第19話「犠牲とは」
紅い飛沫が宙を舞う。
それは、容赦なくイクスの白い肌を汚した。
見れば、ブランシェのに深々と刃が刺さっていた。それは、キルライン伯爵のステッキ、その曲がった持ち手が鎖鎌のように変形して飛んできたのだ。
そして、流血を強いるように食い込んだそれを、鎖で伯爵は手繰り寄せる。
「ハハハ、ダークエルフでも血は赤いのですなあ!」
「っ! くっ! もう許しておけぬ、伯爵っ! もはや元の世界に連れ戻そうとは思わぬ! この異郷の地で死ぬがいいっ!」
「おお怖い! 怖いですぞ、恐ろしい! それでこそ、全ての魔法を修めたスペリオール! 全ての呪文を収めたエクストラ・スクロール!」
「もういい、喋るなっ! 消し飛ばしてくれよう!」
ヤイバは驚いたし、意味不明で混乱した。
ブランシェは、伯爵が魔法を盗むためのツールとして使役している。そういうかわいそうな女の子なのだ。
それを、主たる伯爵が自ら傷つける?
なにか魂胆があると感じた。
その直感が閃きを呼ぶ。
「イクスさんっ! もしかして……回復魔法とかも使えたりしますか!」
「当然じゃ、ワシはスペリオール、全ての魔法を……ハッ! そ、そうかや」
そう、恐ろしく卑劣で狡猾だ。
伯爵はイクスの持っている魔法を全て奪いたいと思っている。そしてそれは「受けた魔法を相手から奪う」という呪いを帯びた、ブランシェを用いることで成就するのだ。
これは、とても悪逆な罠。
気付いたイクスが一瞬、迷いを見せた。
だが、激しい出血の中でブランシェはどんどん赤い泉を広げてゆく。
そして、愉悦にひたるような声で伯爵はイクスの怒りを煽った。
「酷い出血ですねえ、これは死にますよ? ああ、なんて可愛そうなダークエルフ」
「き、貴様……ッ!」
「ああでも、それがよいのでしょう。魔王討伐とその後の残党掃討戦で、あなたがたエルフはダークエルフを絶滅させたのですからなあ! そう、皆殺しにしたのです!」
離れた場所から、ステッキをクイクイと伯爵がしゃくる。
それだけで、鎖の先に伸びた刃はブランシェに出血を強いた。
彼女は悲鳴を噛み殺すように、小さくうなり呻いて涙を零す。
「知っておりますかな? イクス殿。そういう恐ろしい虐殺を、こちらの言葉ではジェノサイドというのです。民族浄化、種族をまるまる一つ消し去る。恐るべき悪行ですぞ?」
「そ、それは」
「まあ、こちらの世界では日常茶飯事らしいですがね。吾輩も驚きました、こっちの人間も我々の世界の人間に負けず劣らず、愚かで弱く、卑劣で悪どい」
言わせておけば……瞬時にヤイバは沸点に達した。
全身の血が燃えるように熱い。
その力に身を委ねて、ためらうことなく彼は刃を握った。ブランシェの胸に深々と突き刺さる鎌の先端を、強く握って抜こうとする。
自分の両手の流血も意に返さず、必死でヤイバは叫んだ。
「イクスさん! 回復魔法を! 魔法は奪われても、取り返せます! でも、命は失われれば戻ってはこない!」
「し、しかし、ワシは……これは、罠じゃ、が」
「イクスさん、お願いしますっ! 魔法を取り返すのは、僕も絶対手伝いますから!」
「……フッ、ワシとしたことが。らしくなかったのう」
イクスはそっとかざした手に、ほんのりと温かな光を集める。
それが広がると、ヤイバの両手の傷が塞がっていった。それで初めて、痛みを感じて、それが消えゆく感覚に驚く。
鎖鎌と化したステッキの持ち手も、もうすぐ抜けそうだった。
そして、ブランシェの致命傷も驚くべき回復力を見せる。
ゲームではHPという数値化された生命力があって、それは薬や魔法で回復する。だが、実際に回復魔法を見ると、それは奇跡としか表現できない御業だった。
その照り返しに、伯爵もうっとりと目を細める。
「おお、なんという癒やしの力……温かいですなあ! 流石はイクス殿、お優しい。いや、実にお優しい! ハイエルフともなれば、エルフの代表としてダークエルフを狩り尽くした者たち……それなのに、イクス殿! いやあ、実に、お優しい」
伯爵がステッキを振るうと。傷のふさがりかけたブランシェが宙を舞う。ヤイバが抜こうとしていた鎖鎌の切っ先は、今度はブランシェの着衣に引っかかって彼女を遠ざからせる。
見れば、ブランシェの姿は下着も同然というか、まるでボンテージだ。
否……拘束具だ。
あくまで物として扱われている、その姿はあまりにも痛々しい。
黒い肌は今、革製の赤いベルトで幾重にも縛られている。それは服ではない……ブランシェを束縛するための枷だ。無数の革ベルトが、たまたま肌の何割かを覆ってるに過ぎなかった。
「くっ、待て伯爵! もうよすんじゃ、ブランシェをそのように」
「そういえば先程から……ブランシェと名付けましたか? このダークエルフ、ブランク・スクロールを。なんと皮肉な」
「なにをっ!」
「ブランシェ、とは古の言葉で純白を表すもの。それをこんなダークエルフに」
「やかましいっ! そこを動くな……今すぐブランシェを解放するのじゃ!」
ヤイバにも、その声が虚しい響であることはわかっていた。
