ベルーガとも出会った
でかい人だ。白熊さんよりもでかくて、ずっと見ていたら首が痛くなりそう。
「海豹、です。今日からここで働くことになりました」
名乗られたので、僕も名乗り返した。頭を軽く下げてそうしたら、そんな畏まらなくていいと、苦笑混じりに言われる。顔を上げると、斑鳩さんはうっすらと笑みを浮かべて、僕のことを見ていた。
お坊さんみたいに綺麗な坊主頭。けれど、僕を見つめるその三白眼が、少し逃げ出したくなるほどに怖い。あと、灰色のスカジャンを羽織ってるのも相まって、どこか近寄りがたい雰囲気があった。スカジャンの下に白いコックコートを着ているけれど、雰囲気緩和には繋がりそうにない。
細身だけど、腕っぷしとか強そうな感じがする。洋食屋さんで働いているなら、そうそう拳を使うような事態にはならないだろうけれど。
「今日からか。今後何かと顔を合わせる機会もあるだろう、よろしくな。……前もって言ってくれたら、祝いの品でも持ってきたのによ」
「お、お構いなく」
返事をしたのは僕だけれど、斑鳩さんの視線は僕の横、そこに立つ白熊さんへと移っていた。
──現在、僕は白熊さんからレジの使い方を教わっている最中だ。
集中しないといけないけれど、初めて会った時はこんなことあったよな、ここに立っている時の白熊さんはどんなことを思っていたんだろう、とかつい考えて、同じことを何度も訊くような迷惑を白熊さんに掛けていた。
怒らないで対応してくれるから気持ち的にとても助かるけど、罪悪感と緊張で吐きそうになってきた。
そんな時に、斑鳩さんは来店した。
白熊さんがいらっしゃいませも言わずに、煙草? なんて彼に訊ねたのが不思議で(ここはおにぎり屋のはずだ)、視線を向けたら、怪訝な目で僕を見てくる坊主頭の人の姿があり、そこから自己紹介の流れになったのだ。
この子、うちのバイトだよ、みたいに白熊さんが紹介してくれる形で。
「また今度の機会にお願い。あざらし君もさ、遠慮しないで受け取ってあげてね」
「いや、あの」
「あざらし? ……ああ、例の、お前のぬいぐるみを拾ってくれた高校生か」
「そうそう。二回も拾ってくれたし、絵の手伝いもしてくれた」
「その末に、バイトとして雇ったってわけか。お前の思いつきは、いつも他人を巻き込まないと気が済まないんだな、丁治」
丁治。
一瞬ぴんと来なかったけれど、そうだ、白熊さんのことだ。白熊丁治。まあ、僕が下の名前で白熊さんのことを呼ぶ機会なんてそうそうないだろうけど。
「そこまで思いつきで行動してないよ」
「いや、してっから。お馬さんに乗った白熊を描きたいとか言って、競馬場まで俺に車出させたり、浜辺で遊ぶ白熊を描きたいからって、海のある隣県まで俺に車出させたり。朝の八時ならまだ良くて、五時に起こしに来たこともあったよな?」
「──ベルーガだって楽しんでたじゃん」
「今はその名前で呼ぶなよ……」
途端に、疲れたような顔で溜め息をついた斑鳩さん。ベルーガって……シロイルカのことだったはず。斑鳩さんが働いているお向かいの店の扉に、そういえばシロイルカが描かれていたけれど、そこからそう呼んでいるのか。
ぼんやりと二人のやりとりを眺めていたら、僕の視線に気付いたらしい白熊さんが説明してくれた。
「彼ね、斑鳩
「おい!」
か、可愛らしい名前だ……。
斑鳩さんは自分の名前を気にしているのか、真っ赤な顔で白熊さんを睨みつけていた。人相が一段と悪くなっている。ショーケース越しに向かい合っているけれど、それがなかったら、胸ぐらとか掴んでそうだ。
「……たくっ。俺とお前の名前が逆だったらちょうど良かったのにな」
「何言ってんの。君の名前は、俺にも似合わないと思うけど」
「いーや。お前、女顔じゃん。似合ってるって」
「ちょっと童顔なだけだよ」
白熊さん、気にしてんのかな、反論が早かった。
……蝶にばかり目が向いていたけれど、そういえば、あんまり白熊さんの顔の造形とか気にしたことないな。基本前髪で左側隠れてるし。
見ようかな、と思って視線を動かそうとしたら、はいはい童顔な! なんて斑鳩さんが大きな声を出す。驚いて彼を見たら、苛立たしげに頭を掻いていた。赤くならないか心配だ。
「どっちでもいいが、俺は煙草を吸いに来たんだ。あんまり遅くなると親父がうるさいから、もう行かせてもらうぜ。……親父だって昔はすぱすぱ吸ってたくせに、何であんなうるさいんだろうな」
「自分がそうだったからこそ、我が子の身体が心配なんじゃない?」
「お前のことも気にしてたぞ」
「気にしないでもらって」
親父に言え、と溜め息混じりに告げると、斑鳩さんは足早に、調理場や二階に続く扉へと向かう。
話の流れ的に、職場では吸えないから、ここで吸うのか。そこまでして吸いたいものなのか、煙草って。
白熊さんに訊いてみようかと視線を向けたら、いつの間にかレジを指差していた。おさらいしてみようか、とのこと。
それもそうだ、今は使い方を教わっている所なのだから。レジに向き直り、操作しようとして──そうだ、と斑鳩さんが声を上げた。
「
「──ないよ」
「……っ」
思わず、指が止まる。
聞いたこともない声。
白熊さんの短い言葉には、ほんのり怒りが込められていた。
僕が何度同じことを訊いても、こんな声を出さなかったのに。
「あざらし君、続けて」
「……」
「あざらし君?」
「……あ、すみません」
白熊さんの声の変化が気になって、レジの練習にあまり身が入らず、ちょっと休憩しようか、なんて言わせてしまった。
せっかく勧誘してもらったのに、この体たらく、穴があったら入りたい……。
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