心配性

 無駄に長く感じたけれど、実際はきっと、そこまで時間は経っていなかったのかもしれない。車のバックドアが閉まる音に肩が跳ね、間もなく、運転席に斑鳩さんが乗り込んできた。

 静か。

 窓は閉め切られ、外から聴こえてくる音は小さい。お互いの呼吸の音も小さい。それ以外は何の音もしない。

 僕から言うことは何もないので、口を閉ざし、膝の辺りを軽く掴みながら、目の前にある運転席の背もたれを見つめていた。

 できるだけ、バックミラーを視界に入れないように気を付ける。斑鳩さんは今、バックミラー越しに僕を見ているんだろうか。あの三白眼を鋭くして。

 そうして身構えている所に、斑鳩さんが話し掛けてきた。


「ペンギンって、将棋の腕はどうなんだ?」

「……普通です。あっさり負ける時もあれば、接戦になることもあります」

「なら、いつ戻ってくるか、分かんねえな」

「……ですね」


 時間は、有限だ。


「──朝のあれ、いつもやってんのか?」


 さっそく斑鳩さんはそう訊ねてくる。調理場で白熊さんが、僕に蝶を見せようとしてきた時のことだろう。布を掴む手に力を込めながら返事をした。


「いつもってほどでは。片手で数えるくらいです」

「……そうかよ。お前から頼んでんの?」

「まさか。白熊さんのご厚意で、あの綺麗な蝶を見せてもらっているだけです」

「ご厚意、綺麗な蝶、か」


 斑鳩さんは僕の言葉をそこだけ繰り返す。何か変なことを言っただろうか。そんなつもりはないけれど。


「気になんのか、あいつの蝶」

「……はい」


 一目見た時から目に焼き付き、頭からまるで離れない。叶うなら、気が済むまであの蝶を眺めていたい。

 ……別に蝶なんて特別好きじゃない、そもそも虫が得意なわけでもないのに、どうしてこんなに、あの蝶に心惹かれるのか。

 何か、思い出しそうになる。

 あの日、急に風が吹き、白熊さんの髪が舞い上がって──そこまで思い出した所で、斑鳩さんが口を開いた。


「お前も彫りたいのか?」

「いや、さすがに」


 痛いらしいと噂に聞く。それに彫ってしまったら、簡単には戻せないとも。……それを白熊さんは、顔面にやったのか。


「やめとけやめとけ。あんなもん彫ったら、気軽に風呂屋とか、プールや海になんか行けねえぞ」

「……そう、ですね」


 そういうデメリットもあると、聞いたことがある。それでもいいと思えたから、白熊さんは自身の顔に蝶を迎え入れたのか。


「他には、そうだな……タトゥーがあるってだけで、いなくなる人間もいんだよ」

「……いなくなる?」

「丁治の場合は顔面だろ? わざわざ顔に彫るとか意味分からん、怖い、痛々しいって、あいつの傍から人がいなくなっていくのを、この目で何度も見てきたし、なんてことない調子で丁治が話すのを聞いたこともある。前髪だけじゃ隠しきれねえんだろうな」

「……」

「逆に、タトゥーがあると知ってて近付いてくる人間なんて、これまで一人もいなかったんだが」


 ふいに、座席が軋む音がする。運転席からは深い溜め息も聴こえた。


「……まじまじと見てたんだって?」

「はい?」

「丁治が言ってた。風が吹いたせいでうっかりタトゥーが丸見えになった時、常連の高校生にすげえ見られたって。何か言いたそうにしてたとも聞いた。何を言いたかったのか疑問に思ってたら、その日の内に店まで来たから驚いたって。落とした白熊を拾って手渡してくれるし、顔見て会話してくれるし、あいつ曰く珍しい奴だとよ。そこからお前のことを気にするようになったみたいだぞ」


