哀愁漂う背中、可愛い顔
振り返る余裕なんてなく、ただただ、転ばないよう気をつけるのに精一杯で、二人に別れを告げるのはもちろん、視線を向ける余裕すらない。
屋内に入ると同時に、腕を掴む感触が消え、間もなく、耳障りなシャッターの閉まる音が聴こえてきた。
「お疲れ様」
僕を引っ張った相手の声は、シャッターの音にも負けることなく耳に届く。低くて、平坦な、いつも通りの──白熊さんの声。
視線を向けると、白熊さんは出入口のすぐ傍にある壁の前に立っていた。いつかのように、シャッターの操作盤に触れていたのかもしれない。
黒い半袖のシャツを身に纏う白熊さん。見つめ返してくるその顔には、笑みも何もありはしない。
「写真は撮れた?」
「はい、いくらか」
「そう、ありがとう」
僕への礼を口にすると、白熊さんの足が動き出す。近寄ってくるのかと思って、一瞬、斑鳩さん達のいる方に視線を向けたけれど、既にシャッターは閉まる寸前で、その姿を見ることは叶わなかった。
自衛。
斑鳩さんに言われた言葉。白熊さんが気を付けないなら、僕がちゃんとしないと、また何か誤解されてしまう。そうなったら、その、やっぱり少し、恥ずかしい。
自衛、しないと。
小さく吐息を溢し、ささやかな覚悟を決めて、白熊さんと向き合おうとしたけれど、予想に反して、白熊さんはショーケースの方に向かっていた。
「ベルーガにさ、改めて何か言われた?」
「……っ」
まさに、そのことについて考えていたものだから、息が止まりそうになる。
確かに言われた。言われたけれど、それを本人に言っていいものか。
「……その」
「ベルーガは気にしいだから、色々言ってきたと思うけどさ、別に気にしなくていいよ」
背を向けられているので、白熊さんがどんな顔をしているのかは分からない。彼はおもむろに、ショーケースの上にいつも飾っている、白熊のぬいぐるみ達の中から一体手に取って、静かに高い高いとやっていた。
「……」
気にしなくていいと言われても、やっぱり僕らの距離感は、斑鳩さんに指摘されるくらいには近すぎたわけで、自衛、自重、した方がいいんだろうな、と思う。
そんな僕の思考が、言葉にしなくとも察せられたのか、あのね、と言った白熊さんの声が、いつもより低くなっていた。
「あざらし君が俺の蝶を見たがってくれるの、わりと嬉しいんだよ。これ、色んな人に拒まれてきたからさ。……いいんだよって、言われた気分になる」
その声音は、どこか淋しげに聴こえる。
「だからさ、気にしないで。これからも変わらずに見てよ」
高い高いの手を止めて、丸まっていく白熊さんの背中はやけに小さく見えた。
「……っ」
──いいんだよ。
そう言ってくれるのは、むしろ白熊さんの方じゃないか。
蝶を見せてくれるのも、この店で雇ってくれるのも、白熊さんが許可してくれたからで、僕はそれに甘えているだけなのに。
斑鳩さんの言葉を、一端、一端頭から追い出し、一歩、白熊さんの方へ足を踏み出す。
ポケットに入れていたカメラを取り出して、また一歩。
「白熊さん」
名前を呼ぶと、ゆっくりと白熊さんは振り向いてくれる。無表情のまま、何を考えているかは読み取れない。
一歩、二歩と進んでいき、人一人分の距離をあけて、立ち止まる。向き合う白熊さんの顔を見上げながら、手の中のカメラを見せた。
「撮った写真、見ませんか。動画も、撮り方教えてもらったので、それも合わせて、一緒に」
「……一緒に?」
「一緒に、見ましょう!」
声が大きすぎたかもしれない。どうでしょうと白熊さんに問い掛ける声は、気持ち小さめにした。
白熊さんが、隠している蝶を見せてくれるのは嬉しい。むしろ見てほしいなんて、願ってもない言葉。
それでも今日、斑鳩さんと話して、白熊さんとも話して、距離感について少し考えたし、これからも考えることになりそうだけれど、今この瞬間は考えるのをやめておきたい。
