第3話「異世界の10年、現実の20年」
なんやかやで、もうじき昼時という時間になった。
ヤイバは今夜の夕食用に用意していた牛肉を解凍し、昼食の準備に取り掛かる。母のミラは己を肉食系と言ってはばからない女性で、朝昼晩ALL肉料理でも喜んでくれる。
とりあえず、今日はイクスもいるので、さてどうしようかと振り向けば。
「むむっ、こっちの板は絵の映るラジオじゃと? 馬鹿な、活動写真が家で見られるのかや!? こっちの小さな板は……これが書物にあるタブレットなるものか。ふむ!」
イクスは今、夢中で広辞苑や百科事典を読み漁っている。
そうして凄い速さでページをめくりながら、テレビを見てタブレットをいじっていた。
どうやら退屈していなさそうで、ヤイバも料理に集中できそうだった。そして、キッチンのテーブルの上には、イクスが持ってきてくれた古風なラジオが歌っている。
異世界の電波で王国の放送が聴けるのは、先程イクスが両世界をゲートで繋いだ余波らしい。物の行き来こそもうできないが、小さな穴が数週間は残ってしまうそうだ。
「異世界ラジオを聴きながらの料理、ね……悪くないけど」
牛肉は贅沢に厚切りステーキにすることにして、付け合せやサラダの調理に取り掛かる。ご飯はもうすぐ炊けるし、味噌汁はインスタントで済ませることにした。
その間も、やや不鮮明な声だがラジオ放送がゆっくりとたゆたう。
「そういえばさ、イクスさん。異世界の言葉、日本語みたいだけど」
「ああ、それはワシが魔法で中継しているからじゃ。ワシが指定した空間内では、空気の振動を規則的に調律して、異世界語を日本語にしておる。日本という国じゃったよな、ここ」
「ああ、なるほど。じゃあ、イクスさんが日本語の本を読めるのは」
「それは単純に、ワシが知ってるからじゃ。10年前、ツルギとミラに習ったのよな、グフフ……っと、これは! ややや、奇っ怪な……日本の科学技術、凄いのう!」
よくわからないが、エルフという種族は知識欲、探究心や好奇心が強いらしい。ヤイバにとっても、知的な種族のイメージがあるので妙な説得力を感じた。
エルフとは、森の妖精とも呼ばれる亜人種だ。
ファンタジー世界ではお馴染みで、必ず美男美女ばかりで外見的には歳を取らない。そして、酷く長寿で弓や魔法に長けるというのが定番である。
そんなことを思い出していると、ラジオは音楽から朗読劇へと切り替わった。
聴いたこともない弦楽器の妙にオリエンタルな楽曲が去り、朗々と役者たちが芝居がかった台詞を並べ始めた。
『見よ、あれぞ魔王城! 今こそ決戦の時だ! ミラ、そしてイクスロール! 俺に続けっ!』
『そう叫ぶや否や、大賢者ツルギは杖を振りかざす。するとどうだろう、魔王城に垂れ込める暗雲の中に、虹の橋がかかったのである』
『ああっ、ツルギ様! わたくしが必ずお守りします。さあ、イクスロール! 共に参りましょう!』
おいおい、誰だこれ……と、思わず苦笑が込み上げる。
創作劇らしいが、史実を下にしているならヤイバの両親、ツルギとミラの若かりし頃の冒険活劇というところだろう。
ヤイバにあまり父親の記憶は無いが、こんな勇ましい勇者感バリバリの人ではなかった。その名の通り切れ者の一面を度々見せるが、基本的にはのんびりとした温厚な優しい人だった。幼い頃の父は、いつも医者として忙しそうに働く合間に、よくヤイバと遊んでくれたものである。
そして、母のミラはといえば――
「たっだいまー! うーん、いい匂い! 先にお風呂入るね、その後昼飯、ニ時間の仮眠! 夕方にはまた研究所に戻るから!」
突然、快活で闊達な声が叫ばれた。
同時に、ガラガラと玄関の戸が開いて、バタバタと一人の女性が上がり込んでくる。短く切りそろえた黒髪に、シャンとスーツにタイトスカート姿の才媛才女だ。彼女はその仮面ごと衣服を脱ぎ散らかしながら、居間を横切り洗面所へ直行してゆく。
「あ、母さん。あの、お客さんが」
「いいの、あとあと! 一緒にお昼でも食べてってもらえば?」
「えっと、お客さんっていうのは……」
「っと、洗濯物は……全部一緒でいっか! あー疲れた! っと、いけない!」
ドスドスと強い歩調で母は戻ってきた。
下着姿で冷蔵庫を開けながら、缶ビールを一本取り出す。
風呂上がりのビールならぬ、入浴中のビールというやつだ。
ヤイバはこの、奔放で豪快過ぎる母親に動じることはない。仕事一筋のキャリアウーマンで、もう何年も見慣れた光景だったからだ。
「母さん、お客さんの前でその格好はないでしょ。ほら、あの人」
「んー? ……あれ、やだ、嘘……イクス? イクスロールじゃない。え、なんで!?」
「久しいのう、ミラ。……相変わらず騒がしくて忙しい奴じゃ。うん、元気そうでなによりぞ」
流石のミラも固まった。
ヤイバはやれやれと、脱ぎ散らかされたスーツを拾いハンガーへと整える。
同時に、イクスは立ち上がるやトテトテとミラの前に歩み出た。
「お主もデカくなったのう。……というか、少し太っ、あ、いや、ふっくらしたかや?」
「う、うっさいわね! あたしももう34だもの。……ふふ、20年ぶりくらいね」
「やはりか……ワシの世界では10年しか経っておるんじゃが」
