帰還
確か……白熊さんのお店で聞いたことがあったはず。今みたいに斑鳩さんが名前を口にして、それで白熊さんは……。
少し、怒っていた。
「あ、の」
鮫島さん、とは?
そう訊ねようとして──口を閉じた。
知った所で、僕には関係のないことだろう。踏み込み過ぎだ。余計な詮索をするなって睨まれるかもしれない。
だけど、中途半端に声を上げてしまったものだから、斑鳩さんは察してくれたようで、
「ああ……鮫島さんな」
あっさりとその人について説明してくれる。
「──丁治の従兄だよ。六つくらい歳が離れてんのに、お袋さん同士が双子だからか、顔が丁治とそっくりなんだ。身長とか雰囲気とかは全然違うから、見間違えたりはなかったけどな」
「……従兄」
白熊さんの、従兄。
いつだったか、白熊さんが言ってなかったか。──顔の蝶は、従兄に彫ってもらったのだと。
『彫ったら何か変わるかもよって言われて、そうしたら本当にさ……変わった』
『俺はただ、見てもらえればそれで良かった。でも、逆に見てくれなくなって、だから隠した』
あの時は蝶をじっくり見られたな……。
じゃなくて。
従兄の鮫島さんに勧められて彫ったみたいだけれど、それなら白熊さんは──誰に見せようと思って、そうしたのか。
気にならないと言えば嘘になるけれど、それこそ、踏み込み過ぎだ。そのことは訊かない方がいい。
「かなり仲が良かったな、あの二人。鮫島さんの後ろを金魚のフンみたいに丁治が追い掛けて、一緒に絵を描いたり、店の手伝いしてんのをよく見掛けた」
「店って、白熊さんの……?」
「そうだ。元々は二人のお祖父さんとお祖母さんがやってたんだ。それを丁治が譲ってもらった」
「そうなんですか」
鮫島さんは彫り師だから継がなかったのか。いやでも、白熊さんだって絵の仕事しているんだよな。
「……あのな、あざらし」
ひどく落ち着いた声で、斑鳩さんが僕を呼ぶ。
「何でしょう」
「店の電話とか、取ることあるか?」
「ありますね。白熊さんがいればすぐに替わってもらいますし、それが難しい時は用件をメモして折り返し電話してもらいます」
「そうか。なら……頼みがあんだけどよ」
座席が軋む。深い溜め息と共に、その言葉は紡がれる。
「もしも……鮫島さんから電話が来たら、すぐに、丁治に取り次いでやってくれ。便所行ってようが風呂入ってようが関係なく、すぐに」
「えっ」
「頼む」
「……はい」
お店の電話は子機だから、そうできなくはないけれど……鮫島さんからの電話は、そこまでする必要があるのか?
斑鳩さんの声にも、どこか必死さがあるし、何なんだいったい……。
──ふいに、窓をノックされる。
僕のすぐ傍からだ。顔を上げながら視線を向ければ、人鳥がそこにいた。笑いながら手を振っている。
人鳥が座れるように横にずれると、人鳥はすぐにドアを開けて乗り込んできた。
「お待たせしましたー。ペンギン、ただいま帰還!」
「おかえり」
「おう、ちょうどいい。話し終わった所だ」
「なんだ、遅かったかー。ねえ斑鳩さん、まさかとは思いますけど……海豹のこと、泣かせたりとかしてないですよねー?」
ちょっと人鳥、と声を掛けようとしたけれど、真っ直ぐに斑鳩さんを見つめる人鳥の横顔からは、さっきまであった笑みが消えており、驚いて声が出なかった。
真剣なその顔は、ふざけた返答を許さないように見える。斑鳩さんもバックミラー越しに見ているのか。
「んなわけねえだろ。あざらしの顔見れば分かんだろうが」
斑鳩さんが返事をしてすぐ、人鳥と目が合った。
物珍しい人鳥の無表情に、居心地の悪さを感じたけれど、ものの数秒で人鳥は破顔する。
「疑ってごめんなさーい」
「悪いと思ってんならシートベルト締めろ。あざらしもな」
そう言うなり、斑鳩さんはエンジンを掛け始め、僕らは慌ててシートベルトを締める。
「で、ペンギン。勝敗は?」
僕らの方は見ずに斑鳩さんが訊ねてきた。
「負けですよー、負けも負け、大負け。とびっきり強い奴を宛がわれて、なす術もなく秒で負けたら、本気でやってないだろとか変ないちゃもんつけられて、もう一戦。また負けたら、やっと解放されましたー」
「そうか、ご苦労だったな」
斑鳩さんが返事をすると同時に、車が動き出す。
帰るのか……と思ったけれど、その前に白熊さんの元に寄るんだった。何か渡したいものがあるとのことだけど……何なんだろうか。
◆◆◆
車を駐車場に停め、僕らは斑鳩さんのお店の前まで戻ってきた。お向かいにある白熊さんのお店は、既にシャッターが閉まっている。
「丁治ー! あざらしだぞー!」
目線を上に上げながら、斑鳩さんが叫んだ。迷惑になっていないか、慌てて周囲を見渡していると──おかえりと返す、白熊さんの声が耳に入った。
声のした方を見ようと顔を上げれば、二階の窓から顔を出す白熊さんと目が合う。随分久し振りに見たような気がして、無意識に肩の力が抜けていた。
「今行くよ」
そう告げるなり、白熊さんの姿は消える。
「今日のバイト代取ってくるから、そこで待ってろ」
斑鳩さんも店に引っ込み、僕と人鳥だけがこの場に残った。
「なあなあ、海豹」
「何?」
「この後、暇?」
「……」
そうか、バイト代が入ったなら、どこかに遊びに行くって選択肢もあったのか。真っ直ぐ家に帰らなくても、良かったのか。
ここで頷けたら良かったけれど、それは無理だ。
「ごめん、白熊さんと話がある」
「年上にモテモテだなーあざらしー。なら、明日は?」
「明日……はごめん、ゴールデンウィークの最終日まで、バイト入ってる」
「そっかー」
「……あのさ、放課後でも良かったら、火曜日、空いてるけど」
「なら、その日に行こう!」
ほっと息をつくと、肩をばしばし叩かれた。無邪気な人鳥の笑顔を見ていると、思わず僕も口角が上がる。
人鳥が何か言おうとした所で、斑鳩さんのお店の扉が開き、次いで、白熊さんのお店のシャッターが音を立てて開き始めた。
「相変わらずうるせえな……。ほらよ、無駄遣いすんなよ」
「ありがとうございます」
「ありがとうございまーす!」
差し出された給料袋を軽く頭を下げながら受け取り、顔を上げようとした、その瞬間、
「じゃあ、あざらし君もらうね」
いきなり二の腕を掴まれ、後ろに強く引かれた。
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