第18話「キルライン伯爵の陶酔的な救世」
ヤイバが思ったのは、カホルが結構体力あるんだなということだった。
昨日の彼女は、ホームセンターからヤイバを乗せて全力疾走で山を登った。ヤイバはといえば、自分より軽いイクスを乗せててもへとへとになってしまった。
だが、晴天の朝に不自然な落雷の数々は、徐々に近付いてくる。
「よし、ここからは歩くぞよ」
ヤイバが完全に息切れしてしまったところで、イクスは自転車から飛び降りた。
そして、杖を突いて背後へそっと振り向く。
あげた手からほのかな光が広がって、そして空気が変わった。
なにが変わったかわからないが、なにかしらの魔法が励起した気配があった。
「人払いの結界じゃよ。一般人に入ってこられるとややこしいことになるからのう」
「ど、どうも。なんか、気を遣わせちゃってるね」
「きにするでない、少年。ワシの世界のバカは、ワシ自身がけじめをつけねばならんでのう」
そういうと、杖に頼ってイクスはぽくぽくと歩き出した。
そのゆっくりとした足取りに合わせて、ヤイバも横に並ぶ。
イクスに僅かな焦りを感じた。
だが、彼女は走らない。
走れないのだ、もう。
「失敗したのう。ほうきかなにかを持ってくればよかったわい」
「ご、ごめん。僕にもう少し体力があれば」
「いや、いいんじゃ。少年はよく頑張った。ここからはワシの領分……いざとなったら、怪我せぬように逃げるんじゃよ?」
「……考えときます」
はいとは言えなかった。
言いたくなかった。
イクスを置いて逃げるなんて、まっぴらごめんだ。
それくらいの気概はヤイバにだってあるのだ。
そうこうしていると、一般人立入禁止のフェンスにぶち当たった。
その向こうで今も、雷が轟いている。
「どれ、対城魔法でも久々に使うかのう」
イクスが手をかざすと、また光が走った。
そして、まるで熱を帯びた飴細工のように金網がとろけてグニャグニャに崩れ落ちる。
「これは敵の拠点の城壁やなんかを崩す魔法じゃよ」
「す、凄い」
「さ、進むぞ少年。……伯爵め、今度こそ捕らえてワシの世界に連れ戻してやろうぞ」
それは、イクスも一緒に帰ってしまうということだろうか。
イクスは老後、この百年という短い時間を、最期の時をどこで迎えるつもりだろう。
ちょっとそれが気になったが、今は聞き出せる雰囲気じゃない。
そう思って先に進むと、不意に頭上から声が降ってきた。
「お待ちしておりましたぞ、イクススロール殿!」
見上げれば、茂る森のその上、一際高い巨木の上に人影がある。
間違いない、キルライン伯爵だ。
彼はいつもの芝居がかった所作で、慇懃に頭を垂れる。
しかし、そこには畏敬の念など存在しないのだ。
彼にとってイクスは、ただの生きた魔導書なのである。
「伯爵、すぐにやめよ! ブランシェに魔法を使わせておるじゃろ!」
「ふふふ、近代文明といえばエネルギーは大半が電力! おお、大気を汚して海を穢して、そうしてできた電気! これは成敗せねばなりますまい?」
「ええい、言葉が通じても話が通じぬ! そこを動くなっ!」
とっさにイクスが魔法を放とうとして、ワンテンポの空白が一瞬訪れる。
そうして放たれた光弾は、軽々と伯爵に避けられた。
今、イクスに躊躇があった。
手加減した魔法だったろうが、ブランシェに当てれば奪われてしまう。そのブランシェだが、奥から響く轟雷のその根本にいるのだろう。
そして、ヤイバはもう一つイクスの懸念を拾った。
「あ、あの、伯爵!」
「おや? あの時の異世界人……ふむ、名は」
「都牟刈ヤイバです。その、ブランシェちゃんは大丈夫なんですか?」
「うん? 大丈夫、とは? 妙なことを気にしますね、少年」
なんとなく、嫌悪感が込み上げた。
イクスに少年と呼ばれる時、親しみや敬愛、なんていうかかわいい孫を呼ぶような雰囲気がある。だが、伯爵が使う少年という言葉には、半人前の人間を見下す響があった。
それでも気にせず、言葉を続ける。
「あの、ブランシェちゃんは……あんな大魔法を連発できるような魔法使いなんですか?」
「ふむ、ブランク・スクロールの魔力ですな? まあ、死にはしないでしょう。幼くともダークエルフ、人間とは別格の魔力を持っておりますからな」
ぴくん、とイクスの長い耳が硬く尖った。
彼女の怒気を表すように、ピンと耳が立つ。
