真夜中の会話

 深夜、母さんは一人でダイニングにいた。


 薄暗い照明の下、自分の席に腰掛けて、飲んでいる途中と思しきカップを両手に持ち、真顔で宙を眺めていた。きっと、疲れているのかもしれない。

 とうさんと代わりばんこに、とはいえ、一日中赤ん坊の面倒を見るのは大変なんだろうな。記憶にあるよりも、母さんの顔は疲れて見える。たまにはスイッチを消してぼうっとしていたい時もあるはず。

 まあ、二人で暮らしていた時も、こういう瞬間はあったけれど。

 話し掛けたら睨まれることを知っている。それだけじゃなくて、いつまで起きているの、早く寝なさい、そんなんだから背が伸びないのよって怒鳴られることもあるから、黙って離れるのが正解だ。

 喉の渇きなんて、寝れば消えるだろう。

 何も言わずに出ていこうとしたら、丙吾、と名前を呼ばれた。静かな声だ。このパターンは珍しい。……いや、はじめてだ。


「何?」


 今夜は何て言われるんだろう。じっと見ていたら目が合った。


「少し、話さない?」

「……」


 本当に、珍しい。

 いつもは、いつもなら、母さんが言いたいことを一方的に捲し立てて、僕がそれに頷くだけ。わざわざ僕に許可を求めてきたりしてこなかったのに。

 黙っていると、嫌ならいいの、ごめん、とまで言われた。……かなり疲れているな、母さん。そんなこと僕に言わない人なのに。こんな所にいないで早くベッドに横になるべきだ。

 それを言おうと母さんの元へ近寄れば、どうやら肯定と受け取ったようで、母さんはゆっくり話し出す。


「とうさんね、ラピュタパンを作る練習をしているの。アニメの通りに再現したり、ネットにあるアレンジレシピを見たりして、暇な時にいつも頑張ってる。どれもこれも美味しそうよ。あんたもきっと食べたくなるわ」

「……そう」


 ああ、なんだ。

 そんな言葉が思い浮かんだ。


「作ったやつ、私も食べているんだけどね、とうさんが主に頑張って食べているの。だからなのか、なんだか前よりも太った気がするのよね」

「……確かに」

「散歩を勧めるか、何かダイエット機具を買ってあげた方がいいかしら」

「……健康の為に、その方がいいかもね」


 話しているとだんだん、首を布で絞められていくような気分になっていった。とうさんと直接話している時よりマシだけれど、とうさんの話題だからか、身体が拒否反応を起こしているらしい。

 そんな話なら、いもうととすればいいのに。とうさんの実の娘なんだから。

 片手で首を擦りながら、後ろ向きに退がっていく。大丈夫、配置的にぶつからない。


「丙吾」

「ごめん、母さん。もう寝るよ」

「……そう」


 おやすみと告げる声には、ほんのり落胆が混ざっていた。

 おやすみなさいと返して廊下に出ると、気持ち足早に自室に向かう。母さんとの会話の内容は、頭の中の隅に追いやる。残っていいものじゃないから。

 自室に入って扉を閉めると、深呼吸を何度か繰り返す。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。気持ちが落ち着いてきたらベッドに、いや、机に向かった。


「……」


 昔から母さんは片付けにうるさく、少しでも散らかしているとすぐに雷が落ちてきて、それが嫌だから、常に整理整頓を心掛けてきた。

 教科書もノートもペンケースも、あるべき所に。机の上には──白熊が一体いるだけ。

 白熊さんにもらった白熊のぬいぐるみ。

 それをそっと持ち上げて、高い高いをしてみた。元から笑顔の白熊だけれど、喜んでいるように見えるのは何なんだろう、疲れているのか。


『あざらし君さ、この子に何か名前を付けてあげたら?』

「……っ」


 高い高いの手を止める。

 くりくりとした栗色の目と見つめ合うことに。

 ほんのり黒く汚れているけれど、それが可愛さを損ねることはなく、可愛いもの好きな人からすれば、抱き締めずにはいられなくなるんじゃないんだろうか。

 こんな可愛い子をもらって、本当に、良かったのかな。


「……名前、か」


 白熊さんも自分の白熊に名前とか付けているのか。けっこうな数いたけれど、ちゃんと覚えているのかな。だとしたらすごいな、愛が。

 ──うん。

 目がくりくりしているから、くりりん? ……何か、坊主頭の少年を思い出す。駄目だ、これはよそう。

 なら、何がいいんだろうか。

 じっと見ていても、これという名前は思い浮かばず、だんだん眠くなってきたから横になった。その後の記憶がないからすぐに夢の世界に入ったのかもしれない。

 目が覚めると驚いたことに、顔のすぐ傍に白熊がいた。机の上に置いた気がしたけれど、うっかり連れてきたみたいだ。


「……おはよう」


 当然ながら返事はなかった。あったら逆に怖いじゃないかと自分で自分に突っ込んだら、思わず笑いが溢れていた。

 愛想笑いじゃない、自然な笑い。

 なんだかおかしくて、笑いが止まらなくなり、落ち着くまで白熊を抱き締めた。背中を撫でると柔らかな毛並みが気持ちいい。


 ああ、ずっとこうしていたいな。

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