肆
真夜中の会話
深夜、母さんは一人でダイニングにいた。
薄暗い照明の下、自分の席に腰掛けて、飲んでいる途中と思しきカップを両手に持ち、真顔で宙を眺めていた。きっと、疲れているのかもしれない。
とうさんと代わりばんこに、とはいえ、一日中赤ん坊の面倒を見るのは大変なんだろうな。記憶にあるよりも、母さんの顔は疲れて見える。たまにはスイッチを消してぼうっとしていたい時もあるはず。
まあ、二人で暮らしていた時も、こういう瞬間はあったけれど。
話し掛けたら睨まれることを知っている。それだけじゃなくて、いつまで起きているの、早く寝なさい、そんなんだから背が伸びないのよって怒鳴られることもあるから、黙って離れるのが正解だ。
喉の渇きなんて、寝れば消えるだろう。
何も言わずに出ていこうとしたら、丙吾、と名前を呼ばれた。静かな声だ。このパターンは珍しい。……いや、はじめてだ。
「何?」
今夜は何て言われるんだろう。じっと見ていたら目が合った。
「少し、話さない?」
「……」
本当に、珍しい。
いつもは、いつもなら、母さんが言いたいことを一方的に捲し立てて、僕がそれに頷くだけ。わざわざ僕に許可を求めてきたりしてこなかったのに。
黙っていると、嫌ならいいの、ごめん、とまで言われた。……かなり疲れているな、母さん。そんなこと僕に言わない人なのに。こんな所にいないで早くベッドに横になるべきだ。
それを言おうと母さんの元へ近寄れば、どうやら肯定と受け取ったようで、母さんはゆっくり話し出す。
「とうさんね、ラピュタパンを作る練習をしているの。アニメの通りに再現したり、ネットにあるアレンジレシピを見たりして、暇な時にいつも頑張ってる。どれもこれも美味しそうよ。あんたもきっと食べたくなるわ」
「……そう」
ああ、なんだ。
そんな言葉が思い浮かんだ。
「作ったやつ、私も食べているんだけどね、とうさんが主に頑張って食べているの。だからなのか、なんだか前よりも太った気がするのよね」
「……確かに」
「散歩を勧めるか、何かダイエット機具を買ってあげた方がいいかしら」
「……健康の為に、その方がいいかもね」
話しているとだんだん、首を布で絞められていくような気分になっていった。とうさんと直接話している時よりマシだけれど、とうさんの話題だからか、身体が拒否反応を起こしているらしい。
そんな話なら、いもうととすればいいのに。とうさんの実の娘なんだから。
片手で首を擦りながら、後ろ向きに退がっていく。大丈夫、配置的にぶつからない。
「丙吾」
「ごめん、母さん。もう寝るよ」
「……そう」
おやすみと告げる声には、ほんのり落胆が混ざっていた。
おやすみなさいと返して廊下に出ると、気持ち足早に自室に向かう。母さんとの会話の内容は、頭の中の隅に追いやる。残っていいものじゃないから。
自室に入って扉を閉めると、深呼吸を何度か繰り返す。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。気持ちが落ち着いてきたらベッドに、いや、机に向かった。
「……」
昔から母さんは片付けにうるさく、少しでも散らかしているとすぐに雷が落ちてきて、それが嫌だから、常に整理整頓を心掛けてきた。
教科書もノートもペンケースも、あるべき所に。机の上には──白熊が一体いるだけ。
白熊さんにもらった白熊のぬいぐるみ。
それをそっと持ち上げて、高い高いをしてみた。元から笑顔の白熊だけれど、喜んでいるように見えるのは何なんだろう、疲れているのか。
『あざらし君さ、この子に何か名前を付けてあげたら?』
「……っ」
高い高いの手を止める。
くりくりとした栗色の目と見つめ合うことに。
ほんのり黒く汚れているけれど、それが可愛さを損ねることはなく、可愛いもの好きな人からすれば、抱き締めずにはいられなくなるんじゃないんだろうか。
こんな可愛い子をもらって、本当に、良かったのかな。
「……名前、か」
白熊さんも自分の白熊に名前とか付けているのか。けっこうな数いたけれど、ちゃんと覚えているのかな。だとしたらすごいな、愛が。
──うん。
目がくりくりしているから、くりりん? ……何か、坊主頭の少年を思い出す。駄目だ、これはよそう。
なら、何がいいんだろうか。
じっと見ていても、これという名前は思い浮かばず、だんだん眠くなってきたから横になった。その後の記憶がないからすぐに夢の世界に入ったのかもしれない。
目が覚めると驚いたことに、顔のすぐ傍に白熊がいた。机の上に置いた気がしたけれど、うっかり連れてきたみたいだ。
「……おはよう」
当然ながら返事はなかった。あったら逆に怖いじゃないかと自分で自分に突っ込んだら、思わず笑いが溢れていた。
愛想笑いじゃない、自然な笑い。
なんだかおかしくて、笑いが止まらなくなり、落ち着くまで白熊を抱き締めた。背中を撫でると柔らかな毛並みが気持ちいい。
ああ、ずっとこうしていたいな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます