バイト代について

 自宅最寄り駅は、近くに飲食店が建ち並んでいるせいか、それなりに賑わっている。仕事着の大人、私服姿の同年代とすれ違い、真っ直ぐ向かうは改札口。

 幾重もの知らない人が改札に飲み込まれていき、逆に吐き出されてもいた。今から僕も、そこに加わる。

 いつも通りに改札を抜け、いつも通りにホームに向かう。乗りたい方向に待つ人の数は少ない。平日もこうなら楽なのに。いつも立つ場所に行き、スマホを見るとメッセージが来ていた。白熊さんだ。


『起きた?』


 こちらにウインクする可愛らしい白熊のスタンプも送られていた。小さな耳のすぐ上に、赤い文字でおはようとある。午前六時ちょうどに送られたみたいだけど、残念ながら、僕はその時まだ夢の中だ。


『一時間前に起きました。これから電車に乗る所です』


 すぐに既読になることはないだろう。白熊さんは今日も店を開ける。僕が斑鳩さんの手伝いに行くから、午後は閉めるらしいけれど。いつも通り、絵に集中すると言っていた。


「……」


 取り敢えず、お辞儀をする白熊のスタンプを送っておいた。バイト初日に白熊さんと連絡先を交換した際、いくつか白熊のスタンプをプレゼントされたから、使わないと申し訳ない。

 そのままスマホをしまおうか迷っているタイミングで、電車が来た。落とさないよう手に持ったまま乗り込むと、席がいくつか空いていたから腰を下ろす。扉が閉まると、無意識にスマホを操作していた。

 ──黒花てふてふ。

 検索バーにそう打ち込む。ほどなくして、色んな白熊のイラストが出てきた。


 星に紛れて夜空に浮かぶ無数の白熊。

 土の上を駆ける馬に乗って手綱を掴む白熊。

 波打ち際で水を掛け合う二頭の白熊。

 そして、部屋の窓から外を眺める白熊の後ろ姿。その横に──学ラン姿の少年がいる。こちらも背を向けているから、顔は見えないけれど……。


 これってあの日、描いていたやつですよね? 僕まで描いてくれたんですか?

 何となく、そう言えずにいる。

 後ろ姿なんて、写真か絵でないとちゃんと見ることはできないけれど(鏡は首が痛くなる)、他人の目から見た僕の後ろ姿ってこんななんだ、というか、あの時背中も見られてたんだなと、若干恥ずかしくなってきて、言えないでいる。

 姿勢が悪い、猫背になってる、とよく言われていたけれど、本当だったんだな……。

 白熊さんが黒花てふてふの名前で登録している無料サイトも見た。窓を眺める白熊は、投稿された中では最新のイラストらしい。他には、と探そうとして、ふと、アイコンが目に入る。

 黒花てふてふという名前だけど、白熊だった。こちらに背中を向けて、紅い蝶を追い掛けている。──その白熊の背中に、可愛らしい一輪の黒い花が描かれていた。


「……ん?」


 白熊はそのまま白熊さん。追っている紅い蝶は白熊さんの顔にいる。なら、背中の黒い花は……。


◆◆◆


 白熊さんの店に着くと、おにぎりを買いに来たらしいお婆さんが、財布をバッグにしまっている所だった。

 出ていくお婆さんに会釈をして、ショーケースまで近付くと、白熊さんは眠たそうな無表情で僕と目を合わせる。


「おはよう、あざらし君」

「おはようございます、白熊さん」


 基本的には、夜の十時に眠るようにしているらしい白熊さん。それでも、翌日の仕込みやイラストを描いている内に、日付けが変わることもあるのだとか。あの顔を見るに昨夜もそうだったらしい。


「ちょっと調理場にまで来てくれないかな。今日配る予定のおにぎり、ベルーガが来た時に持って行きやすいように、そこのベンチに置いておきたいんだ」

「分かりました」


 ショーケースの傍にある扉を抜けて、調理場に。壁と床は青色だけど、それ以外は銀色に統一されている。冷蔵庫に棚、流しに作業台。

 作業台には、両手でないと抱えられないほどに大きな、クリーム色の箱が三段積み重なっていて、最初に一番上の箱に手を伸ばした。


「──あのさ、あざらし君」


 扉の開閉音がしたと思ったら、白熊さんの声が耳に届く。手を引っ込めて振り返ると、閉じた扉にもたれる白熊さんがそこにいた。

 どうしたんですか、と訊ねたら、今日なんだけど、と言いながら首を傾け、どこか気だるそうに白熊さんは言葉を紡ぐ。


「ベルーガの用事が終わったら、真っ直ぐ家に送ってもらう予定だったよね?」

「……はい」


 斑鳩さんのバイトが終わる頃には、白熊さんの店も閉まっている。そうなると寄る理由がなく、、家に帰れる。帰れてしまう。なるべく、終わった後のことは考えないようにしていたけれど……。


「ベルーガには後で伝えるけど、それ、変更してほしいんだ」

「えっ」


 無意識に下がっていた視線が上に向く。白熊さんの眠たそうな無表情には何の変化もないから、その言葉の意味を探れない。探れたことなんて一度もないけれど。


「今日のバイト代にさ、君に渡したいものがあるんだよ」

「……あの、バイト代、斑鳩さんからもらえると聞いてます」

「ベルーガのとは別に、僕からも渡したいんだ」


 そこまで言うと、白熊さんは僕の元まで近付いてくる。


「写真、撮ってきてって頼んだでしょ? そのお礼にさ」

「……悪いです、そんな」

「ちなみにお金じゃないよ。君の性格的に気にするかなと思って、それ以外のものにした。受け取ってくれると嬉しいんだけど……迷惑?」

「迷惑とかは。ただ、申し訳ないなと。上手く撮れるかも分からないですし」

「……そっか」


 白熊さんは僕の目の前で立ち止まった。頭一つ分大きな白熊さんを、いつも通り見上げる。……見えない紅い蝶を探すのも、今や癖になってしまった。

 きっと白熊さんにもこの癖はバレているだろう。ほんのり白熊さんの口角が上がる。


「上手く撮れても、撮れなくても、あざらし君が俺の為に撮ってくれたら嬉しいし、それを有効活用できるよう描くつもり。……もしかしたら、君に渡したいもの、あんまり嬉しくないものかもしれないから……こっちだったら、気にしない? むしろ嬉しい?」


 訊ねながら、白熊さんの左手が動く。その手が向かう先は、白熊さんの伸びた前髪。指を差し込み、ゆっくりずらした。


「白熊、さん」

「どっちか選んでいいよ、あざら」

「──何してんだよ、お前ら」


 扉の開閉音は聞こえなかった。

 それでもいつの間にか、入ってきていたらしい。


「バイト代についての相談だよ、ベルーガ」


 三白眼を細めて人相の悪くなった斑鳩さんが、扉の傍に立っていた。

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