イクスは今、静かに憤っていた。
彼女が握りしめる杖が、ギリギリと音をたてるように感じる。
だが、イクスはゆっくりと再び歩き始めた。
「ブランシェはいくつじゃ? ワシは魔王が倒されて10年、数えるほどしかダークエルフを見ておらん」
「そうでしょう、そうでしょうとも! 貴方がたエルフは、魔王軍に加担したダークエルフを迫害した! 差別したんです! そして、民族浄化を行った」
「魔王軍の残党狩りのことかや? そうじゃ、ワシらがダークエルフを滅ぼした」
「そう、そうして10年で亜人たちも滅び去った……まあ、ブランク・スクロールも世界で最後のダークエルフかもしれませんねえ!」
基本的にエルフは、外見的な年齢がわからない。
老人のイクスだって、見た目は若い少女で、ともすれば幼女とさえ言える。
そして、ブランシェはさらに若く見えた。
ヤイバよりは年上としても、100年も生きていないのかもしれない。
当然、その魔力はイクスとは比べ物にならないほど未熟だろう。
「伯爵、のけい! 次は当てるぞよ? それも、手加減なしの大魔法での」
「おお怖い! 恐ろしい! 世界最後の魔導書、エクストラ・スクロール! 全ての呪文を修めし、スペリオール!」
「やめい! お主に言われると怖気がするわい」
「魔法でしたら是非ブランク・スクロールに……今日もまたなにか、書き写させていただければ光栄ですぞ! イクスロール殿」
駄目だ。
腐っている。
理想をかざして、手法は非道。そして外道の極みだ。
伯爵はブランシェを、完全に魔法集めの道具としか見ていない。
それがわかって、ヤイバは嫌な汗に額を手で拭った。
異変が起こったのは、そんな時だった。
「おや? 落雷が……おさまりましたな。やれやれ、根性のない。魔力切れというとこでしょうなあ」
手に持つステッキをブンブン回して、枝から枝へと伯爵が下がってゆく。
それをヨロヨロと追いかけるイクスは、いかにもむず痒そうに表情を歪めていた。
それでヤイバは、残った体力に全てをかけて駆け寄る。
「イクスさん、僕の背に!」
「少年、しかし」
「なんかこう、身体能力の強化みたいな魔法、あるでしょ! 使ってください!」
「おお、そうかや! すまんが力を借りるぞよ、少年!」
すぐにイクスを背負って、ヤイバは走り出す。
いくつかの魔法が身体の中へと不思議な力を満たしていった。
魔法を受けた人間なんて、この世界では自分とその両親くらいではないだろうか。ともあれ、無限にも感じられる胆力が湧き上がってきた。
普段の運動が苦手な自分が嘘のような走り。
頭上を逃げる伯爵も、ヤイバを肩越しに振り返って嬉しそうに笑っていた。
「素晴らしい! その魔法も欲しい! 流石は世界最後のハイエルフ!」
「少年、ちょっと頭をさげるのじゃ! ――ハッ!」
気迫を小さく叫んで、イクスの手から再び魔法が放たれる。
だが、伯爵は迫る無数の礫を、ステッキを傘のように開いて防御した。
多分あれは、向こうの世界で科学が生み出したもののようだ。同時に、もしかしたらなにかしらのマジックアイテムかもしれない。
氷魔法のようで、どんどん傘が凍ってゆく。
しかし、伯爵には全くその冷気は届いていなかった。
「むう、脚を凍らせればもしやと思ったが」
「イクスさん、あれ! あれを見てください!」
やがて視界が開けて、変電所らしき建物が見えてきた。
周囲に職員たちの気配はなく、建物自体が白煙を巻き上げている。
そして、入口の門の前に、小さな女の子がへたりこんでいた。
間違いない、褐色の肌はブランシェだ。
振り返る彼女の額に、一つだけ魔法の紋様が光っている。
以前イクスから奪った、雷系の最強魔法だ。
だが、その稲妻の輝きも今はない。
「酷く弱っておる……少年、ワシをブランシェのもとへ!」
「はいっ!」
やはり思った通りだった。
ブランシェはイクスと違ってまだまだ本当の子供、その魔力量には限りがあるのだろう。その証拠に、振り向く彼女はもう、自分で立てない程に疲弊していた。
すぐに駆け寄り、ヤイバはイクスをおろす。
だが、次の瞬間……視界が真っ赤に染まった。
それは、飛び散る鮮血の赤だった。
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