出した娘を寛永寺の僧に託し、花渡はようやく一息ついた。

 江戸全体に湧き出したモノの中でも、江戸の北東寛永寺周辺には、特に厄介なモノがうろつき、花渡は間断なく神刀を振るう破目になった。


 この辺りに湧き出したモノの特徴として、人を奇妙な病にかからせる瘴気を纏うか吐き出すことがあった。


 立ち上がった妙な色の一つ目の馬やら、人間一人より大きな腐った生首やらが、口から血煙のような赤黒い吐息を吹きかけると、人間は急激な病に倒れるのだ。

 場合によっては、近寄られただけで同じようになり、そのまま急死することも多い。


 幸い、自然の病ではなく、モノがもたらした祟りに近いものなので、寺院で僧侶による祈祷を受ければ、命を失ってさえいなければ大抵回復した。


「はて? あなた様から、ご神気を感じますな……」


 救い出した娘を預けた、それなりの地位にあるであろう僧からそう指摘され、花渡は首を傾げた。


「神気……? ああ、私ではありませぬ、この太刀です。元はさる神社に奉納されていた、ご神刀だそうでございますから」


 江戸の北東――うしとらであるこの辺りに何があったのか、寛永寺の僧侶に詳しく聞き出そうとして、逆に詮索され、花渡は僅かに驚いた。


「……左様でございますか、それ故に、あなた様は疫鬼どもの瘴気をこらえられるのですな? まことに有り難い、あなた様こそ、神が仏法守護のために遣わした聖者に相違ありませぬ」


 深々と頭を下げられ合掌され、花渡は狼狽うろたえた。


「お止め下さい、たまたま運良く神刀を手に入れはいたしましたが、私はただの俗人、けちな女剣客です。それより、一体こちらでは何が起こっているのでしょうか?」


 花渡は、強引に話を自分の聞きたかった方向にねじ曲げた。


「江戸中モノだらけですが、この辺りのモノは、特に厄介なような……江戸をモノから守るはずの、東叡山寛永寺とうえいざんかんえいじの門前町で、モノが人々を害して回っている」


 僧侶は、悲しげな溜め息をついた。


「申し訳ございませぬが、これはご公儀の大事に関わるため、みだりに口には出来ぬのです。お山を守るために剣を振るわれた方に、このようなことを申し上げるのは心苦しいばかりでございますが」


 いかにも苦しげに言葉を洩らす僧に、花渡はそれ以上の追求を止めた。

 多分これ以上の追求は、相手の立場も花渡の立場も悪くするばかりだろう。やはり、自分の目で確かめるしかないようだ。


「いえ、出過ぎたことを申しました。私は、この辺りのモノをしばらく斬り捨てて参ります」


 普段なら、宮大工の鎚音が響いている広大な寛永寺の境内には、モノを折伏するための真言が満ちている。


 うっすら漂う香の香り。

 今まさに、堂内に壇場が結界され、護摩が焚かれているのだろう。

 密教の諸尊がそうであるように、聖域そのものが武装し戦いの構えを取っているかのようだ。


「何卒よろしくお願い申し上げまする。寺社奉行所の方々も、疫鬼相手では分が悪く、手を焼いておられます故」


 苦し気なその僧から依頼される。


 本来なら、こうした寺社が危難にさらされている場合は寺社奉行所が守りに出なくてはならない。

 しかし、多少モノに対する知識と守りの品を持つくらいのただの武士では、この辺りを徘徊している疫鬼には相当手こずらされるはずだ。

 そのくらい、平時の江戸に出るモノとは格が違う。


 寛永寺とその周辺には、寺社奉行所所属の大検使だいけんし小検使しょうけんし手代てだいに同心が揃っていたが、いずれもモノに苦戦していた。


 寛永寺の方でもありったけの魔除け札の類を貸し出して寺社奉行を援護していたが、いかんせん強すぎ、数が多すぎる。

 札でモノの瘴気を押さえても、モノ自身の動きまでは押さえられない。

 いや、そうした効果の札も多少はあるのだが、圧倒的に数が足りず、あっという間に底を突いたらしい。


 寺社奉行所の同心が、四、五人がかりで組み合っているモノを、花渡はあっさりと神刀で斬り捨てた。

 心底からの畏怖の視線を向ける同心と手代を尻目に、花渡は自らの目的地へと踵を返した。

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