だが、激昂に猛るイクスは、放出する魔力によって翡翠色の髪が逆立っている。
本当に怒っているのだ。
伯爵のやりかたに。
なにより、自分たちエルフが犯した過ちに。
だから、静かにヤイバは一歩前に出る。
「伯爵、一つ質問が」
「ん? なんだね少年! なんでも聞きたまえよ」
「あなたは、世界中から消えた魔法を復活させ、第二の魔王として人類文明と戦う。武力蜂起することで、環境破壊に対する警鐘を鳴らす……これが目的ですよね?」
「いかにも!」
「その目的のために用いる手段として、犠牲ありきの方法論をよしとするんですか?」
一瞬、伯爵は黙って考える素振りを見せた。
だが、息を荒げるブランシェを回収し終えると、再びステッキを元の姿に戻して身を正す。それはまるで、アジテーションに満ちた演説に酔う独裁者の趣があった。
ブランシェはただ、全身を取り巻くベルトの一つを掴まれ、無造作に吊るされている。
「ああ! 少年、それを問われるのは実に辛い。しかし、誰かがやらねばならんのです! ならば、吾輩しかありますまい! そして、理想のための犠牲は、これはしかたがないのです」
「僕はそうは思いません。犠牲はコストやリスクと同列に語っていいものではない、はず」
そして、ヤイバは見た。
先程の回復魔法を表す紋様が、ブランシェの肌に浮かび上がる。
同時に、イクスをびっしりと覆う紋様の一つが奪われた。
最初からこれが目的だった。
罠だと知っても、迷った末にイクスはブランシェの命を助けたのである。そういう彼女の良心につけ込んだ、実に巧妙な罠だったのだ。
「犠牲は尊くもないし、必要でもない。犠牲は犠牲でしかなく、損失である以上の意味があるんです。だから忌避すべきだし、犠牲ありきの手法は正当性がないと僕は思います」
「少年、君は優しい。だが、優しさだけでは世界は救えんのだよ、うんうん」
「優しさがなければ、世界を救う意味もないと思いますが? それと」
そっとヤイバは、イクスの手を握った。
ビクリ! と驚く気配があったが、しっかりとイクスの小さな手が握り返してくる。
互いの体温で汗が交わる中、イクスに寄り添いながらヤイバは言葉を続けた。
「イクスさんって、全部の魔法が使えるんですよ? 例えば……そうだな、核融合レベルの攻撃魔法とか、隕石を無数に降らせるとか……そういうのもほしいんですか?」
「そう! 禁術と呼ばれし古の叡智。それは今、世界のために吾輩が持つべき力なのです!」
「……そんな魔法に、ブランシェが耐えられると思うんですか? イクスさんがその気になれば、ブランシェごとあなたを一瞬で灰にできると思うんですけど」
先日は、雷属性の最強魔法とはいえ、イクスは狙いを伯爵だけに絞っていた。
周囲の被害を気にしてくれたのだろう。
だが、彼女は大魔導師……その気になれば街一つを消し飛ばすくらいはやってのける筈である。そういう魔法を盗むもなにも、媒体たるブランシェが耐えられないと思うのだ。
そして、同時にそうはならないとも知っている。
震えるイクスの手を強く握れば、その人柄が知れるからだ。
そんなことをしてまで、イクスは魔法を守るだろうか?
答は、彼女が伯爵と真逆の人間であるということだった。
「フ、フフ……フハハハハ! 少年、実に聡い! 賢いのだな、少年は!」
「……それって、バカにしてます?」
「いやいや、尊敬にあたいする。その通りだよ、イクス殿の本気の魔力は、無数の禁術をも同時に励起させるだろう。恐るべき殲滅魔法、破壊魔法も多くお持ちだ。だが――」
そう、だがその可能性は実現しない。
それは、イクスが二つの世界……異世界と現実世界、双方のために魔力を搾り、使う魔法も吟味しているからだ。
それが逆に、高い魔法耐性を持つダークエルフのブランシェにはギリギリ耐えられる威力となる。伯爵はそこまで計算して魔法集めを始めたのだ。
「さて、今日もまた一つ魔法を頂きました。では」
「ま、待てぃ! ブランシェを置いていかんか、伯爵!」
「お断りしますぞ、イクス殿。これなるは、スペリオールを目指す空白の魔導書。この者に全ての魔法が集まる時、吾輩の救済が始まるのです!」
それだけ言うと、伯爵は緑の中に消えた。
すぐに追いかけようとするヤイバの袖を、ギュムとイクスが掴む。
手と手を放したあとでも、彼女が震えているのが感じられた。
「よい、もうよい……追っても無駄じゃ」
「でも、今ならまだ。――あっ!」
「そうじゃ、すまんの少年。ワシは走れぬし、お主だけでは危険じゃ」
「また背負いますから」
「お主の身体能力を引き上げる魔法も、見られた……次はそれを奪う手を伯爵は使ってくるじゃろう。悔しいが、完敗じゃよ。今は負けを認めて、冷静になるのじゃ」
まんまと伯爵に、してやられた形になる。
ヤイバは悔しさに、拳を握って己の手を打つ。ギリギリと爪が食い込む音が聞こえそうなほどに、彼は強く拳を握りしめるしかできないのだった。
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