──あんな背中見たら、何か、してあげたくなるだろう。
その何かが、一緒に写真や動画を見るっていうのが、この場合、間違っているか否かは分からないけれど。
白熊さんは、
「……そうだね、うん、その時の状況とか知りたいし、一緒に見ようか」
そんな返事と共に、微笑んでくれたから、内心ほっとした。
ベンチに座ろうかと促され、一緒に向かう。白熊さんの手には、高い高いをしていた白熊のぬいぐるみがまだあった。
置いていかないのかなと思いながら、横並びにベンチに腰掛けるなり、すっと、その白熊を差し出される。
「この子、覚えてる?」
「……ぁ」
白熊のぬいぐるみは、全体的にぼんやりと黒く汚れていた。覚えがある。これ、この子、僕の頭に落ちてきた子だ。
ほらと言われるがまま、カメラを持っていない方の手で受け取ると、入れ替わりにカメラを持っていかれる。さすが持ち主、慣れた様子で操作していた。
視線を白熊のぬいぐるみに向ける。つぶらな瞳は栗色、丸い顔は笑っているように見えた。両手でしっかり支え、じっと見つめていると、俺ね、と白熊さんが話し出したから顔を上げる。
「知り合いになった人には全員、白熊の布教をしてるの。──白熊は魅力的な、地上最強の動物。なのに、絶滅危惧種に指定されている」
「みたいですね」
「柔らかそうな肉体に毛並み、思わず触れたくなる愛らしさ。にも関わらず、一振で野生のあざらしを気絶させられるほどの腕力を……あ、ごめん」
「……? ……ああ、お気になさらず」
「とにかくね、ギャップの塊なんだよ、白熊って。白熊は可愛い、愛らしい」
「たし、かに」
白熊さんにしては珍しく、やけに早口だった。
「その魅力をさ、日常的に感じてほしいんだよ。だからその子、受け取ってよ。その子が今回の報酬」
「は……ええっ?」
この子を?
「そんな、白熊さんの大事な白熊じゃないですか。いくら布教でも、悪いです。この子だって白熊さんといたいと思いますよ」
「よく考えてみてよ、あざらし君。その子は二回、落ちている所を君に拾われている。何かと君に縁がある子なんだ。その子ほど君にぴったりな子はいないと思うよ」
「……そんな」
受け取れないですとか、言いにくくなるようなことを……。
再び白熊に目を向けると、変わらず笑っているように、いや、妙に目が輝いて見えるのは気のせいか。
「その」
白熊さんに白熊のぬいぐるみと、期待の込められた視線が二つ。
「えっと……」
「それとも、あざらし君は白熊、嫌いな人だった?」
「全然そんなことはないです!」
即答した。これは即答しないと僕の首が危ない。
「ならさ、受け取ってよ」
「うっ」
「あざらし君」
じりっと、にじり寄られ、斑鳩さんの三白眼がちらつく。まだベンチにはスペースがあるから、逃げることもできるけれど、どんな顔をさせてしまうか分からない。
なので、立ち上がった。
立ち上がって、白熊のぬいぐるみと見つめ合う。可愛い。全体的に柔らかい。
まあ、こんなにも受け取ってほしいと言ってくれているのだから、ここはお言葉に甘えて、うちに迎えようか。……もしかしたら、家の中でも少し、気が楽になるかもしれないし。
「その、よろしくお願いします」
白熊のぬいぐるみに向かって軽くお辞儀すると、横から拍手が聞こえてきた。
白熊さんにもついでにお辞儀して、ベンチに座り直した僕は、白熊のぬいぐるみを膝の上に乗せ、白熊さんが持ってくれているカメラを一緒に見ながら、色々と説明していく。
さて。
僕も、そして白熊さんも、この白熊のぬいぐるみがきっかけで、ああいったことになるとは、まるで想定していなかった。
人鳥ならふざけて、こう言ったりするんだろうか。
──可愛いって、罪。
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