 普通に、をすごい強調してくる。

 あの時は、頭に落ちてきたぬいぐるみを、落とし主が取りに来るのに放置なんてできなかったし、たとえば蝶のことがなくても、不都合がなければ人の顔を見て会話するだろう。

 今、怖くてできてないけれど。

 斑鳩さんは目付きが悪すぎる。悪い人じゃないと分かってても、向き合う時に若干怖じ気付いてしまう。……でも、白熊さんにはそれがない。

 あの人の傍にいると、落ち着く。


「なあ、あざらし」


 斑鳩さんの声が、一段低くなった。


「お前が丁治の傍にいるのは、あいつのタトゥーを見ていたいから、それだけなのか?」

「え?」

「──お前はあいつのタトゥーにしか興味がなくて、あいつ自身は眼中にないのかどうか、聞きてえんだけど」

「……えっと」


 今、どんな顔をして斑鳩さんは話しているのか。わりと、訊くのも答えるのも恥ずかしくなるようなことを、言ってないか?

 顔を上げたくなるけれど、絶対目付きがとんでもないことになっていそうだから、そのまま視線を下に向けて考える。

 白熊さん。白熊丁治さん。

 僕に顔の蝶を見せてくれる人。──それだけの人では絶対ない。

 さんざんあの人の世話になっておいて、そんな認識になるのは、恩知らずにもほどがある。


「白熊、さんの」

「丁治の?」

「……白熊さんの、おかげで、その……呼吸ができているんです」

「……は?」


 蝶のことを知ってから、距離が近くなった。だけどそれ以前から、僕はあの人に助けられてきた。いや救われてきた。

 あの人の握るおにぎりに。

 あの人の態度に。


「息苦しいことしかない日々の中で、白熊さんの存在は、呼吸する為の穴を開けてくれるんです」


 頬に熱を感じる。口を閉ざしたい。それでも一応、これは伝えないと。


「──綺麗な蝶がいようといまいと関係なく、僕は、白熊さんに恩があります。それを返せるなら返していきたいと思っています。蝶だけが目当てで、あの人の傍にいるわけではないです」


 初めて蝶を見たあの日、人差し指を一本口の前に立てて、いたずらっ子のようにはにかんだ白熊さん。

 それがとても、魅力的だったはずだ。


「……そうかよ」


 また、座席が軋む。一際大きくその音は聴こえ、何となく顔を上げたくなったからそうした。運転席の斑鳩さんはちょうど、つるんとした頭を荒々しく掻いている所だった。


「タトゥー目当てで丁治の傍にいるんだったら、あいつは見世物じゃねえぞって釘刺すつもりだったが、何だよ、丁治自身にも目は向いてんだな。早とちりしたわ」

「……誤解が解けて何よりです」

「そうだ、誤解な」


 鋭い視線を感じて、すぐに俯いた。バックミラーを見るのはまだ怖い。


「──あの距離感は誤解を生む! 控えろ! 破廉恥だろうが!」

「はれっ、えっ?」


 急にスイッチ入ったな、この人。


「あいつは昔から男女問わず、親しくなると他人との距離が近くなりすぎんだよ! あいつが気にしない分、お前が自衛しろ!」

「自衛って……」


 確かに、言われてみれば距離、近いな。


「たくっ、あいつは何度言っても態度を変えやしねえ。それで勘違いする奴も昔はいてよ、特にどっ……どう、こう、なったりしないから、気持ちを弄ばれたとか言って何故か俺ん所に来て、言いたい放題ぶちまけてきたり、たまに平手打ち食らったりしたから意味分かんねえよ」


 どうやら斑鳩さん、過去のトラウマを思い出してしまったらしい。僕に言われても。

 余計に顔を上げられないまま、僕は──その名前を耳にした。


「ぶたれた俺の顔を見て、が指差して爆笑してきたし、この手のことにはろくなことがねえ」

「……鮫島さん?」


 その名前、どこかで聞いた覚えがある。

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