「あら、あたしは知ってたわよ? こっちに戻った時、異世界の数ヶ月がだいたい二倍、半年になってたもの」
「なるほど、時間の流れが違うからかのう。なんにせよ、久しいの、友よ」
「おうっ! あ、イクスもお風呂入る? ほら、ビールもあるし! ほら、いこいこっ!」
小さなイクスを抱えるようにして、ドタバタとミラは洗面所の奥に消えた。
その背を見送り、やれやれとヤイバも肩を竦める。
母親のミラは今年で34歳になる。息子のヤイバが見ても美人で優しく、気立てがよくて、そしてラジカルでワイルドだ。シングルマザー特有の強さがあるし、我が道を行くタイプの女性なのだった。
浮いた話を一つも聞いたことがないのは、ヤイバというコブ付きだからだけじゃない。
ヤイバが父親は一人だと思うように、彼女にとっても夫はまだまだ一人しか考えられないのだと思った。
『さあ、イクス! 援護して、わたくしが突撃しますわ! 必ずツルギ様に勝利を!』
「……いやいや、そういうキャラじゃないでしょ、母さん。まあでも、後の世の創作ってだいたいこんな感じかな」
ラジオからは、どこかチープな効果音を織り交ぜオルガンで音楽がなっている。その中を、キン! キン! キン! と剣戟と爆発が演じられていた。
あっちの世界では10年前の、偉大な救世主にして大英雄の一大叙事詩だ。
それを聴きつつ、ヤイバは料理の続きに戻る。
だが、賑やかな風呂場からの声は丸聞こえで、少しラジオのボリュームを上げざるをえなかった。
「ちょっと、イクス……あー、エルフだから? 全然っ、変わらないわね!」
「当然じゃ、成人してから数千年、ずっとこの体型ぞ? それに比べてお主ときたら」
「ちょっと、つままないで! 引っ張らないでってば! 研究者は慢性的な運動不足になっちゃうの! この、ロリボインめっ! こうだ、こう、こうっ!」
「ま、待て待て、よせ、よすのじゃ! ……と、ととっ、ふう。ちょっと手を貸してくれんかのう。最近は沐浴も一人では億劫じゃて」
「なにを年寄り臭いこと言ってんの。ほら、手を取って」
懐かしの戦友、同志の再会。
賑やかで華やかで、ミラもなんだか普段より浮かれたように話が弾んでいる。
毎日が仕事で忙しく、家にいないからヤイバとは会話も少ない。だが、LINEやメールで頻繁にやり取りしているし、こうして忙しい中でも時間を作って帰ってきてくれる。
ミラがなんの研究をしているかはわからない。
ただ、お給金がいいのと、夫の医療分野に関わりの大きい仕事とだけ聞いていた。
「くそー、肌がツルツル、髪も翡翠みたいにツヤツヤ……長命種むかつくー」
「ニフフフフ! 羨ましかろう、羨ましかろう定命種。じゃがまあ、ワシとて不死身ではない。ヴァンパイアの真祖や魔王たちのようにはいかんよ」
「なによ突然……何千年も生きてるんでしょ?」
「うむ、じゃからそろそろじゃ。長寿とて命には限りがあるもの。ワシも、もうな」
二人の会話が少しトーンダウンした。
聴く気はないのだが、都牟刈家は古い木造家屋なので防音性などないに等しい。
「あちらの世界ではあのあと、人間たちの手で復興が始まったんじゃ。同時に、魔王と戦うための盟約も失効し、エルフたちは森へ、故郷へ帰った」
「そう、だったんだ……それで? 10年経っても平和? あの人の……ツルギの守った異世界は」
「平和そのものじゃよ。人間たちは独自に魔法を封印し、争いが起こらぬように多くの法を布いた。錬金術の研究が盛んになり、魔法は廃れ……そして、エルフやドワーフ、ホビットは皆、滅びた」
「え、ちょっと、なんで?」
「もともと、魔王を倒すために協力していたのが亜人種たちじゃからのう。それに、人間の生存圏と文明レベルが広がり過ぎて、古き種は絶えてしまったのじゃよ。エルフなんか、もうワシ一人かもしれん」
ヤイバも流石に驚いた。
それほどまでに、魔王との戦いは異世界に色濃く深い傷を刻んだのだ。
湯船につかっているのか、少し反響したイクスの声が響く。
「当時、追い詰められたワシたちは禁忌を犯した。禁断の秘術、封印されし禁術を復活させ、その一つを使って救世主を召喚したのじゃ。それがお主とツルギよ」
「それは聞いてたけど……まさか、あたしたちが帰ったあとに」
「皆、殺し殺されて減り過ぎた。僅かな数から再び増えて地に満ちたのは、人間だけじゃったんじゃよ。それに、魔法を忘れたことによって逆に、科学がより世界を豊かにした」
「……なんで魔法、駄目になっちゃったの?」
「もともと、魔王を倒すための外法、それが魔法故な。魔王が倒されれば無用となろうし、手放さねば次の災いをもたらすと人間たちは考えた。無論、ワシを含むエルフたちも、他の種族たちもそれに応じたのよ」
魔王を倒すための、外法。
故に、魔法。
その全てをイクスは使いこなし、惜しまず父ツルギに与えたという。そうして、異世界から召喚されし二人の英雄とイクスで、魔王は無事に倒されたのだ。
めでたし、めでたし。
とは、とても思えない。
ただ、ラジオが歌う英雄譚が盛り上がるほどに、ヤイバの肉を焼く手が微かに凍えるのだった。
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